※お手数ですが名前をひらがなで、
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 (例:さ す け)

これの続き





美しい名前





姫さん

姫様

お姫ちゃん


 甲斐の虎の娘だから、姫。俺は真田の旦那に仕えている忍だから、あの人を姫と呼ぶ。

 当たり前のこと。普通のこと。

 俺は忍だから、けじめっていうか、軽々しく主のことを名前で呼んだりはできない。普通のこと。当たり前のこと。

 姫さんが名前を呼んで欲しいと願っているのは気づいていた。俺も姫さんの名前を呼びたかった。でも、呼ばなかった。今までに一度だって、呼ぶことはなかった。一度声に出して呼んでしまえば、後戻りできなくなる、そんな気がしていたから。

 だからこれは、目の前のこの光景は、俺がそんなくだらないことを考えて姫さんを傷つけてきた、その罰、なんだろう、か。


「姫さん!」


 もう、目は見えてないみたいだった。血が多く出過ぎている。

 伏せる姫さんの傍らには、大将が護身用にと姫さんに与えた護身用の小ぶりな刀。この刀で、姫さんは自害、したのか。護身用、なのに、自分の身を傷つけるだなんて、ああ違う、もしかして、姫さんは自分を護ったのだろう、か。

 なんでかなんて今はどうだっていい。このままじゃ、このままじゃ死んで、しまう…

 無意識に、未だ血が流れ出るそこに、押さえるようにして触れた。血はとても温かいのに、身体は冷たい。嘘だろう、こんなことって。

 茫然としていると、姫さんの指先がゆっくりと俺の手に触れた。冷たい。この人の手は、こんなにも小さかっただろうか。


「姫さん、どうして、」


 声が、掠れた。姫さん、何万と言ってきた形容詞が、ゾッとするほど虚しく響いた。どうしてなんて、理由なら頭のどこかでもう既に気づいているのに。俺のせいだ、きっと、いや絶対に、俺のせいだ。


「ねえさすけ、」


 呂律が回っていない、当たり前だ、こんなに血がいっぱい出ているんだから。明らかに、致死量。


「姫さん、喋っちゃだめだ、」

「さいごのおねがい、きいて。さいごのさいごのおねがいよ」


 最後のお願い。そんな最後だなんて、言わないで。


「うん、聞くよ、聞くから、だからねえ、血が止まらないんだ、だから喋らないでよ」


 小さな呼吸や微かな動きに敏感になる。変なけじめを守らずに、こうやって君の心の音に耳をずっと澄まして過ごせば、よかったじゃないか。

 ああ、もう遅い。これは、想いを隠していた、知らない振りをしていた、俺への罰なんだ


 ふいに、世界に二人ぼっちになったかのような錯覚を覚える。とても静かで、聞こえるのは姫さんの微かな粗い息遣いと、とても小さい、心音。

ト、ト、ト。

 途切れ途切れに、最後の力を振り絞って鼓動しているかのように。それなのに血は止め処なくあふれ出る。止まれよ、止まれって。必死に傷口を押さえて止血する。止まれ、なあ頼む、止まってくれよ。

 俺の手が真赤になる。姫さんの手も真赤になる。辺り一面が真赤に染まっている。床に一輪落ちている、姫さんが大事に育てていた鬱金香(チューリップ)も真赤だ。

 ああ、時間を戻すことができたなら、無力なこの両手を切り落とすのに。主が守れなくて、何が忍だ。主を傷つけて、何が忍だ。俺のこの手は、一体何のためにあったんだ。この人を、護るためだろう。それなのに護ることも助けることもできなくて、どうして俺はここにいるんだ。


「わたしさすけがすきだったのよ。わたしさすけをあいしていたのよ。だからわたし、さすけにいちどでいいからなまえでよんでほしかったの」

「呼ぶよ、呼ぶから。だから、死ぬなよ、死んだら呼んでやれなくなるから、だから、なあ、」


目を開けて、生きてくれよ。


 その声は、きっと届かなかったのだろう。世界はさっきと何も変わらず静かなのに、鼓動は聞こえない。

 なあ嘘だろう、目を開けてくれって、なんで、息して、ないんだよ、


何度だって呼ぶよ、君のその名前を

だから目を覚ましておくれよ

今頃気付いたんだ、君のその名前が、とても美しいということ


「 みょうじ さ ま 」




 結局俺のその声は、やっぱり届いてはいなかった。結局俺は、一度だってあの人の望みを叶えてやることができなかったのだ。

 いっそう、俺も、死んでしまおうか。無力だったのは俺の方だ。


 ふと、目線を外すと、あの人の血で真赤に染まった白い鬱金香が目に入った。赤の鬱金香の花言葉は、愛の告白。

 ああ、一世一代の捨て身のこの告白に、答えることができたなら!俺も好きだと、言えたなら!

 愚かしい俺が死んでも浄土に行けるのかは分からないけれど、もし向こうで会えるなら、その時は。名前を呼んで抱きしめて、愛してると言おう。大好きだと、言おう。

 まだ今なら間に合うだろう?死んでしまえば忍という忌まわしい壁はなくなるんだ。だからその時はこの気持ちを伝えよう。


「なまえ、さま、なまえさま、いま、いきますから」


 だからきっとまた、貴女のその美しい名前を、今度こそ呼ばせてください。

 さようなら、世界。ごめんなさい、旦那、大将。俺は大切な大切な人を、護りに行きます。


 最後に見た景色は、血の気のない顔でうっすらと微笑む、愛しい人の顔だった。今度こそ、幸せになろうね。


 そう呟いて、同じ刀で頸動脈をかっ切った。血が抜けるのを感じる。ああ、まっかだ。

 かのじょも、このけしきをさいごにみたのだろうか。

 むねがほっこりとあたたかくなったきがして、あとはそのまま、まっくらで、もうなにもみえなくなった。



世界は二人のために、回り続けているよ

離れてしまわぬように、呼吸もできないくらいに







チューリップ(赤)の花言葉…愛の告白
美しい名前/THE BACK HORN

100418



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