「あのー…なにかお手伝いすることありますか?」

部員たちより早く夕飯を済ませたなまえは厨房に顔を覗かせた。最初から最後まで任せっきりでは自分の気が済まないらしい。厨房にいた食器を洗っている長身の人物は男性だった。料理を作ってくれるとなれば、女性かと思い込んでいたので少し驚いた。見知らぬ人、大人の男性、この二つの要素がなまえを緊張させた。見かけは落ち着いてはいるが頭のなかはパニックになりかけている。初めて木暮に会ったときのことを思い出した。あの時は初対面で泣き出しそうだった。だが木暮や木枯らし荘の住民のお陰でいい意味で男性に慣れたのも事実だ。男性は「あー…」と言いながら振り向いた。頭に巻いた長いタオルが揺らめく。あれ?どこかで見たことある人だな…となまえは記憶のファイルを急いであさる。人の顔はよく覚えているタイプだった。三秒である人と顔が一致する。

「あ、雷々軒の!」

思わず指をさしてしまった。こっちに住み始めてすぐに木野に連れて行ってもらった雷々軒の店主だった。

「お、木野さんの下宿の…えーとなまえだな。もしかしてマネージャーやってんのか?」
「はい!」
「あんなに男を恐がってたお前がマネージャーなぁ…」
「あはは…あのあと色々ありまして…」

確かにそうだと苦笑いをこぼす。店主と始めて会ったときは目も合わせなかったのだ。木野の説明によりなまえの男性恐怖症に納得はしていたが、少し見ないうちにこうしてフレンドリーに話せるようになったのが店主にとっては不思議だろう。なまえは少し会話したあとで当初の目的を思い出した。「あの、手伝い」と言いかけたところで店主は「テスト勉強してこい」と食器洗いの手を止めずにいった。そうか、これが漢ってやつか…。後ろ姿を見ながら、なんだかじーんとするなまえだった。

「ありがとうございます雷々軒のおじさん」
「おじさんじゃない、お兄さんだ」





夜の勉強会は昼間とうって変わって静かだった。そのためかなまえがうとうと、振り子のように頭を揺らしてとても眠そうにしている。それを見た車田は、はっきり言って勉強に集中できないでいた。クラスも違う彼女の寝顔は貴重過ぎるほどに貴重だったのだ。こんなことにまでドキドキする自分はおかしい。そう思いながらも半開きの口のまま頬を赤くしている。それを見た三国は片手で目を覆って爆笑しそうになっていた。今は笑い出してしまう天城も敵意をむき出しにする南沢も風呂に行っていないので珍しく胃が痛むことはなかった。ひとしきり笑いを堪えると、なまえの意識が覚醒したようなので大人しく勉強に戻った。車田も慌てて教科書に視線を落とした。

「ふああ…」

目尻に涙を浮かべながら伸びをする。また真面目に勉強を再開するのかと思いきや、あろうことか机に突っ伏してすやすや寝息を立て始めたのだ。なんでそうなるんだ、と車田は椅子からずり落ちそうになった。それでも穏やかな寝息は続く。こんな場合の対処方法をどこかで学んだことはもちろんない。起こそうか、そのままにしておこうか、迷った両手が宙に浮いた。三国を頼っても親指を立てて力強く頷いているだけで。訳が分からなかった。

「名字…」

なんとなく呼んでみるが返事はない。呼吸音と連動して肩の辺りが上下しているだけである。もう一度呼びながら肩を軽く揺すってみるが、やはり起きない。結構な深い眠りに落ちてしまっているようだ。育ちのよいお嬢様にとってこんな環境は、やはり疲れてしまうのだろうかと未だ勘違いの考えを巡らせた。何をしても起きなさそうななまえに、おそるおそる髪を撫でる車田にしては大胆な行動にでた。起きて欲しいのか寝たままでいて欲しいのか、どちらなのだろう。ただ、この眠っている小さな生き物が愛しかった。

「車田くんの変態!スケベ!…ってね」

なまえの真似をして若干高い声を使い、横槍を入れてくるのはもちろん南沢だった。濡れている髪を拭く姿は色気たっぷりでなんとも様になっている。声を掛けられて我に帰った車田は慌てて手を引っ込めた。だが目撃されたのは間違いない事実で、しかもあんなことまで言われてしまっては、みるみる内に顔が赤くなった。その様子をみた南沢はぷくくと吹き出す。

「お前さ…ほんと…」
「あ?」
「純情くんだよ」

なまえ丸い頭を撫で、頂点に音を立ててキスを落とす。それからぽかんと口を開けている車田にドヤ顔を向けた。

「お、お、お…お前が変態じゃねぇか!」
「ああ、さっきの冗談だから気にすんな」
「ふざけんなよこのエロみさわぁ!」

ぎゃんぎゃんと騒ぎ始めた騒音に、なまえが目を覚ましたのと三国が胃を痛めたのは言うまでもない。

white.16
The first day.




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