ガァアン!と訳の分からない和音がやけくそに叩いたピアノから響いた。綺麗な月夜には似合わない汚ない不協和音だ。他の家から苦情が来そうだが、無駄に広い庭と自室が防音の部屋で本当によかったと思う。スランプというものを初めて体験して、悔しくて目から涙が出て止まらない。こんな楽譜を拾って、興味本意で弾いてしまったのがいけなかったんだ。楽譜に書かれているのは何かの歌の伴奏。千切ってしまいたくなったが、懸命に書かれた手書きの楽譜を乱雑に扱うことは出来なかった。
今日はもう、止めよう。音を捨てて諦めるように椅子から降りた。新鮮な空気を肺に入れたくて、部屋の窓を開けた。夜空を見上げればオリオンが綺麗に並んでいる。黙って眺めていたが、暫くすると自然にぽつぽつ言葉が出てきた。

「それ、なんて歌?」
「え」

俺がこぼした言葉は歌になっていたようで。それは間違いなく自分に話し掛けてくる声だった。聞き覚えがないアルトの穏やかな声だ。同年代ぐらいだろう。だが、外をあちこち見回して探しても人影らしきものはない。木が一本近くに生えているだけだ。

「いい声だね。でもさっき荒れてたみたいだけど、どうしたの?」

やけくそに弾いていたのが見られていたようで羞恥心でいっぱいになる。止まっていた涙がまた溢れれてきた。

「ほっといて下さい、スランプなんです。それより警察呼びますよ」
「えぇちょっと止めてよ通りすがりなんだから…あと泣かないで」
「通りすがりの貴方に何が分かるんですか!何故うちの庭を通りすがってるんですか!」

泣いていることまでもばっちり言い当てられて、自棄になって見えない人物に大声で叫んだ。だが相手は飄々としたものだった。

「いやぁ余りにも素晴らしい庭で…。そんなにカリカリしないでさ、ほら、何か歌ってみてよ。さっきのでもいいから」
「歌…?」
「そう、歌。お月様に聞かせようか。楽器がなくても出来る音楽は原始的で素晴らしいと思うよ」

そう言って、何か口ずさみ始めた。少し低めだったアルトの声は、歌い始めてソプラノの高めの声に変わった。歌っているのは、合唱コンクールでよく歌われる歌だった。いつだったか歌ったことがあるような気がする。歌声はとびきり上手いとは言えないが、上手い。

「ほら、男声」

促されて、窓枠に手を掛けながら歌ってしまった。最初は遠慮したけれど、声はだんだん大きくなって行く。歌いながら、俺は思い出した。この曲は歌ったんじゃなくて伴奏だったことを。クラスで一人ピアノを弾けた俺はいつだって伴奏だった。その役目は嫌ではなかったけれど、みんなと声を合わせて歌ったことがない。それは少し悲しかった。
無意識のうちに一番を歌い終わる。歌の見本のように大きな口を開けて歌っていたようだ。

「とっても上手。歌ってて気持ちいい。神様に愛された子の声がする…」

天に召されてしまいそうな、うっとりした誉め言葉。こんな誉められかたしたことはない。顔が熱くなるのを感じた。

「ね、さっき君が歌ってた歌、もっと聞かせて」

当たり前だろう、さっきのは偶然口ずさんだ歌だったのだから。自分で作詞をしたのかもしれない曲を更に人前で歌うなんて、恥ずかしくてそんなこと出来ない。

「無理です」
「あらら、そう。それじゃあまた明日、同じ時間に」
「ま、また来るんですか」
「その歌が聞けるまでね」

それきり彼女の声は聞こえなくなった。まるで文化の違う国の人のようだ。また夜空を見上げて、さっきの歌を思い出してみる。宇宙にだけ聞こえるように、知らない歌詞を口ずさんだ。ハイテンポのそれは、どうも俺をスランプに陥らせた曲に乗せたものらしい。皮肉だ。また泣きそうになった。

その日から毎日同じ時間に彼女は家の国境を越えてどこからともなくやって来る。正体は掴めないままだった。俺としての推測は、あの木の上のどこか。見えないから気楽で良かったのかもしれない。敬語も捨ててしまった。毎日歌ったり、あの曲を弾いて聞いてもらったり、彼女が自前のトランペットを持ってきてピアノに合わせて吹いたりしていた。

「まだ歌ってくれない?」
「嫌だ」

まだあの歌は歌っていない。それに完成さえしていない。その要望を切り出すのはいつでも帰り際だ。完成した歌を聞いて満足したら、きっと「いい歌だった、さよなら」ですぐいなくなってしまうに違いない。
かちゃりと金属質にトランペットを片付ける音が聞こえる。

「じゃ、また明日来るよ」

この言葉を聞くと、安心して眠れるようになった。声だけだが、明日も彼女に会えることが嬉しい。あのアルトの音に逢ってから、魔法のような恋をしていた。

次の日の夜は土砂降りの雨だった。通り雨か。流石に来れないだろうと思いつつ、窓を開いてみた。案の定ざあああと降る雨は、窓枠に当たって部屋の中にも雨粒が浸入した。今の自分の悲しさを表す涙の粒のようで、泣き虫の自分が嫌になった。窓を閉めてソファに寝転がった。天井が霞んで潤む。ああ、嫌だ、また俺は泣くのか。目を伏せると涙が目尻から流れて行った。



そのまま、眠ってしまったらしい。午前五時の早朝に飛び起きた。何故だか胸がざわついて、いてもたってもいられなくなり窓から外を見る。冷たく真っ白に霧が立ち込めていた。あの木にはやはり誰もいない。星がちらつく空は明るみかけていて、藍と橙の二段構造になっていた。時間感覚がなかったら夕日と錯覚してしまいそうだ。物音がしない静かな朝から聞き覚えのある小さな音が耳に入った、ような気がした。

「………」

彼女の気配がする。寒いが部屋着のままで家の外に飛び出した。とはいえ出口までが遠い。広い庭に感謝するときもあれば恨む時もある。霧を掻き分けて門をくぐって、朝の住宅地に飛び込む。霧が濃すぎて人影は見えない。呼び出そうにも、彼女の名前を知らなかった。前にも一度、彼女を呼び出したくなった時がある。時間通りに現れなくて、心配になった時だ。呼び出すのはそれほど難しいことではない。ただ、歌えばいいのだ。それだけで彼女は現れる。霧を含んだ空気を胸いっぱいに吸い込んで、歌の出だしを歌ってみる。朝に似合わないハイテンポ。聞こえるだろうか。

「ふふ…神様に愛された子の声がする…」

やはり、いた。明かりに釣られて集まってくる虫みたいだ。表現が悪いがそれ以外思い付かない。アルトは目の前から響く。倉間ほどの少し小さめの背丈の人影がゆらりと浮かんだ。

「…歌詞考えるの苦労したんだぞ」
「ごめんね無理言ってたみたいで。でも、もっと聞きたい」
「また、来ればいい」
「そうだね」

さよならは、しなくていいらしい。喉元まで込み上げてくる嬉しさで、堪えきれなかった。霧で霞む人影を覆い被さるように抱き締めるた。帰ってしまわないように。どこかに消えてしまわないように。

「あー…君の胸の鼓動がダイレクト。同じテンポで気持ちいい…神様に愛された子の音がする…」

また神様か。ムードを大事にしてくれないものかと思ったが、自分も目を閉じて奥底の鼓動を聞いた。確かに血を送り出す鼓動がいつもより強く、早い。

「君、薄着だね」
「貴女がいるような気がして、飛び出してきたから」
「昨日会えなかったから、寂しかったんでしょ」

図星だという顔をしていると、彼女は少し離れて自分の首からマフラーを取った。それから背伸びをして俺の首にくるくると巻いた。まだ人肌の温もりが残っていて温かい。マフラーが取れて初めてはっきり見えた顔が、にこりと笑っている。白い息が口から漏れた。

「…もっと小生意気な顔してると思ってた」
「失礼だなあ…。さ、こんな寒い所で長話もあれだから君の屋敷に帰ろう、風邪引いちゃうよ。歌も聞きたいし」

にやりと笑い、行こうかと俺の手を引いて来た道を引き返す。いつから俺の家はお前の家になったんだと、文句を言うとまた白い息を吐き出して笑うだけだった。どういう意味かは分からない。
家に帰ると使用人がばたばたと慌てたように走ってきて、「早朝からどこに行ってしまわれたのか心配しておりましたよ拓人さま!」柄にもなく叱られた。「タクトさまだって…」と彼女は必死に笑いを堪えている。だが客として迎え入れられると抜けた感じのその顔はキリッと音を立てるぐらい凛々しく変わった。切り替えが狩屋みたいなやつだ。

「タクトの部屋広すぎじゃない?」

知ったばかりの名前を呼び捨てにして、興味深々に俺の部屋のあちこちを見回した。一番興味を引いたのが部屋の真ん中に堂々と置いてあるピアノらしい。人指し指でピアノの鍵盤に降れて、ドの音を出す。

「何か弾けるのか?」
「…少しね」

椅子が少し低くて弾きにくいかもしれないが、お構い無しに鍵盤に手を置いた。少し手首を浮かせて、ぐっと力を入れて弾き始めた曲。

「なっ、なんでそれを」

俺をスランプにさせたあの伴奏曲だった。楽譜はしまってある。それに俺のを聞いただけで簡単に弾ける曲だとは思わない。動いていた手は途中でぴたりと止まった。

「私が弾けるのはここまで。難しいの」
「でも、なんでそこまで弾けるんだ」
「楽譜、拾ったでしょ。あれ私のなんだ。父さんの形見」

実は庭に侵入したのは楽譜探すためなんだよね、とケラケラ笑っている。それと真逆に焦って戸棚から楽譜を引き出した。少し黄ばんで年期の入ってるそれをお気楽そうな彼女の目の前に突き出す。亡くなった父親が書いたものを無くして、何故そんなに焦らなかったのか。

「大事なやつだろ!早く言ってくれれば、返したのに」
「大事だけど、タクトに弾いてもらって楽譜が喜んでたから君に任せたんだ。それに私はトランペットが得意だしね」

手のひらでそっと押し返された。その顔は穏やかに笑っている。俺をスランプにさせた楽譜が喜んでいるなんて、まるで生きたように扱うのだ。ふざけているように見えて、真摯に見つめてくる瞳に本気の色が宿っている。それならば俺は、全力で彼女のその思いに応えようと思う。楽譜を握る手に力が入った。

「まさかこれに歌詞を付けてくれるとは思わなかったけど」
「それは、偶然」
「きっと神様に愛された君だから起きた偶然だね。さあ、歌ってよ」
「いや、貴女が歌ってくれないか。俺が伴奏するから」

楽譜の間に元から挟まっていた、歌の音程の楽譜と自分で書いた歌詞の紙を差し出した。どっちかって言うとトランペット吹きたいなと言いつつも受け取って、すぐに音を確かめるようにピアノを弾き始める。

「うわ難し…引っ掛かったらごめんね」

ピアノの前の椅子を交代して、アイコンタクトを取った。その動きだけで、前奏を始めた。朝なのに、心なしか指が軽い。
歌の音程は知っているだろうが、歌詞は初見だ。しかし彼女はいつもと変わらない歌声を響かせた。自分とは違う女声が心地好い。普通の女の人でも出にくい高音を彼女は必死に出していた。時々掠れることもあったが、練習すれば絶対もっと綺麗に出るはずだ。

「タクト、最後の歌詞は」
「そこだけなんだ!あとは!」
「どうする?」
「アドリブで頼む!」

忙しい間奏中に無理矢理話し掛けてくるものだから、大声になってしまった。一番最後の歌詞だけが抜けて完成していないそれをどうするのか、今は考えている余裕がない。全て彼女に放り投げて、躓きそうになる指を動かした。
テンポが穏やかになった終盤、どうなるものかとはらはらしながら彼女の方をちらりと見ると、頬を紅潮させながら必死に口を動かしているのが見えた。彼女は自分で考えた最後の歌詞を歌い上げた。部屋の残響が完全に消えると「ふー…」と同時にため息をついていた。

「どう、最後の歌詞」
「…合ってるんじゃないか」
「よかった」

あとはゆっくり紅茶でも飲みながら、彼女の話を聞こうと思った。それから、ちゃんと名前を聞こう。


111130 名も無き君と二人の楽団



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