「ふぅ…」

木枯らし荘の扉を閉めると同じぐらいのタイミングでため息が出た。車田くんがここまで送ってくれたのに最後は結局、恥ずかしさに負けてほぼ逃げると同然のことをしてしまった。本当はもっとちゃんとお礼が言いたかった。もし秋さんのように明るく素敵な女性だったなら、あそこでちゃんとお礼が言えたんだろうなぁと思う。それに、マネージャーの問題も方も心にのし掛かる。もう一つため息をついて、靴を脱いでいると「おかえりなさい、今日は遅かったね」と例のアパートの管理人の秋さんが奥の方から出てきてくれた。

「ただいま…」
「どうしたの?元気ないね」
「ちょっと…色々と…」
「ふふ。ご飯食べながらその色々の話、聞かせてね」
「うん…」

秋さんはいい人だ。話を聞くのも上手だし、料理も上手いし、人当たりもいい。女性の鑑のような人だ。木枯らし荘に住んでいるみんなに好かれている理由がよくわかる。

(マネージャーのこと相談してみよ…車田くんへのお礼は、これは…自分で考えるべきか)

この男女絡みに関して相談は恥ずかしかった。つくづく自分は思春期だと感じる。保健体育の授業でなんだかんだ習ってはいるけれど、逆らえないものだ。
二階の自分の部屋にカバンを置いて、また急いで一階に降りた。さっきから美味しそうな匂いがしてきているので今日の夕ご飯が楽しみで仕方がない。





「へぇー。その車田くんって子いい人ね」
「そう、車田くんすごく優しくて…って今それはいいの」

これほど生き生きと語ったなまえを木野秋は見たことがなかった。いつも借りてきた猫のように大人しくおしとやか…これは少し言い過ぎかもしれないが、車田のことを話すときに限ってはつらつとしていることに間違いはない。彼に会ってなまえの何かが変わり始めている。木野はもう何を言わずとも恋をしていると気付いた。それほどなまえは分かりやすい人間だった。車田の話題はともかく、なまえが早急に相談したいのはマネージャーの問題だ。なまえは今までのロココ事件から、先程の車田との会話まで全て説明し、どうすればいいのか木野に教えを乞う。

「やったらいいじゃない」

きょとんとした顔で、予想外にシンプルな答えが返ってきた。木野のことだからよく考えてくれそうだと思ったのだが、なまえは拍子抜けした。

「だって、足手まといになるかもしれないのに?」
「一生懸命やってれば、誰も足手まといなんて思わないよ。それに出来ないことがあったらその辺の男の子に助けて貰えばいいのよ。男の子って結構優しいんだから」

器用にぱちんとウインクをする木野。なまえはアメリカンだとひっそり思った。やはり彼氏がアメリカに居るせいだろうか。アメリカンにしてはこの肉じゃがおいしい、と箸を進める。

「秋さん手慣れてる感じだけど、もしかして何かのマネージャーやったことあるの?」
「あら?言ってなかったっけ。私雷門中サッカー部のマネージャーだったのよ」

あまりに驚き肉じゃがを食べ進める手が止まる。こんなに美味しいのに。箸も手から滑り落ちそうになった。「聞いてないよそんなの!」と全身の毛が逆らった猫のようななまえを木野はごめんごめんと苦笑いでなだめる。なまえは差し出された水を一口飲み、落ち着いた。

「…でも、マネージャーの先輩がいると心強いな」
「もしかしてやる気になった?」
「うん。自分で頑張って、どうしても無理なことがあったら誰かに助けてもらうよ。久遠監督、とか?」
「お手伝いする久遠監督…ちょっと面白いかも」
「あの人、真面目そうだからね」

マネージャーになることに心を決めたなまえはすっきりしたように木野と話をするのだった。





「あ、木暮さん。おかえりなさい。お疲れさまです」
「うん、ただいま…。つーかさ、お前いい加減敬語やめろよな。気持ち悪いんだけど」
「き、気持ち悪い…ですか」
「うっしっし。さーてメシだメシ」

木暮は何年も前から変わらないいたずらっぽい笑い方で特徴的な四本の髪を揺らし、ぽかんとしているなまえの頭をぽんぽんと軽く叩いてから部屋に戻った。廊下でなまえはまた「気持ち悪い…」と呟く。
折角なのでここで一つ、種明かしをしたいと思う。歳上の木野とため口で気さくに話しているところからも分かるように、名字なまえは育ちのいいお嬢様ではない。少々過保護な親は持ってはいるが、お金持ちではない。つまり、車田は勘違いをしているのだ。彼女が敬語で話しているのはつい最近までなまえは軽めの男性恐怖症だったせいで、今まで外にあまり出たことがないのも同じ理由だ。中学に入学し、男性とコミュニケーションをとれるまでには回復したが、男性と話す時のみの敬語の癖だけは後遺症のように抜けなかった。それさえ除けばなまえも恥ずかしがりの普通の女の子だ。
木暮が気持ち悪がったのは自分自身敬語を使われた経験がほとんどなかったからと単にからかいだったが、不安になったなまえはすぐさま自室に戻り、敬語を直す練習を始めたのであった。

そして次の日の朝。

「こっ、木暮さん、お、お、お…おは、よう………?」
「うっしっし、挨拶するのに何秒掛かってんだよ」
「敬語使うなって言ったじゃないですか…」
「ほらまた敬語」
「うっ」

その後、会話を聞いていた木野が木暮を叱り、それを見たなまえは無理して敬語を直さなくてもいいのだと悟るのだった。

車田が勘違いに気付くのと、なまえの男性に対しての敬語が完全に抜けるのは、まだまだ時間がかかりそうだ。

white.5
Honorific.




- ナノ -