じっ、とその目が見詰める先には食堂のメニュー表があった。八十年前の手書きからモニター標示に切り替わっていたが、壁に貼ってあることには変わりない。斜め上に向いた目は左から右、右から左へと流れるように文字を読んでいる。隣にたまたま、偶然、奇跡的に、美少年のミストレーネが女子に囲まれることなく食堂にいると言うのに一切目もくれない。気付いていない。腕を組んだり、手を顎に当てたり、体重を掛ける足を変えたり、十秒ごとに体勢を変える。が、やはり目だけは斜め上だ。


「よし、今日はカレーうどん」


うんうん、と納得したように頷き人と会話する程度の大きな独り言を溢した。そしてやはりミストレには目もくれず食券を購入し、受け付けに差し出した。この辺でいい加減立ちながら観察するのは疲れてきたのかミストレは近い席に腰を掛けた。頬杖を付きながらさらに観察を続ける。彼女は横にスライドして箸を取り、水を取り、台拭きと何故か七味を手に取っていた。そのまままたスライドしてカレーうどん受け取り、席を探しながらこちらに歩いてきた。ぴたり、と本日ミストレと初めて目が合う。彼女は目を見開いて一瞬硬直した。盆の上でコップの水がゆらりと溢れそうな動きをする。


「げ…ミストレーネ・カルス…」


今度こそ独り言に相応しい音量で呟いた。正確に言えば、ミストレにはそれが聞こえたのではなくて、口の動きを読んだから何と言ってるか理解できたのだ。それにしても初対面から呼び捨てはないだろう。彼女は目を逸らし、ミストレからなるべく離れた席に着席した。ミストレは「おかしい。きっと女の子なら俺と座りたがるかはずだ。言い出せなくても俺に近い席に座るだろうに」と彼も立ち上がって奥の席に歩く。カレーうどんを食べ始めていた彼女はちらりとミストレを視認し、無視して食するのを再開した。ミストレは近くにあった給水器から水をくみ、二席離れた向かいの位置に座る。それでもカレーうどんを啜る彼女は頑なに無視していた。そのまま暫く二人で相手の出方を窺っていた。



「ねぇ」



話し掛けても反応がない。



「君さ」



ミストレがここまで話して食べるのを止めなかった女の子今までは彼女一人だ。そろそろ終盤なのかカレーうどんの器に口を付けて汁を飲み干し始めた。喉が上下に動いている。



「俺のこと嫌い?」



がんっ!と口の位置から乱暴に降り下ろされた陶器と盆がぶつかった。やはり目はミストレに向かず、真正面を見詰めたままこう言った。



「…君に鼻を折られた時から大嫌いです」



暫く考えてミストレは思い出した。男女戦闘訓練のとき、女子の鼻をバダップと同じ方法で折った。その日は前日にバダップに鼻を折られて機嫌が悪かったらしい。女の子を大切にしているミストレが顔に攻撃するほど、顔も覚えていないほどに憤慨していた。


「あの時はごめんね。君ぐらい強い子なら避けてくれると思ったんだ。なんでもしてあげるから許してよ」


お世辞と甘い誘惑のつもりだったが、それをまた無視して彼女は盆を持ってすたすたと返却口へ歩く。ミストレもそれを追った。やっと距離が一メートル以内に縮まる。返却口に盆を置き両手が自由になった彼女は腕組みをして仁王立ちをした。


「じゃあちょっと目をつぶっていてください」


あぁさっきの会話の続きか、と理解した。約束を守る心優しいミストレーネ・カルスは、まぶたを閉じて大人しく視界を暗くした。もしかして彼女はキスでもするつもりなのだろうか。ミストレのキスを奪ったら他の女の子嫉妬するに違いない。しかしそんなあまっちょろいものではなかった。たっ、と地面から跳躍する音が聞こえた。何があったのかと目を開くとすぐ目前に膝があった。



「ぶっ!」



ミストレの顔に走る衝撃。その場に後ろ向きに倒れた。不意打ちを食らい思いきり後頭部を打つ。後頭部と鼻に確かな痛みを感じ押さえていたが、ミストレは混乱して何が何だか分からない。間違いないのは今、鼻血が大量に出ているということだ。



「こ、これは…」



鼻は折れてはおらず、威力こそ弱いが、あの時のバダップの技そのものだった。彼女は自分が受けたミストレの技をコピーしたつもりだが、思いがけずあのバダップの技をコピーしたことになった。混乱が徐々に解けると同時に沸々とあの苛つきが甦る。ミストレは鼻血が制服に垂れるのも気にせず跳び起きた。



「こんの…」



血だらけの白い手袋で作った握り拳がわなわなと震える。



「クソアマぁあああああ!」



集まってきていた野次馬を押し退けて一気に走り出し、立ち去ろうとしていた背中に跳び蹴りを食らわせた。不意打ち返しだ。彼女は前のめりに倒れたが、なんなく受け身をとり何事もなかったように起き上がった。そして間髪入れずになんどもミストレの顔に向かって拳を突き出してくる。お前の顔が憎たらしい、顔さえ殴れればいい、そんな思いが伝わってくる。ミストレが何度も軽々と避けていると、疲れてきたのか殴るスピードは遅くなってきた。隙を付いて右腕を掴んだ。すぐに今度もミストレの顔を狙ってきた左拳を手のひらで受け止め、潰れる程に握る。両者両手が塞がれた。しかしそのまま押し合う力はミストレのほうが上だった。


「ふん、弱いな」


余裕を醸し出してにやりと笑う。もちろん男女戦闘訓練の時からミストレの方が実力は上なのだが、そこで隙をみせたのが失態だった。彼女は次回へ向けてしっかり対策を練っていたのだ。先程の膝蹴りもその対策の一つだ。ひょんなことから今その対策を実行するはめになったが。彼女は右足を振り上げてミストレの急所を、股間目掛けて思いっきり蹴り上げた。



「っ―――――――!」



声にならない悲鳴を上げてミストレはよろけながら後ろに下がった。いくら女の子のような彼でも付いてるものは付いてる。野次馬の男達はその激痛を想像し、見ていられない、と顔を両手で覆うのだった。


「男の急所分かりやすいのがいけないのよ…」


もうこれ以上戦うとまたこちらの鼻が折られかねないので、彼女は早々に人混みに紛れて逃走した。その後ろ姿を正に鬼のような形相でミストレは睨んだ。「ミストレくん、保健室に行こう」とわざとらしく心配そうに駆け寄ってくる、大事にしているはずだった女の子をもはね除ける。彼の化けの皮が一枚剥がれた。



「いつかぶっ殺す…!」



そう呟いたミストレは彼女が逃げて行った方角と逆の保健室に歩き出した。いつもなら付いてくるはずの取り巻きも今は誰も動こうとしなかった。


111014 王牙の花の鼻を折る



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