「うぅ…」
「ほらみろ車田、起きた」
「南沢のせいだろ」

車田と南沢の罪のなすり付け合いを気にもとめずに、というか気付かずになまえは顔を青ざめさせていた。まるで母のように顔色が悪いのをすぐに発見した三国が、「具合でも悪いのか?」となまえの背中を擦る。ある意味三国の気遣いは高級百貨店よりも一級品だった。しかしあの二人の威圧感のある視線にはっとして、だらだらと冷や汗をかいていた。
とりあえず、なまえは具合が悪いわけではないようだ。だいぶ本調子に戻ってきた顔色を両手で覆い、ぽつりと呟いた。

「あ、悪夢を見ました…」
「あくむ?」
「久遠監督の机のうえがコーヒーで水浸しになって資料が大変なことになる夢です…」
「……ああ」

小さな口からもれる盛大な溜め息に、なんとなく肩を叩きたくなる瞬間だった。

その事件を防ぐべく、次の日の午前中の練習時間、なまえは職員室を訪れた。教師は少ないがいつもと変わらず、コーヒーのにおいが漂っている。嫌いなにおいではない。

「あの…久遠監督、机の上を整理してみませんか」

心配そうに胸の前で手を握り、何やら物書きをしている久遠監督に訴える。もしあれが正夢にでもなって、ただでさえ散らかっている机の上がコーヒーの洪水で大惨事になるのが恐ろしくてしかたがない。ある意味常々思っている片付けの話を切り出すいい機会かもしれない。大の大人に対していささか心配し過ぎかとは思うが、綺麗好きな性格は譲れなかった。久遠監督は机上から目線を返さずになまえに返答をする。

「これでも自分で分かるところに置いているつもりなんだが」
「あ、す、すいません!でも机の上に紙類たくさん置いてるといつ間違いで、コーヒーまみれになるか心配で、その」
「…わかった、出来るだけ努力はしよう」

「よかった…」となまえは胸を撫で下ろす。みんなの練習中に一人だけ部活を離れるのは忍びなかったので、ドアの前で大きく一礼をするとグラウンドに向かって急いで駆け出した。

妙な安心感に包まれつつ、二日目の仕事と勉強を終了させた、のだが。夕食前、職員室から食堂に帰ってきたなまえの表情はなぜか浮かない。

「机!どうなってたと思いますみなさん!」

サラダ用のフォークを握る手が小刻みに震えている。そうやって悔しがってるところを見る限り、片付いていなかった、もしくは改善はされていなかったことが前提となる。なまえが感情を露にする珍しい言動に四人組は目をぱちくりさせていた。一応「ど、どうなってた…?」と誰からでもなく聞き返した。

「紙を…そっくりそのまま床に下ろしただけだったんです…」
「……ああ」

そう遠くない未来、なまえが強制的にプリント類をファイルにとじることになるのは間違いなかった。





「はー、さっぱりしたぁ…」

風呂の効果は絶大なもので、久遠監督の一件がなかったかのようにすっきりした表情で出てきた。浴場は覗きの格好の場となりそうだったが、残念ながら露天風呂のようにもなっていないし、天井付近に隙間があり音が聞こえるわけでもない。人生そう上手くいかないものだとやましい考えを持っている少数の男共は落ち込んでいた。その代わりに風呂上がりの姿を目に焼き付けておこうとするも、長袖のジャージに阻まれる。昨日のうちに男のロマンは儚く崩れ去ったのだった。

「あ、南沢くん」

廊下の途中にある自動販売機で水を買っていた南沢とばったり出会した。前後左右、人の気配なし。やはり待っていればチャンスは来るものだと南沢は内心にやりとする。

「そのお水おいしいですよね」
「ああ」
「それのみかん味とかりんご味とかもあるんですよ」
「へえ」
「自動販売機にあんまり売ってないのでスーパーに……」
「じゃあ今度寄ってみることにするよ」

他愛もない話をしながら然り気無くなまえを壁まで追い詰めた。身長が同じほどの顔の横の壁に手を付けば、逃げ道はない。耳元に南沢の唇が寄る。『かっこいい南沢』友達が褒めちぎる美形。それのせいと言うよりは、異性がこんなにも近いことが恥ずかしかった。しゃがめばなんとかなりそうな気もするが、気が動転しているなまえにはその考えは浮かばなかった。

「なまえ」
「は、はい?」
「俺のこと、好きか」
「好きですよ?」
「車田は?」
「す、好きです」

少し口ごもったなまえに南沢は冷静を装ってはいるがカチンときた。ライクとラブの違いを分かっているくせに、彼女は何故軽々しく自分のことを「好き」などと口に出来るのだろうか。それは優しい彼女が「嫌い」と言ったら南沢は傷付くし、「普通」では白黒ハッキリつけないと南沢が納得しないことも理解しているからだ。

「ほら、そうやって赤くなる」
「えっと…」
「大好きなんだろ。でも、俺も、そういう風にお前のことが好きだ」
「な、なにをいって…」

急に南沢が顔を近付けたのに驚き、思わずなまえは目を固く閉じた。視界を遮断したことで南沢の息遣いや動きが一つ一つ感じ取れてぞわぞわとした。彼には本当に無駄な色気があった。

「単刀直入に言うと…車田となまえがくっつく前に、奪ってやるってことだ」

ふっ、と短く耳に息を吹き掛けると南沢はなまえへの圧迫を解いた。なまえは目を開くと、すっかり熱くなってしまった耳を押さえてずるずるとその場に座り込む。まるで耳レイプだ。南沢をおそるおそる見上げれば、口もとがいやらしく微笑んでいるのが一番最初に目につく。

「じゃあな、覚悟しとけよ」

南沢は紫色の髪をかき上げて去ってしまった。それでもなまえは廊下に座り込んだまま唖然としていた。あの南沢が、あんなことを言うなんて考えてもみなかったのだ。南沢も車田も好きだった。だが南沢と車田に対する好きの性質までは変えられない。なんだか寂しくなり、無意識に車田に貰ったファーのストラップを触ろうとした。

「…ない?」

ストラップのチェーンが、途中で千切れてなくなってしまっていた。

white.17
The second day.




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