私の初恋の相手は、弁丸という、私より二つ上の父様の家臣の次男だった。 「弁丸、あの木に登りたいわ」 「姫様、危のうございますぞ」 「いいじゃない、前に佐助が登っているのを見たわ。佐助はよくて私は駄目だというの?」 弁丸を困らせることは、私にとって駆け引きだった。見捨てないで、見放さないで、どんな我儘もきいて。それが身分の差からくる優しさだったとしても、私はそれで満足だったの。それで嬉しかったの。 「弁丸、躑躅を採りに行きたいわ」 「はあ、つつじ…にございますか。何をなさるおつもりですか?」 「押し花にするのよ。そうしたら冬でも躑躅を見ることができるでしょう?」 「なるほど、それは名案にございますな!」 「でしょう?出来たら弁丸にもあげるわね」 「真にございますか!?」 だって、私は弁丸の傍にいてもよかった。誰にも咎められることはなかった。引き離されてしまうよりはましだと思っていたのよ。 「弁丸、抱っこ」 「姫様…」 「なあに、その呆れたような顔」 「姫様ももう八つ、少しはお淑やかになられてはどうです」 「…弁丸は、女子が苦手だと聞いたわ。本当?」 「な、誰がそのような事を…」 「佐助よ、弁丸の将来が心配だって。ねえ弁丸、私は苦手?」 でも、私は弁丸の特別になりたかった。父様の娘ではなくて、私として、恋愛対象として見てほしかったの。私は、弁丸に愛されたかった。 「姫様は姫様でしょう。他の女子とは違います」 「そう」 私は、弁丸に愛されたかっただけなの。 「あ、姫様どちらへ!?どこか気分でも…」 心配そうに声をかけてくる弁丸を見ないように、踵を返した身体をそのまま前へと進める。ばたばたと騒がしい足音が私を追ってくるのが分かるけれど、足を止めることはしない。足の長さも体力も、その差は歴然としているけれど、弁丸は私が一言来ないでと言ったら絶対に来ない。自信がある。だって弁丸はたったの一度だって私の嫌がることはしなかった。 私が、父様の娘だから。 「弁丸、来ないで」 ほうら、止まった。そうよね、当たり前だわ。だって貴方は父様の家臣の昌幸の息子だもの。私は貴方の主だもの。来ないでと言われれば逆らうことはできない立場だもの。なんて、酷い人。弁丸はひとつだって悪くはないのにそう思ってしまう私は、なんて醜い子なのかしらね。 「姫様が近づいて欲しくないのでしたら、弁丸は近づきませぬ。ですが、なにか気分を害したのであればお申し付けください」 「…貴方のそういうところが嫌いよ」 「……でしたら、お館様に申し上げてお目付け役を変更させて頂きます」 嫌いと、そう口にすればなにか言ってくれるかと思った。そんなことを仰らないでください、ご冗談でしょう、そう言ってくれたならば、冗談よと返すつもりだった。嫌ってなんかないわと返すつもりだった。けれど帰ってきた言葉は期待したものとはかすりもしなくて、頭にかっと血の昇った私は最悪の事態を引き起こしていた。 「そういうことではないわ!弁丸が、私を姫としてしか見てくれていないから、私の気持ちなんて少しも気づきやしないから!だから私は…私は………っ」 その先は言ってはいけないと思った。言ってしまえば楽になれるのかもしれない。けれど言ってしまっては、迷惑がかかるのは弁丸だから。ああこんな時だって私は貴方のことを考えているというのに、貴方といったら。貴方といったら!本当に私は醜いわ。 「もういいわ、下がって。お目付け役はもう必要ないから、そう父様に申し立てておいてちょうだい。さようなら、弁丸」 茫然としたような表情を浮かべた弁丸を横目で見た後、走らないように気をつけて早足で自室へ戻った。部屋へ入ってすぐ、万一の時の為にある外へと繋がった隠し部屋の中で声を殺して泣いたことは、そっと手ぬぐいを差し出してきた佐助だけが知っていた。 その日から私は一日の殆どを自室と庭で過ごすようになり、外との交流の一切を遮断した生活を送った。こんなに苦しく辛い思いをするならば、新しい恋などは必要ないとそう思って。 そうして弁丸と会わぬまま数年が経ち、あの日から一年後くらいに弁丸は元服して幸村になったと聞いた。弁丸と会わなくなってからは私もどこか胸に穴が開いたようになり落ち着き、その穴を埋めるようにあまり好きではなかった習い事もきちんとした。いつの間にか諸国に私は芸達者で聡明な深窓の美姫だという噂が広まっていると耳にするようになった十五の年に、とうとう輿入れすることとなった。相手は顔も名前も知らないし大きい国ではないのだけれど、鉱山を所有していて財政は潤っているという。 父様は眉間に皺を寄せ、すまなそうに頭を下げた。そうして、お前が嫌ならば別の手を考えると仰った。優しい人。 「甲斐のため、武田のため。謹んでお受けいたします」 深々と頭を下げゆるゆると顔を上げると、父様は悲しい目をしていた。どうか笑ってくださいな、娘のハレの日が決まったのですから。すまない、ありがとう、そう呟いて部屋を出ていった父様の背中は、前に見た時よりも随分と小さく感じた。 戦場や公では甲斐の虎と呼ばれている武田信玄は、今ここにはいない。本来ならば良縁だと言って強引に話を進めるものだというのに。でも私は、優しさだけでは天下を統一することはできないと知っている。父様に足りないのは厳しさだわ。血のつながった実の娘であっても、外交の為なれば切り離せるようでなければ。でも私は、父様にそれはできないということも知っている。だから私から離れていけばいいのだわ。自分で最善の道を選べばいいの。 「なまえ。輿入れの話は聞いたかい」 「兄様」 父様が閉めずに行ってしまった襖からひょいと顔を出して、兄様が突然話しかけてきた。よりによってそのお話ですか、と思ったけれど、兄様は昔からこうだったわ、と大して気にとめないことにした。 「ええ、今しがた。お受けいたしますと返事を」 私がそう言うと、いつの間にやら正面に座っていらした兄様は、驚いた表情を浮かべていた。やはり父様と似ているわね。 「いいのかい?なまえは相手をよく知らないし、側室のいる方だと聞いているが」 「そのようなことは大した問題ではないでしょう。私は正室となるのですから」 でも、と問題点を並べていく兄様。次期武田の当主がこんなことでは行く末が気になるわ。だけれども父様もそう変わらないお方だから、どちらにしろ不安でならない。お二人は産まれてくる時代を間違ったのやも知れないわね。もっと後の時代だったのなら、その優しさできっと多くの人を救えたでしょうに。 「兄様は私が嫁ぐことがお嫌なのですか?」 「いや、そういうことではないんだ。ただ、寂しくなるし……そうだな、嫌かと聞かれれば嫌なのかもしれない」 兄様は正直ね、私もそう素直に産まれてこればよかった。そう生きてこればよかった。後悔というよりは反省、かしら。私が素直であったなら、色んなことが上手くいっていたような気がする。そう思っても、もう後の祭りなのだけれども。 「兄様、安心してくださいまし。なまえは嫁ぎ先が決まって幸せにございますゆえ」 「…それなら、いいんだ。なまえが幸せな事が一番いいに決まっているからな」 そう言ってふんわりと優しく笑う兄様。幸せなはずがない。好きでもない殿方に嫁いで、甲斐から離れて、相手にはもう側室もいて。幸せなはずがない。それでもきっと、このまま報われぬ恋を忘れられずにいる方が哀しいもの。 じゃあ鍛錬の時間だから、と部屋を出ていく兄様。兄様は武田の跡取りにもかかわらず、生涯一人を愛しぬき正室しか娶るつもりはないと公言なさった。そしてその言葉通り、幼少のころより恋仲であった従姉妹の嶺松院様と祝言を挙げた。兄様と義姉様は、私には実ることのなかった初恋を実らせたのだわ。 それでもああ、なんということ。絶対に実ることはないと理解していながら、私はまだ諦めきれずにいるなんて!見ればまた辛くなると分かっていながら、あの躑躅の押し花を捨てれずにいるなんて!私はなんて、なんて馬鹿なのかしら。 なんて不毛な、それでも恋 兄様は一応、史実では廃嫡された武田義信さんをイメージ 躑躅(白)/初恋 110106 ↓叱咤お願いします |