「さて…」

俺も決心が着いた午前10時。春の柔らかい陽射しが射し込む部屋は人がいたようにほんのりと暖かかった。飾り気のない部屋に見えるが、お気に入りが詰め込まれた趣味の良い部屋だった。だが、今から片付けをしなければいけない。いわゆる遺品整理というやつだ。そう、死んだのだ、彼女は。
何から手を着けていいものか分からなかったので、とりあえず机の上を片付け始めた。ここだけがふわふわした部屋の雰囲気に似合わず、禍々しい空気を放っていたからだ。個人的に植物の実験していたときの試験管、フラスコ、ビーカー、顕微鏡。その他名前の分からない器具がごちゃごちゃと置いてある。流石に怪しい液体は入っていなくて安心した。分厚い資料や植物図鑑、ファイルもひとつひとつ丁寧に段ボールに詰めた。所々インクが滲んだ実験のメモ用紙にはやはり分からない単語が並んでいる。時には読めさえしない汚い字が羅列していた。頭を抱えた後、思い付いたことを急いでガリガリと書く光景が浮かんでくる。その愛用の少し高級な万年筆は、彼女が戦地に持って行ってしまった。必ず手紙を書くからね、と。そう言っておきながら一通も来ていない。
クリップでメモ用紙をまとめていると、一枚小さな紙が飛び出してきた。

「お、写真か」

チェス盤を挟んで顎に手を当てて前屈みで悩む彼女と、腕を組んで偉そうに動向を見詰めるバダップ。彼女に意見してチェス盤を指すエスカバと、一人カメラに気が付いて笑ってピースをするミストレ。彼女とエスカバがタッグを組んでバダップを打ち負かそうとしているところだ。中学生時代のものでみんな幼い。そういえば俺が撮ったんだったな。写真に写っているチェス盤は居間のテーブルの上に置いてある。駒は几帳面ななまえのお陰で向きを揃えて並んでいた。学園を卒業してからも何度も対戦した。冷蔵庫に張ってある古い紙には勝数の正の字が書き込まれている。戦地に赴く前夜に対戦して負けてしまい、250―251で勝ち逃げされてしまった。悔しいのたが、どこかでざまあみろと笑っているような気がした。

「あー全然進まないな…」

落ち着いた花柄のベッドの上に寝転がった。羽毛布団に顔を寄せるとまだほんのり彼女の匂いがする。物を見る度感傷に浸り、一時間経って片付けが済んだのは段ボール一個分の机の上のみだった。片付けする決心はしたのだが、現実味があまりにもない。死んだなんて、思えないのだ。葬儀を行った日、ミストレは美形な顔を崩してわんわん泣いていたし、エスカバもフェイスペイントが消えていた。あのバダップだって軍帽を目深に被り、口を一文字にきつく結んで鼻を鳴らしていた。その日トランガス兄弟はザゴメルに引っ付いたまま離れず、ジニスキー、ドラッへ、ダイッコもイッカスさえ、いつもの表情ではなかった。でも、俺は泣けなかった。死んだことを信じていなかったから。今だって、こうしているうちに扉を開けて帰ってきそうな気がする。それなのに待てども待てども、彼女は帰ってこない。枕に顔を押し付けた。女々しいと、誰か俺を笑ってくれ。

そのまま少しうたた寝をしてしまった。昼時に珍しく郵便が届いた気配がする。どこからだろう。玄関に出てポストを開いた。ぼろぼろの薄い手紙が紐で一つにまとめられて束になっていた。首を傾げつつ差出人を見た。

「あ…」

いや、そんな、まさか。薄汚れた手紙は、彼女の文字だった。遺体も発見されていないし、もしかしてどこかで生きているのかもしれない。蝋で封をされた封筒を開ける手が期待で震える。心臓がバクバクと動いて止まらない。慎重に一番上にあったそれを開いた。



拝啓

そちらの季節はもう春ですね。桜はもう咲いているでしょうか。
こちらの戦況は悪化する一方です。あまり悲惨なことは書きたくないので、今回も明るい話を書こうと思います。

戦場を移動する度に、花の種を蒔いています。どんな環境でも、立派に大きく育つ種です。私が研究していたのはこの種なんですよ。我が国では便利さばかりを求め過ぎ植物系の研究など進んでいませんでした。ですが、本当の豊かさのためにいつか必要になる日が来ると思うのです。
この種が芽を出し、葉や茎を伸ばし、蕾を付け、開くころには戦禍は収まっていることを望みます。そうしたらサンダユウと二人で花を見に行きたいです。
そうそう、種を同封しておきました。季節はぴったりだと思うので是非育てて下さいね。

サンダユウは心配しなくても大丈夫だと思いますが、エスカバくんやバダップくん、ミストレちゃんたち、彼等は無理をする人達なので風邪など引かないように気を遣ってあげてください。
それでは、また。早目に帰ります。

敬具
×年×月×日





手紙になると敬語になるのも、ミストレのことをちゃん付けするのも、間違いなくなまえの手紙だった。ただ、悲しいことに、1年、昔の日付だった。もう一枚開けてみると更に昔の日付になっている。と言うことは下のはもっと昔のだろう。彼女は手紙を書いていた。束になるぐらい書いていたのに、何故今ごろ届いた。死の知らせを受けたときは受け入れられなかったのに、1年前で止まっている手紙の日付を見て、ああ、この人はもういないんだと納得してしまった。胸のもやもやは晴れたが、後に残ったのは悲しみばかりだ。
封筒をくるりとひっくり返してみると、中からぱらぱらと種が降ってきた。例の花の種だろう。もう一生、一緒に見に行くことなど出来ないが。

「…お前は、俺に育てろと言うのか。どうせ、枯らしてしまうと分かっているのだろう。なのに」

はらりとまた紙切れが降ってくる。

私が帰ってくるまで愛情たっぷり育ててね!

なんでだよ、なんなんだよ。俺のことなんか全部分かってるみたいに言いやがって!

「うっ…うう…」

1年分蓄積された涙は止めどなく流れた。今は大きな悲しみをひたすら受け止めて消化して吐き出すことしか出来なかった。さらにそれを受け止める手紙は、どうしようもなくあたたかかった。


120201



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