ぱち、ぱち、ぱち。
囲炉裏の音と匂いが懐かしい。遠くて古い、記憶を呼び起こす。おそるおそる目を開けると天井が見えた。これも懐かしい。でも、おかしいことがある。なぜわたしは生きているのか。さっき?なにが起こったのか、鮮明に覚えていた。二重の目は、わたしを食べた。わたしは死んだはずだったのだ。

「起きたのか?」
「…………」
顔を覗き込んできたのは………人間だ。食っちまおう。と思ったけれど、脳裏に浮かんだ二重の瞳に差し止められた。人間は慣れた手付きで水を差し出してきた。その様子は怯えていない。わたしは今、どんな姿をしているのだろうか。
「飲めよ」
湯飲みに入った飲み物なんて久しぶりだったが、どうにも起きられない。力を込めても手と足がぴくぴく痙攣するだけだった。見兼ねた人間は上半身を起こして支えてくれた。人肌に触れるだけで心臓がうるさいのは食欲をそそるからなのかはたまた緊張なのか。
「ゆっくりな」
口に添えられた湯飲みの水の飲み方をすっかり忘れていた。なんとか一口飲み込むと喉の渇きに気付き、不格好に全て飲み干した。「もっといるか?」と聞かれ首を横に振った。また寝かせてくれようとしたが、今度は力を込めると自分で起きていられた。そこで自分の姿をようやく確認出来た。二本の足と二本の腕、人間の体だった。本物の人間、と喜んだのも一瞬。爪が鋭利に尖った。ああ、なんだ、村を追い出される前と一緒か。興奮するとこうなるんだった。顔は見えないが、きっとこっちも同じだろう。わたしは、まだ。
「…おまえ」
「三国だ」
「…こわい?」
「ああ、もう色々慣れたよ」

さんごくは色々話してくれた。さんごく曰く、あの二重の目はみなみさわという名前らしい。みなみさわは気まぐれなこと。みなみさわは事情持ちを度々持ち込むこと。そもそも、みなみさわ自体が事情持ちだったこと。「不死身だって溺れたら苦しいだろ?」とさんごくは笑った。容易に彼らの出会いが想像できた。

話を聞き入っていると、囲炉裏の鍋のふたが動き出した。湯気からは人間の食べ物の匂いがする。
「そうだ、粥食えよ」
かゆ?
と首を傾げているうち、さんごくはさっさと椀に盛り付けていた。熱そうなそれを少し冷まし、箸と一緒に渡され非常に戸惑った。中のたべものをのぞき、ぐっと息を飲みこむ。箸は上手く使えないので放っておき、直接椀に口を付けた。
「…………」
「ん?」
「…うっ、ぐ」
飲み干した途端、嗚咽が止まらなくなった。ここで吐くのか、わたしは。指の間を通り抜けて行く生暖かい液体。必死に止めたが、またせり上がってくる。苦しさに負けて爪が尖ってきた。さんごくはすごく慌てていて、でも背中をさすってくれている。だけど。

「おい三国」

二重の目、みなみさわの声がした。何も考える間もなくまた腹が唸り出した。
「南沢!そこのたらい取ってくれ!」
「…そいつから離れろ」
「え?」
このままでは、高ぶった感情のまま爪で傷付けてしまう。みなみさわも分かっていて少しだけ安心した。
「ぐ、うぇっ……」
「外、行くぞ」
かつがれ、ほぼ引きずられるように外に出た。視界がゆれる。ほとんど歩いているのかわからない。出来るだけ我慢はした。でもみなみさわと袈裟と足袋、草履を汚してしまった。ずるずるとたどり着いたのは川辺だった。ずいぶん長い距離を移動したような気がした。
「ほら、我慢するな」
背中を叩かれ、だすようにうながされたが、吐き出すのは空気ばかり。堪えすぎて出し方が分からなくなっていた。
「ふっ、ふううぅ…」
「口開けろ。噛むなよ」
「…っ!」
みなみさわの細くて白い指が、口のなかに入ってきた。恥ずかしいと感じる前に、のど奥を強く押されて出せなかったものが戻ってきた。もう十分、と思ってもみなみさわの指は引っ込まない。噛みたい。噛み千切ってしまいたい。しかし噛んではいけないと葛藤する。ばちゃばちゃと水にへどが落ちて行くのも見る余裕さえなかった。

胃液もすべて、お腹を空にすると、口の中が苦かった。まずい。少し上流に移動して口をゆすいだ。
「ん…はあ…はあ…っ」
いま吐き出したものはなんだろう。いやな考えをふり払うように顔を水で洗った。それから、みなみさわが袈裟を洗っているのを見て、汚れた着物も同じく洗った。きっとこれは、さんごくからの借り物だ。
水面に映った自分の姿は、想像した通りだった。角と、牙、耳も少し尖っている。爪は引っ込められるのに、なぜこっちは無理なんだろう。小さいため息はみなみさわまで届いたようだった。

一通り洗ってからさんごくの家に帰ると「人前で裸になるな!」とこっぴどく叱られ、落ち込んだ。さんごくは顔が真っ赤だった。家の吐瀉物はきれいになくなっていて、さんごくに迷惑かけたとまた落ち込んだ。洗った着物を渡すときは、頭を撫でてくれた。嬉しかった。そいつは、少し前まで美味しそうな人間だった。



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