「あの、ね、看護師さんが言ってたんだけど、入院してると病院が世界の全てだから外の世界への憧れもひときわ強くなるんだって。納得しちゃったの。私も外の物や人、全部憧れてる。全部珍しくて、不思議。だから七雄人も、不思議」

べッドの上にいるなまえから視線をずらし、窓から外を見た。特に珍しくも不思議でもない。夕日が沈み、夕方の鐘が鳴るいつもの外だ。それに俺も、大して不思議な存在でもない。だがなまえが言うのだからそうなのだろう。
幽霊のような薄い唇から零れる言葉は細かく、小さく、うっかりすると聞き逃してしまいそうだ。それでも本人は元気だと言うのだから、おかしい。病人の元気の定義はどうもおかしい。彼女の更に具合の悪い姿を見てきた俺が、今の状態を元気だと思ってしまうのは、もっとおかしいのだ。

「あ、そうだ。明日の試合も頑張って、ね」
「ああ…。そんなことより早く幽霊見付けろよ、それが病院の一番の超常現象だからな」

なまえは目を瞑って薄く笑った。それが肯定なのか呆れなのか、分からない。喋らないってことは少し疲れたのかもしれない。体力を削らないように極力見舞いに訪れないようにしていたのだが、「七雄人くんが来ないとなまえちゃん、元気無いのよ」と看護師さんが言うものだから、結局は毎日来るようになってしまった。
毛布を首元まで掛け直し、寝ているようななまえを見た。睫毛も長く、整った顔立ちをしていると思うが、やはり血色のない病人の顔をしている。冷たい頬に手を当てた。

「………」

でも、明日雷門をぶちのめしたら、きっとお前は元気になる。
目を瞑ったままのなまえの冷たい手がするりと俺の手を撫でた。

「自分のために勝って、ね」

血圧が一瞬上がった。俺の考えていることが、触れあった手から伝わってしまったようで思わず手を引っ込めた。昔見た映画の主人公の小人が、巨大な人間を見るときのようになまえの唇の動きが重く、発する言葉が震動してはっきりと耳に残る。

「七雄人が分からないならいいけど、優一さんから色々聞いたの。もし、どんな手を使ってでも勝とうとしてるんだったら」
「い、意味わかんねーよ」
「そっか…」

安心したのかまた目を瞑り、すぐに眠りに落ちた。穏やかの言葉が、これ以上似合う寝顔はそうないだろう。穏やか過ぎて、病人と言うよりは死人に見える。
優一、剣城優一。裏切り者の剣城京介の兄さんだ。優一さんを悪く言うつもりはないが、なんてことを入れ知恵してくれたんだ。シードをやっていると知ったら、サッカーが好きで、純粋に俺の勝ちを望んでいるなまえは悲しむに違いない。だが、シードとばれようがばれまいが、俺はなまえを助けてみせる。
決意を固めるように荷物を引っ付かんで廊下に出た。消毒の独特な臭いがキツい。吸い込んだ空気がスンと音を立てた。臭いまでも閉鎖された空間。出来るだけ早くこんな牢屋みたいなところから出してやりたい。だからごめんな、なまえ。





「はぁあああああー……」

あんなに偉そうなことを言っておきながら、試合の結果はご存じの通りだ。手術費うんぬんの前に負けてしまってはなまえに合わせる顔もない。病院まで来たものの、ロビーのソファで項垂れていた。精神へのダメージが甚大すぎて近付いてくる人影にも気付かなかった。

「う、わっ」

ひやりと頬に冷たい感触。慌てて頬に手をやりながら見上げるとなぜか剣城京介が立っていた。何が起こったのか訳が分からなくて剣城の顔を見ながら呆けていると、缶ジュースを差し出して来た。ぼやんとした頭でとりあえずジュースを受け取った。よくよく考えると年下に奢ってもらうなんて情けないが、その時は思考も小銭も持ち合わせていなかった。

「俺は、兄さんの足を諦めたつもりはない」

剣城から目を逸らしても、三角に囲まれた金色の瞳が残像として頭に残る。剣城はすぐにいなくなった。汗をかいている缶を額に当てながら、ソファの背もたれにのし掛かった。なんだか目全体が熱くなる。

「なんだよあいつ…」

あの一言で剣城の思いも考えも全て伝わってきた。俺が無理矢理手に入れた金で手術受けてもなまえは喜ばないって、分かってる。こんなこと言うの柄じゃねぇけど、あいつのお陰で分かったんだ。溜まってきた涙を誤魔化すようにゴキゴキと首を鳴らした。こんなところ浪川に見られたらシードの誇りやらなんやらぶつくさ文句を垂れられそうだ。
全部をなまえに話したら、どんな反応が返ってくるだろうか。怒りか悲しみか驚きか、それこそ嫌われるかめしれない。プルトップを押し上げて飲んだ、舌の上をビリビリと駆け抜ける炭酸がまるで剣城の遠回しの叱咤だった。


120118



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