上下左右真っ黒、真っ暗だった。立っているのか、中に浮いているのか。自分の体だけが暗い中に浮き出ていて、黒い紙の塗り残し部分みたいだった。こんな変な状況はきっと夢だろうけど、怖くて目を瞑った。それでも視界は同じ色で妙な気分になる。どちらでも真っ暗なことに変わりはないのならば、目を開けていた方が良いのかもしれない。ぽつんと小さく輝くものが一つ現れた。白熱電球みたいな激しい光ではなくて、星のような優しい光だった。ような、じゃなくてこれは星だ。一つだから一番星だ。ただ、不思議なのは見上げて見ているのではなくて自分の目の前にあること。手を伸ばしてみたけれど、星は星らしく掴めなかった。このおかしな夢で唯一現実的だった。
一つの光源の向こう、光を遮ってしまいそうなほど大きく揺らめくものが見える。ゆったりとしたその動きは海を連想させた。その途端、口の端からごぼっと気泡が漏れた。今まで長い時間水の中にいて息苦しいと感じないはずがないのたがここは、夢だ。何でもありなのだ。巨大な揺らめきは次第に近付いてきて、どんどん近付いて…その正体は言葉に出来ないぐらい大きなシロナガスクジラだった。暗い、星、鯨、海。さて、もうよく分からなくなってきた。呆然と見ているうちに大好きなシロナガスクジラは音もなく穏やかに頭上を通りすぎてしまった。その巨体を振り返りながら小さくなるまで見送ると、青い球体が暗い中にぽつんと浮かんでいるものが見えてきた。水の惑星、紛れもない地球はやっぱり青かった。それを見る限りどうやら夢の中は宇宙という設定らしい。海兼宇宙。海中宇宙とでも名付けようか。韻も踏んでいてなかなかいいんじゃないかと思う。鯨は地球を目指して泳いでいるようだ。もうじき彼も地球の海に潜って回遊するのだろうか。いいな、私も一緒に泳ぎたいなぁ、なんて。横を悠々とウツボとかエイとかウミガメとか、次々に泳ぎ去って行く。そこに背後でごぽり、と気泡が出る音が聞こえた。シャチでもホオジロザメでも大抵のことではもう驚かないよ、夢なんだから。なんだったら食べられたって構わない。もう一度、あの綺麗な一番星を振り返った。

「あ…」

夢の中で初めて発した声と、大きな気泡。やっと会えた夢の中の登場人物。輝く一番星を覆うように、そこに立っていた。なるほど、一番星。いちばんくん。夢ながら洒落が利いている。ゆらゆらふわふわ、後ろで束ねた髪がイソギンチャクみたいだ。何事にも真剣に取り組むつり目が真っ直ぐにこちらを見ていた。

「いちばんくん、こんなところでどうしたの?」
「帰ってこい」
「いちばんくん」
「帰ってこい、なまえ」

呼び掛けてもひたすら一方的に帰ってこい、と言うだけだった。そんなこと言われても、こんな所でどこに、どうやって帰ればいいのだろう。クマノミが顔の横すれすれを通り過ぎた。いちばんくんはクマノミを気にすることなく、静かに右手を差し出した。それを握ったら帰れる。理由はないけれどとにかく、そんな気がした。

「うん。帰るよ、いちばんくん。今、帰るよ」

手を重ねると、強く握り返してくれた。温かい人肌。暫くぶりに触れたそれに、何故か涙が出た。海中宇宙のはずなのに、溢れる涙が周りの水と同調せずに散らばって星屑になる。眩しくて、目が覚めそうだ。





俺の大事な人は、事故にあった。こんな状態になるまで大事な人だって、自覚もしていなかった。車に轢かれて、救急車で運ばれて、治療を受けて尚、目を覚まさない。俺の気など知らずに、このままずっと眠ったままでいてしまうのではないかと思うぐらい穏やかな顔で白いベッドの上で眠っているのだ。どんなに暗い夢の中でも目印になるように毎日手を握り、呼び掛けているのに。

「帰ってこい…」

呟く度にじわりと目の奥が熱くなって泣きそうになる。なまえが起きたときに泣いていたらみっともないから堪えていたのに、今回はもう、駄目みたいだ。俯き、シーツと顔を合わせて泣いた。子供みたいに嗚咽が止まらない。少し冷たいなまえの手をまた強く握り直した。お前が誕生日に欲しがっていた大好きなクジラのぬいぐるみも、青が綺麗な地球儀も、全部ここにある。だから、帰ってこい。

「帰ってこい…なまえ…」

ぴくりとなまえの人指し指が小さな反応を示した。ゆっくり弱々しく俺の手を握る。それは偶然ではなくて、明らかに握ると言う意図があった。それに驚き、顔を上げてなまえの顔を見た。

「い、ちばんくん…」

絞り出した掠れ声。いつ振りに聞くのだろう。薄い唇からひゅう、と空気を吸い込む音がした。なまえは目に涙を浮かべて困ったように笑った。その顔に自分の涙にも追い討ちが掛かった。ぼろぼろと溢れて止まらない。でも、さっきのと違う。溢れる涙を拭って無理矢理に笑顔を作った。

「…おかえり。待ってた」

「ただいま」





その後なまえの運動機能も順調に回復し、ついに退院の日がやってきた。気持ちのいい午前のことだった。味の薄い病院食から解放される、とお菓子大好きななまえは大喜びしていた。しかし仲の良くなった小さな子供たちと別れるのは辛そうだった。子供から貰った花束を大事そうに抱えて、彼女はまた泣いていた。
車に乗る直前になまえは両親に折角元気になったから歩いて帰りたいと伝え、荷物からクジラのぬいぐるみだけを持って「いちばんくん、帰ろう」と一言。何も許可していないのだがどうやら俺と帰る気満々らしい。なまえの両親の手前もちろん断れるはずもなかった。


「あのね、いちばんくん。私眠ってるときの夢、思い出したんだけど」

ふかふかの青いクジラを胸元で抱き締めてうっとりと話し始めた。足元がおろそかになりそうで怖いので、いつ転んでもいいように横にぴったり付けた。

「海で、宇宙で、鯨で、一番星がいちばんくんだった」
「一番星?」
「それで、いちばんくんが帰ってこいって言うから私は帰ってこれた」

その言葉を聞いてどきりとした。夢の内容の説明は突飛過ぎて理解しがたかったが、あの呼び掛けは潜在意識に届いていたのかもしれない。照れくさくて、まともに返答が出来なかった。

「ありがとういちばんくん」

でも、彼女の目印の一番星に、俺はなれたみたいだ。


111028 暗い海で見た一番星



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