それから、また1年が過ぎた。彼女が死んでかれこれ3年が経つことになる。庭には去年よりもたくさんの花が咲いていた。遊びに来たミストレやエスカバにお前になんか似合わないと大爆笑された。ああそうさ、俺には似合わない。この花は彼女が一番似合うのだから。分かっていて、彼等もそう言っているのだと思う。

ある休みの日、バダップが前触れもなくやってきた。しっかり者の彼は基本来る二、三日前には必ず連絡を入れるのだが珍しいこともあるものだ。どうやら緊急の用事らしい。

「は?」
「なまえが居た戦場に行ってみないかと言っている」

バダップが手に入れてくれた当時の資料と、飛行機のチケット。机の上に置かれたそれをバダップの褐色の指先がとんとん叩く。連動して二つのブラックコーヒーも揺れた。みんなブラックなんか飲めなかった。時間の流れを感じた。

「花畑、見たいだろう。あとは君の気持ち次第だ。エスカバもミストレも任務で、俺も行けないが、代わりにだれか同行…」

バダップの言葉もそこそこに、目を瞑った。手紙の内容を頭の中で繰り返す。彼女が蒔いた種は本当に咲いているのか分からないが、「二人で花を見に行きたいです」完全に暗記した手紙にはそう書いてあった。ゆっくり首を横に振る。

「…いいや、一人で行く。二人で見ることが約束だからな」
「ああ、そうか」

まるでそうなることを予知していたかのように、あっさり了承したバダップはやっとコーヒーに口を付けた。滅多に動かない顔をしかめ、下の先を少し出して「苦すぎる」と呟いた。

「カフェオレ」
「はいはい」





飛行機で長時間、電車やバスを乗り継いだ先にある国境に程近い町。戦火があったとは思えない、緑豊かなのどかな町だった。中心部から遠ざかるとさらにのどかさは増す。白と黒の牧羊犬がワンワンと吠え、羊が道を横切るのを待つ、なんて本や資料の世界でしかありえなかった。町と自然が共存した理想の世界。今考えると、彼女が望んでいたのはここまで田舎でなくとも、きっとそんな世界なのだろう。
目的地に徒歩で向かう途中、道の先から花を握った少女が嬉しそうに歩いてきた。色々な花が入り交じっているが、間違いない。あの主張が激しくない花は、庭で咲いているものと同じだ。手紙が届いた日のように、心臓の動悸が激しくなる。

「きっ、君!その花はどこで?」
「わわっ、えっ、えっとね…この坂の先にね、お花がいっぱい咲いてるの」

見知らぬ人に話しかけられ驚いたようだったが、質問にはきちんと答えてくれた。道は間違ってなかったようで安心した。この先ならばもう地図は不要だろう。地図を小さく折り畳んでポケットにしまった。お礼を言って立ち去ろうとしたが、ぐいっと服の端を引っ張られた。

「つれていってあげる!」

満面の笑みだった。どうやら怪しい人物ではないと判断したらしい。二人で見る約束は守れないが、分かってくれるはずだ。小さな右手が俺の左手を引き、先が見えない坂道を登りだす。俺と彼女の間にもし子どもがいたとしたら、どんな子だったのか。是非ともこんな風に親切な子に育って欲しいものだ。そう思った矢先に子供特有の怒濤の質問ラッシュが始まった。

「お名前は?」
「サンダユウだ」
「どこから来たの?」
「ずっと遠くから来た。ずっと遠くから」
「なにをしに来たの?」
「大切な人に会いにな」
「こいびと?」
「ああ、まあ…」
「キスはした?ぎゅってした?だいすきって言った?」
「たくさんした。たくさん言った」
「けっこんした?」
「する前に死んでしまった」
「なのに会えるの?」
「会えるさ。その花も、彼女の一部だからな」

少女が左手に握っている花を指差すと、首を傾げたまま黙ってしまった。いくらキスやらハグやら結婚やらという言葉を知っているおませさんでも、流石に深い意味までは読み取れないようだ。暫く悩ましい顔をしていたが、坂の終わりが見えてくると表情を一転させて駆け出した。早く早くと頂上にあたる部分で急かしている。まるで牧羊犬だ。羊役の俺は、ゆっくり頂上の土を踏んだ。

「きれい?」

言葉を失った。
息を飲む光景だった。一面に広がる花畑はどこまでも続き、青い空と花との二つしか見えない。風が花びらをまき上げながら髪や頬を擽った。これほど美しい光景は、他にはない。悲惨な戦場にここまで壮大で、美しいものを彼女が遺したのか。目の前が霞んで、ますます何も見えなくなった。

「あ!なまえちゃん!」

もう二度と呼ばれることのないはずの名だった。荷物が緩んだ手から地面に落ちた。彼女が生きている?そんなまさか、また手紙の時のように期待はずれになるのではないか。するりと右手を離して少女は坂を下って行った。下り坂の先に目をやると、見覚えのある人が花畑の前で立っている。頬をつねる古くさい方法で夢ではないことを確かめた。痛い。夢じゃない。
少女が坂の上を指差した。人と目が合う。

「なまえ…」

ひりひりする頬をおさえた。どんなに望んでも、どんなに願っても、届かないはずの人がそこにいた。幻覚ではないか。消えてしまわないようにおそるおそる一歩ずつ足を繰り出した。

「サンダユウ」

もう、幻覚でも、夢でもなかった。
抱き締めた生きている体はあたたかく、少しだけ骨張っている。腰が抜けてそのままずるずると座り込んでしまった。3年前と変わらない声は耳を通して脳を揺らし、心臓を揺らした。喜びも驚きをも越えたよく分からない高揚した気分になる。涙と嗚咽が止まらない。色々な液体でぐしゃぐしゃになった顔をなまえは優しく拭ってくれた。「もう27歳なんだから」誰のせいでこんなに涙腺が緩くなったと思ってるんだ。「ひぐっ…つ…」文句も花のことも伝えたいことはたくさんあるのに、言葉が詰まって出てこない。裏腹に涙は止まる気配を見せなかった。

「ゆっくり話してくれればいいよ…」
「…ふっ、うぅ…」

頬を優しく両手で包み、額をくっ付けた。温もりが伝わり、また涙があふれてきた。ぐずっと鼻をすする音が聞こえる。なまえも泣いている。

「バダップくんに、お礼言わないとね」
「ああ…。あ?ちょっと待て、何で、バダップのこと」
「バダップくんがここで待ってろって言ったんだよ?」
「はああ?」

驚きで感激の涙はみるみる引っ込んだ。あのバダップのことだ。大方人の力を使って大捜索を行っていたに違いない。しかも本当に見付けて、花畑で再会させるなんて憎いことをしてくれる。きっとどこかでこの様子でも見ていて、こう呟いているんだろう。



「ミッションコンプリート」



「バダップ?」
「エスカバ、ミストレ。後で花でも持って空港に行かないか」


120204



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