ここでは、向かいの部屋の住人をTと呼ぶことにしよう。Tは私がゴッドエデンに来て暫くしたころにやって来た。第一印象を単刀直入に言うとTは物凄く愛想が悪い。後からくるくるのもみあげの妙な容姿が目についたほどだ。だが一応、礼儀はわきまえているようで朝の挨拶をすると「…おはようございます」と小さな声で返してくる。根っからの不良ではないらしい。どちらかと言うと寡黙な性格だと気付いた。それが分かった日から、Tがいくら愛想が悪くても堪えられるようになった。

ゴッドエデンの激しい特訓の疲労が体を蝕んだ。部屋に戻り、息をつく暇もなく風呂の準備に取り掛かる。大浴場の利用時間は部屋ごとに割り振られていて、珍しく最初のグループだったのだ。部屋に開いた穴から暴れるなと隣人に釘を刺してから廊下に出た。

「あ」

効果音を付けるとしたらばったり、だ。Tは驚きの声を出したかは分からないが、少なくとも私は出した。たまたまTと部屋を出るタイミングが一緒だったのだ。黒いジャージに赤いシャツがなんとも毒々しい配色だ。手に持った荷物からTも風呂に行くことが窺えた。いつもこの時間に風呂に行くのだろうか。一瞬目が合ったが、早足で歩いて行ってしまった。普通顔見知りに会ったなら、ある程度会話を交わすものだ。誰とも関わらない態度が、一匹狼と周りに呼ばれているのもよく分かる。そういえばさっきの顔もどことなく狼に似ているような気がした。
これ以降はTの尻尾のように揺れる黒髪を見ながら歩くだけだったので、部屋から遠い浴場まですぐに到着した。今日は久し振りにゆっくりと汗を流せそうだ。





「あーさっぱりさっぱり…」

ゆ、と書かれた赤いのれんの真ん中を割る。解放感に浸り、結局時間ギリギリまで入浴した。さて入浴後のお楽しみ、今日はどの牛乳にしよう。奮発して普通の牛乳より20円高いフルーツ牛乳にしようか、と考えながら少し軽い足取りで自動販売機へ向かう。いざ100円を投入しようとしたとき、自動販売機の横のベンチに人影があるのに気が付いた。こんなギリギリの時間まで人がいるのは珍しい。横目で確認したところ、Tのようだ。髪が湿って垂れていて、一瞬誰なのか判断がつかなかった。それにしても様子がおかしい。どうしたのだろう。今度は顔を向けてしっかりTを見た。

「のぼせてる…」

顔は真っ赤、ぼんやりした目は斜め上を向いていた。これは間違いなくのぼせている。Tは自力で上がってはきたようだが、ここでギブアップしたようだ。このような状態をを見付けてしまった以上、どうにかするしかない。少し迷ったが、牛乳を買う予定だった100円を隣の自動販売機に投入した。南無三。ペットボトルの水のボタンを押した瞬間に、私の至福が音を立てて水へと変貌を遂げる。取り出したペットボトルのふたをひねり、Tに差し出した。

「飲め」

相変わらず焦点の合わない目がぼやーっと私を見ていた。折角威圧感が出せるつり目が一切役に立たっていない。ペットボトルを受け取ったTはおぼつかない手つきで、ちびちび中身を減らしている。その間に水分が全く乾いていない黒髪を首に掛けていたタオルで乱暴に拭いてやった。放っておいたら風邪を引いてしまう。もみあげの先まで水分を拭き取るころには、大分復活したようだった。

「大丈夫か」
「ああ…」

頭の上に起きっぱなしだった手を振り払われる。Tはそっぽを向いて、よろけながら立ち上がった。部屋に戻ろうと歩いてはいるが、右に行ったり左に行ったりまるで酔っ払いのようだ。やれやれ、世話の焼ける。

「おぶってやるから、無理するな」
「いい、止めろ」
「今、集まってくる全員にその無様な姿を晒すか、私一人か、選ぶんだ。どちらがましか、賢い君なら考えなくても分かるはずだ」

無言になったのは、了解の意味合いだろう。Tは非常に嫌そうな顔をしながら渋々背負われた。嫌な顔をしたいのはこちらのほうだ。Tの足を掴み、身体を落とさないように少し前屈みになる。筋肉が付いているので流石にそれなりに体重はあった。それに加え、上半身を完全には預けてくれなかったため背負いにくく歩きにくい。それでも、Tが一人で歩いて戻るよりは随分速いはずだ。さて、あと何分で風呂に行くやつらとすれ違ってしまうだろうか。きっとこの背負われた姿はTにとって屈辱的以外の何ものでもない。Tが辱しめに遭うところも見てみたいが、先程言ったことを守るためにも早く戻るべきか。暫く廊下を歩いていると、まだ辛いのか上半身を預けてきた。これで背負いやすい。歩きながら軽く背負い直した。

私がTの部屋の扉を閉めるのと、通行人が角を曲がるのは同じタイミングだったようで、扉の向こうから近付いてくる足音が聞こえる。ギリギリセーフだ。安心して息を吐き出す間もなく、「いい加減降ろせ」とTが背中で暴れだした。弱っているとはいえ、その立派な脚で蹴られては痛いものがある。理不尽な痛みに堪えながらベッドの上に降ろした。

「利子付き110円」

暴れられた衝撃で落ちたペットボトルを拾い、Tに向かって放り投げる。上手くキャッチしたTは何か文句を呟いていた。罵りの言葉も聞こえたような気がしたが、無視して部屋を出た。

「あっ!何をしていたんだ!」
「うわ…」

タイミングの悪い。どこに売っているんだとつっこみたくなるような真っ白なジャージを着た隣人が、荷物を持って風呂に向かう途中だった。

「何をしていたんだと聞いている!」
「あー…はやく風呂行け」

取り敢えず、私の周りにまともな住人が欲しい。


120223



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