自分で言うのも癪だが、俺の実家は昔からの資産家で金持ちだった。だからといってカルス家のように甘やかされて育った訳じゃない。厳格な父の教育は、飴と鞭ではなく鞭と鞭。よく表現されるころのスパルタだった。お陰で俺は金持ちによくあるような高慢でもなく自信家でもなく、一歩引いて場を眺めているような地味な性格になった。更には格式高い家風で髪は女ように伸ばさなければならなかったし、服は常に和服を強要された。
厳しい父と相反して、優しいと思われた母は物心付いた時には居なかった。その代わりのつもりなのか父からの指示なのかは知らないが、執事がウザいぐらいに甘やかしてくる。小さい頃は嬉しかった、中学入学となるころには鬱陶しくて仕方がなかった。

「はぁ…最近新調した着物もこんなに小さくなってしまって…大きくなられましたね坊っちゃん」

和風の屋敷に似合わない黒光りする燕尾服を着たなまえは嘆かわしいような溜め息を吐いた。その表情は昔から変わっていなくて、歳をとるのを忘れているのではないかと思った。実質何歳なのか俺は知らない。聞いても女性に年齢を聞くのは失礼ですよとはぐらかされるのだ。
畳に膝をつきながらいつものようにてきぱきと着物の紐をほどいて行く。幼い頃きつい着物が嫌いで幾度となく拒んだが、全く以て歯が立たなかった。「嫌がる坊っちゃんに無理矢理着せるのは心が痛みますが、お父様にお叱りを受ける坊っちゃんを見るのはもっと心が痛むのです」ということらしい。あの時はその優しさを理解出来なかった。しかし最近になって分かったのを伝えるのはこそばゆくて、それどころかうざったいと感じるのは自分が反抗期だからだろう。

「…最近ったってそれは半年前のだろ」
「私には半年も坊っちゃんとご一緒ですと光陰のごとく感ぜられるのです」

ワイシャツのボタンを寸分の狂い無く綺麗に留めて行く。こいつには口の反抗さえまるで敵わない。剣道も料理も家庭教師が教えてくれることも、心技態、完璧な執事には全てにおいて敵わないのだ。
なまえは近くに置いてあった王牙学園の制服をそっと手に取り、少し寂しそうな視線を向けた。今日から全寮制の王牙学園に入学してしまえば、特別な事情がない限り三年は帰ってこれない。つまり三年間会えないのだ。いくらこんな家でも帰ってこれないというのは些か悲しかった。だが、弱音を吐いてはいけない。強くならなければ。

「ズボンぐらい自分で履く」
「申し訳ありませんが、お断りします。これで最後なのですから」
「…最後?」
「坊っちゃんは大きくなられました。三年後にはもっと大きく立派になり、私のことを放り出すでしょう。それでいいのです。ミシマ家を支えてゆくのは、紛れもない坊っちゃん、貴方自身なのですから」


△▼


そう申し上げると、坊っちゃんは俯きました。この様なことは十二歳の少年には少々酷だったでしょうか。坊っちゃん、とお顔を覗き込みました。すると、震える唇でこう仰ったのです。

「だれが、お前のこと放り出すって?俺は父上よりも母上よりも長く寄り添ってくれたお前のことを捨てない。捨てることが、出来る訳がないだろう」

今まで見たことのない強い目でした。私には勿体ないお言葉、感慨無量でした。余りにも嬉しくて、その目を見詰め返していると、坊っちゃんの目から涙が溢れ出したのです。坊っちゃんは我慢強い方でした。泣き顔など滅多に見せないのです。しかし、泣いておられます。小さな頃ならばあやすなどして対処は出来ましたが、今それは出来ません。思春期を迎えているのです。少し考えてしまいました。

「坊っちゃん」

まだ小さな手を握りました。

「ありがとうございます。私が間違っておりました。坊っちゃんは優しい方ですからね」


▲▽


優しい、優しい。
涙を胸ポケットに入れたハンカチで拭ってくれた。血も繋がっていない執事から受け継いだのはその心なのだ。ただ優しいだけではない。時には怒り、その人を成長させるのも優しさなのだ。俺もこんな風になりたい。揺らぐことのない目標がそこに出来た。
だけど泣いてしまったのが気恥ずかしくて、なまえの顔を見ることも出来ずに目を閉じ黙りこんでしまった。

「はい!」

パンッと手のひらが合わさる音で覚醒した。下を向いてる間に一瞬で着替えが終了していた。制服の袖口など見回してみたがボタンの閉め忘れなど欠陥はどこにもない。王牙の手袋もしわ一つなくはまっている。手品をやってのけたなまえは、銀色の懐中時計を取り出して時間を確認し、何事もなかったようにしていた。

「早着替え…」
「ミシマ家の執事たるもの朝飯前です。それにしても…ああ…なんてお似合いなんでしょう…」
「はいはい分かった分かった…」
「ふふ。では、参りましょうか」


▽▼


車に揺られながらふと思い出した。その時のことはあちこちに怪我をしていて酷く痛んでいたので覚えている。物心が付き始め、父のスパルタ教育に反感を持ち始めたころだった。なまえにこう聞いたことがある。

「もし父上が、おれのことを殺せっていったらなまえはどうする?」

彼女は消毒液に綿を浸しながら、父上はそんなこと絶対に命令しませんよと言った。今思えば答えにくいとんでもない質問だった。彼女を雇ったのは父だ。父の命令が最優先のなのだ。だから年齢のようにはぐらかしたのだと思った。しかし、彼女はこう続けた。

「ですけれど、本当に、もし、父上がそう仰ったならば」

ぴりり、と消毒液がしみた。

「坊っちゃんを連れて夜逃げ致します」



120306
(サンダユウ×女執事)



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