蝙蝠(こうもり)
脊椎動物亜門 哺乳綱 コウモリ目

こうもりは空を飛んだ。自由に羽ばたく鳥の仲間だと、そう言った。こうもりは鼠に似ていた。地上に生きる仲間だと、そう言った。
こうもりは仲間と空を飛ぶのが好きだった。こうもりは仲間と地上で話すのが好きだった。

ある日、こうもりは空を飛ぶ仲間を奪われた。空を飛ぶ翼をもがれた。それを嘆き悲しむ空の仲間はもう居なかった。




ピッ…ピッ…ピッ…ピッ…いつまでも一定のテンポで続いていく電子音はいっそのこと心地よく感じる。多忙のバダップから頼まれた付き添い代理。出来るだけ早く帰ってくると言ったが、さて何時間先延ばしにされるか。実際、約束の時間はとうに過ぎている。
この短い期間で分かったことは、バダップと操縦士の間にはただの上司と部下にはない固く結ばれた絆があること。誰がどうやっても割って入ることはできないだろう。
「ん…」
操縦士は包帯に巻かれていない方の目をぼんやりと開けた。眩しそうに何度もまばたきをし、霞んだ視界を振り払おうと必死なんだろう。バダップの待ち望んだ目覚めを、俺が側にいていいのだろうか。
「あの…大丈夫ですか」
「あ…」
焦点の合っていない目がだんだんと確かな意思を持ち、しっかりと俺の顔を見据えた。

がだんっ!

いきなり怪我人とは思えない動きで寝台を飛び出し、点滴の針を自身の左腕から引き抜いた。ぎりっと下唇を噛み、鬼のような形相でこちらを睨んできた。
おいおい、敵意むき出しじゃないか。何だって言うんだ。
「大丈夫落ち着いて…俺は軍人だよ」
「ぐん…じん」
ひらひらと手の内を明かし、軍服を見せるとむき出しだった敵意は終息に向かった。
「あー…点滴抜いちゃったな。今先生呼んで来るから寝てろよ」
「………。」

目を離した、一瞬の隙だった。
「居ない…!」
主治医を連れてきた、までは良かった。操縦士は病室から抜け出したらしい。主治医は状況を理解したらしく看護師たちに探すよう指示を出してくれていた。ドアを開けた体制のまま呆然と立ち尽くしていると、バダップが小走りでやってきた。
「どうした?」
「…なまえが居なくなった!」
さっと血の気が引くのが分かった。激しく動いて傷口が開けば、また大量出血で倒れてしまうかもしれない。それでもバダップはいつも通り冷静だった。あいつは行く場所は検討がつく、と言って階段を登り始めた。何階か分からなくなりそうだったが、二階から八階まで登り、そのまた上。屋上。古めの扉を開け放った。勢い良く風が吹いてきて前髪を揺らした。
「なまえ…」
そう呟いたバダップの視線の先には、入院着を着た操縦士がいた。目の前にある手すりに掴まるでもなく、ただ立ち、空を見ていた。振り返らずに彼女はこう言った。
「…わたしも、みんなと空にいきたかったです。地上になんかおりてたくなかったです」
遠回しに、死にたかったと、そう言っていた。
バダップは無言で、しかし確かな怒りを湛えながら、操縦士に歩み寄った。
「歯を食い縛れ」

ばしん!

振り返った操縦士の顔を音が出るほど思いっきり平手打ちにした。相手は怪我人だぞ、と言ってやりたかったが、口出し出来る雰囲気ではなく。
「馬鹿な事を言うんじゃない。あいつらも、誰もお前が死ぬことを望んでなんかいないんだ」
殴った箇所を指先で優しく撫でた。驚きの表情のまま固まっていた操縦士の顔が徐々に解れ、ぼろりと涙を溢した。
「……う、うぁあああぁ…!バダップさん…バダップ、さん…!」
頬の痛みか、言葉の重みか、涙を流しながらバダップにすがり付いた。

相変わらず多忙のバダップに代わり、操縦士を車椅子に乗せて外を散歩していた。怪我はだいぶ快方に向かっていたが、なるべく動かないようにと指示があった。あの屋上に行ってたときも傷が開きかけていて、主治医からこっぴどく叱られてしまった。
「すいません…見ず知らずのサンダユウさんにもご迷惑をお掛けしたみたいで」
「俺が勝手に首を突っ込んだだけさ。なまえはこれからどうするんだ?軍は辞めてしまうのか?」
「いえ…わたしには地上にも大事な仲間がいます。それを守るためならまた飛んでみせます」

取れかけた包帯を風が揺らした。

空の仲間を亡くしたこうもりは、地上の仲間と生きることを決めた。
それでも、飛ぶことを止めようとはしなかった。



110420



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