にかっと犬歯を見せて笑う、その少女の名前は、なんだったか。昔の彼女は一言で表すなら女版正義のヒーロー、今は…すっかり悪役になってしまったようだが。路地裏で人を追い詰めてボコるヒーローなんて聞いたことがない。路地裏には白いペンキのよく分からない落書きがあった。
彼女は掴んでいた相手の襟を乱暴に離した。ずるずると地面に座り込む相手はもはや呻き声も上げない。気絶したようだ。暗がりでよく見えない。誰だろうかと目を凝らしていると勢いよく振り返った彼女と目が合った。猫の目のようにギラギラ光る。
「…つるぎ…まさか…いや、大丈夫…」
何を言っているのかよく聞こえない。それも一瞬で、すぐに話し掛けてきた。

「剣城」
「お前!なにやってんだよ!そいつ気絶し…」
「来るな!」

強い口調に思わず身を退いた。

「入るな…」

一文字に堅く結んだ口の隙間から漏れる息は荒い。とうせんぼうをする姿は影の部分に足を踏み入れるな、と語り掛けてくる。

「後ろを向いて!走って!早く、早く!」

大きな犬歯を覗かせて必死に叫ぶ。ゆっくり一歩、二歩と後退りをする。「なにやってるの!」とまた強い口調で言われ、訳も分からず走り出した。

「こっちに来ちゃ、駄目だよ…」

無我夢中で走っている間に聞こえた最後の呟き。白いペンキの落書きが、目の端に焼き付いて離れなかった。



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