外からの足音を聞くに、さんごくが戻ってきた。さんごくを除いて足音はもう一人分ある。人間…ちがう。まるっきり人間ではない。化け物のわたしと似た、しかし地を這いずり回るような。怪しんで睨んでいた戸が開く。さんごくの後ろの気配に詳しく探りをいれた。
「ただいま。ん?あれ、南沢は?」
「どこかにいった」
「おお、まあ気紛れなやつだしな。残念だったなクラマ。多分この辺うろついてるだろうから探しに行ってみるか」
「…いえ、結構です」
そいつが言葉を発したことで確信した。
「へびだ!」
本能が身体を勝手に動かした。手足の筋肉に力を込めて、狙いを定めた水色の頭に飛び掛かった。その化けの皮を剥がしてやる!ころしてやる!さんごくを寸でのところで避け、外に転がり出る。両肩を押さえ、首を噛もうとしたが、やはり魚のように大人しく仕止めさせてはくれなかった。
「…んだよおめぇ」
「きけんだ」
「はあ?」
相手の爪が刺さった。いたい。お返しにやっと肩に噛みつくと、すぐに同じように肩に痛みが走った。あいての肩はかたく、歯がなかなかくい込まない。互いの肩に食らいついたまま揉み合った。
さんごくの制止の声が聞こえた気がした。どちらも聴いてはいない。
なかなかちぎれない肌から口を離し、力一杯突き飛ばした。力は弱いらしく案外簡単に剥がれた。肩を伝うなま暖かいものは血。向こうも血。わたしが食べていた人間はいつも、これを流していた。「ふっ、ふふ…にんげんだ…」しんぞうがざわざわする。ゆびについた血をなめた。うまくないが、きぶんのこうようがたまらない。わたしはいま、どんなすがたをしているだろうか。
「こいつ…」
いかれてる、と呟いた。そうだ、わたしはいかれている。人間を食べる化け物だ。そしてその人間に保護され世話を焼かれ、一晩のうちに心を許した。いかれていることは間違いない。さんごくが、さんごくは、人間で初めてわたしを認めてくれたのだ。お前になど譲らない。
じり、と焦げる音を立てて視線が交わる。どちらか一瞬でも気を緩めたらまけだ。一触即発のその間に、錫杖が音を立てて突き刺さった。遅れて輪がからからと鳴る。
「阿呆共め」
みなみさわだ。
落ち着いた声色とは裏腹に、二重の目はいきどおっていた。身体の芯から冷えるほど恐ろしい。生き物、野生に近い生き物ほど危険に敏感だ。クラマも同じように怖がっているのだろう。耳を後ろに伏せた犬のようだった。しばらくして、まばたきをしたみなみさわは「いいこだ」と呟くと、地面に刺さっている錫杖を持った。
「三国、治療手伝ってくれ」
「ああ…」
みなみさわとさんごくは、すっかりおとなしくなったわたしたちを家の中にいれて、怪我を治療してくれた。その間さんごくはずっとがみがみ説教をしていた。まるで、何も言わないみなみさわの代わりだった。人に飛びかかってはいけない。挑発してはいけない。わたしたちの口から出る言い訳のだって、でも、は全て打ち消された。
「二人とも謝って仲直りすること。いいな」
あやまる?
不快感が顔に出ていたらしく、頭を叩かれた。クラマとわたし、一発ずつ。下げていた視線を上げた先で、さんごくは泣くまいと必死に耐えていた。なんだか、胸がもやもやして、すごく悪いことをした気分になってきた。「ごめんなさい」とあやまるのはわたしだけじゃない。よしよしとさんごくが笑顔で頭を撫でてくれて、やっと安心出来た。
そのあと。さんごくは畑に、みなみさわはまたふらふらとどこかに行ってしまった。家に取り残されて暇になったわたしたちは、なんとなく外に出た。家よりも外のほうが落ち着くのだ。川の流れに足をさらしながら、おそろいの位置に布を巻いたクラマと気まずいながらぽつぽつ会話を始めた。
足で水しぶきを上げると、水中にいた魚が飛び出した。朝にたくさん捕ったのに、まだまだここには居る。豊かな地だ。魚の泳いで行った先、倉間の足元を見ると、蛇の鱗が見えた。わたしの角のように隠せないのかもしれない。目を片方隠しているのもきっとそのせいだろう。
「さっきは、ごめん。クラマがあぶないやつだとおもいこんでいた」
「別にもういい…えーと…名前は」
「ない」
「そっか…。名前がないと不便だから後で付けて貰えよ。助けて貰った南沢さんに付けて貰うのが筋だろ」
「クラマはなぜクラマなんだ?」
「ああ、倉の間に居たから倉間。単純だろ」
「…いいや。なぜ、そんなところに?」
「逃げ込んだのがたまたまそこだっただけだ」

…話によると倉間は、わたしと同じように昔は村に住んでいた。ひとつ違うところは生まれたときから神の使いと神格化され、もてはやされて育ったことだ。そこの村では蛇は神聖な生き物らしい。うらやましいような話だが、ただ着飾り、座っているだけの生活は息がつまりそうだった。ある時、隙をついて外の世界に飛び出したそうだ。
なんて素晴らしい世界が広がっているのだろう!
全てが輝いて見えるほど、森の中は魅力的だった。野生の本能は目覚め、獲物を狩り、いつのまにか自分の中の人間は存在が薄くなっていった。すっかり、化け物になってしまった。それでもよかったのだ。自由になれたのだから。
だが、人間は認めなかった。
掌を返し、化け物の俺を村から追い出した。この前まで、にこにこ媚を売っていたあいつらは鬼の形相になった。どっちが化け物だよ、と悪態つく間もなく必死に逃げ出した。
たどり着いたのがどこかの町の例の倉と倉の間。そう時間が経たないうち、みなみさわが現れたそうだ。

「喰われると思ったよ。次はいい人生送れよ、なんて言うもんだから」
「それはわたしもだ」
「言葉通り新しい人生を送らせてくれようとしてるのか…俺達がまともな人として生きていけるはずないのに。あの人何考えてるか分かんないよな」
「でも倉間は、みなみさわをそんけいしてるんだろう?」
「……」
少し頬の赤い倉間は照れ隠しのように川に石を投げた。ははあ、尊敬しているのに素直になれない。といった感じだ。さっきもみなみさわを訪ねてやってきたが、居なくてざんねんだったのも隠しきれなかったしな。冷静になったいまだからこそ思えることだ。
「…お前、今まで人間食ってたって三国さんに聞いたけど、腹減らないの?」
「へったよ」
「どうするんだよ?」
どうするんだ、と言われても。
うつむいた先の透明な水には、大きな犬歯があった。これを使ってだれかをころしてしまうとき。たべるとき。今まで考える暇がなかった。しかし、それはそう遠くない将来あるかもしれない出来事で、考えておくべきだったこと。わたしはもうだれもころしたくない。きっと、さんごくはわたしをころせない。それならば。
「はらがへって、へって、どうしてもたえられなくなって、だれかをおそってしまうまえに。おねがいだ、倉間」

わたしを、殺してくれるか?

倉間は息を飲みこみ、止めた。見開かれた目の黒い瞳がぐらぐらと揺れる。

「やー、なんかおっかない顔してどうしたの?」
重い空気を切り裂いてその人は現れた。腕まくりをした着物に褐色の肌と、釣りの道具がよくにあう。人間の明るい部分をそのまま人にしたようだ、と思ったのが彼の最初の印象だった。「浜野」と倉間が呼んだ彼は、さんごくが魚をもっていった、あのはまのだ。
「もしかしてきみが三国さんのとこに来た子かぁ。あんなに魚捕るんだから筋骨隆々の厳つい子かと思ってたよ」
にひ、と笑ったままはまのは私の頭を乱暴になでた。
さんごくといい、はまのといい、わたしは人を食べるのに、彼ら獲物に恐怖という概念はない。格好の餌であるからこそ、わたしは彼らに食欲がわかなかった。おびえて逃げ惑う人間こそ食べる価値があるものだ。たとえば、「は、浜野くん!鬼ですよぉ!」こいつなんかいい例だろう。おどおどと、今にも逃げだしそうだ。体型は糸のように細く、まったくうまくなさそうだが。
「あ、これ速水。うちの居候ね。こーんなことばっかり言ってるけど根はいいやつだから食わないでやって、な?」
はまのの背中から見え隠れする黒目がちなはやみの目。話しかけようと口を開くと、顔をひきつらせて人間とは思えない速さで逃げていった。本当に怪我しているのかも怪しい。とにかくさんごくとはまのが特殊なだけで、これがふつうの反応だ。倉間は気にするなと背中を叩く。そう分かっていてもまた顔に不快が現れてしまったようだった。
「あはは!速い速い!」
「おい…気遣い」
「へへ、ごめん」
乱暴に倉間とわたしの頭を撫でる。さんごくと違って薄い手だ。しかし、頼もしい。
「妖怪も色々いて、人間も色々いるんだ。気にするこたぁないの。倉間にさえ慣れてるんだから、そのうち君も大丈夫になるよ」
この人は、優しい人だと思った。だれのせいにもしていない。だれも責めていない。はまのは嫌いな人はいるのだろうか。明朗な顔を見つめた。沈み始めただいだい色の夕陽は、眩しくて目が眩みそうだった。



- ナノ -