なまえというやつに生徒会室に呼び出されて早数分。もしかして分とも経っていないかもしれないが、それぐらい長く感じた。もじもじと口ごもり、用件を話そうとしない。
「その…」
そういえば昔、女の子団体に呼び出されたことがある。あの時のはよく分からないまま終わったが。西野空に「ひゅー」なんて口笛らしきものを吹かれた。
そんな下らない記憶を辿っている時間もあった。
「何か用か?」
「ひっ…!…はっ、ひゅっ、あ…」
いきなり制服の襟を握り締め、辛そうな顔で、苦しそうな息を繰り返し始めた。過呼吸だ、と瞬時で判断した。
「落ち着け。深く息を吸って、吐いて」
「ふっ…」
椅子に座らせて丸まっている背中を擦った。本当は袋などあればよいが、ここにはなかった。今は自分の力でなんとかするしかない。
二、三分経つと、段々と息が整ってきた。
「…あ、ありがとう喜多くん」
眉を八の字にしたまま、ふにゃりと微笑んだ。
「緊張するといつもね…。やっぱり生徒会長失格かな」
…あぁ。こいつが、噂の生徒会長だったのか。どこかで聞いたことのある名前だと思った。代表挨拶のとき出てこない生徒会長。いつも代理に副会長が挨拶をする。顔も謎、仕事もしない生徒会長を置物生徒会長とみんな呼んでいる。
「置物生徒会長、なんて呼ばれているの」
「え」
「知っているでしょう?」
目が一瞬、何かをじっくり見るように細められた。
「あ、あ。まぁ」
すぐに普通の表情に戻ったが、びっくりした。心を見透かされているようだった。誤魔化すように慌てて向かいの椅子に腰を降ろした。
「なまえは何の用事で俺を?」
「喜多くんに、緊張しない方法を教えてもらおうと思って。サッカー部キャプテンは人前に出ること多いから」
俺と話すことにはもう緊張しなくなったようだ。すらすらと言葉が出てくる。本領を発揮すればきっと素晴らしい演説や挨拶が出来る人だろう。
「緊張しない方法…」
ぐるりと思考を巡らせる。人前に出るとき、それなりに緊張してはいる。しかし、それをどうにかしようと思ったことはない。手に人と書いて飲み込むありきたりなことはなまえには通じないかもしれない。
「…深呼吸」
「深呼吸?」
「そうだ。緊張してきたら過呼吸になる前にとりあえず深呼吸だ。さっきのと同じでいい。きっと上手くいく」
「深呼吸…」
練習のように息を大きく吸い込んで大きく吐く。
なまえには精神的より、肉体的な緩和が必要かもしれない。しっかりやりたい、という気持ちはあるのだから。
「ありがとう喜多くん。次の挨拶期待してて」
「無理しないようにな」
初対面でこんなに人と話したのは初めてだった。
教室に戻ると待ち構えていた西野空に捕まり、何があったのか問い出された。いつも嫌味ったらしくニヤニヤしているが今日は一段とニヤニヤしている。
「ねぇ、何やってたのさぁ」
「別に。あえて言うなら悩み相談だ」
「はぁ?何それ」
期待していたことと違ったらしくがっくりと肩を落としていた。
▽
次の日、野球部の壮行会で生徒会長はステージに上がった。過呼吸にならないかとはらはらしたのは言うまでもない。初めてステージに上がる生徒会長に生徒はざわめく。相当なプレッシャーの中、なまえは話し続ける。ざわついていた生徒は自然と生徒会長の激励の言葉に耳を傾け始めた。
「生徒会室から野球部が毎日、一生懸命練習しているのがよく見えます。泥だらけでボールを追い掛けるその姿に、勇気付けられた人も多々いるでしょう」
よくある激励だったが、言葉の抑揚と堂々とした態度により、説得力のあるように聞こえる。
ふいになまえと目が合った。真剣な顔が一瞬ふわりと柔らかくなった。今のはきっと、俺にしか分からない表情の変化だ。
「努力の成果を存分に発揮し、その手で優勝旗を掴み取って来て下さい!」
拍手が沸く。締めくくりの瞬間、置物生徒会長は過去の記憶となった。
そして拍手が鳴り止んだとたん、なまえは倒れ込んだ。走って、どの先生方よりも早くステージに飛び乗った。あとで西野空や隼総に目立っていたことを知らされるのだが、その時は恥じらいなどなかった。
「なまえ…」
「ち、ちょっと貧血かな…ははっ」
保健室のベッドに座らせて、寝るように促したが大丈夫だと言ってそのままだった。
「何故なまえが生徒会長になれたかが謎なんだが」
「うっ…」
「こんなに上がり症ですぐ倒れるのに」
「うう…」
「でも、よくやったよ」
「…そうかな?喜多くんのお陰だよ、ありがとう」
照れたように笑って、頬を掻く。
「でね、あともうひとつ喜多くんに言いたいんだけど…。あ、のね、えっと…」
息を大きく吸って、大きく吐き出す。深呼吸。なにを緊張しているのか。
「好きだよ、喜多くん」
110805 とりあえず深呼吸
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