苦しくて、苦しくて、酸欠になりそうなくらい、苦しくて。 それでも涙は、流れなくて、溢れなくて。 本心を隠した口先だけの“愛してる”が、吐息と外気に混じって虚空に消えていった。 金魚(きんとと) 禿(かむろ)だった頃にお姐さんにつれられて、縁日で金魚掬いをした。金魚が水面に顔を出して口をパクパクさせている姿が、子供ながらに面白かったからだろうか。大きな水槽の中で捕まるまいと逃げる金魚を追いかけてつついて遊んでいた。 数分して飽きたころ、未だ必死に泳ぐ金魚を尻目で見、馬鹿みたいだと笑った。さっき私がつついて元気がなくなった金魚が、それでも生きようと横を向き口を懸命に開く姿を見て、滑稽だと罵った。 あの頃の私は、今よりもずっと自由で軽やかだったように思う。そしてある意味、今よりもずっと罪深かったように思う。 そのせい、だろうか。今私は水面で必死に酸素を求めて口を動かす金魚のごとく、醜くもがいている。そう、まるで、あの時自分が罵った金魚のように。 …好き、だったのかもしれない。仕事だと、自分では割り切ってるつもりだったのに。失くしてから気がつくなんて、シャレにならない。 苦しい。苦しい。苦しい、苦しいのよ十四郎。助けて、愛してるの。本物の愛してるを貴方にあげる。だから助けて。哀しみで、苦しいの。貴方を失った哀しみで、息ができないのよ。 ――コンコンッ 「姐様、お客様でありんす」 「客…?」 仕事には欠かせない大事なお客様。けれども生憎そんな気分にはなれなくて。こんな半端な気持ちで接するなんて、失礼だわ。 「美桜(みよ)、お客様は誰?常連さんじゃなきゃ帰ってもらうか美桜が相手してちょうだい」 「それが…」 「…誰なの?」 嫌に歯切れの悪い。 美桜は私付きの新造の一人で、とても可愛い子。そして驚くほど賢い子。その美桜が返答を詰まらせるなんて、どんな人が来たのかしら… 「真選組の局長様と一番隊隊長様がいらっしゃって…」 「近藤様と沖田様?……行くわ。茶屋でなくても構わないから先にお通ししておいてちょうだい」 「あい」 ……タイミングが良いんだか悪いんだか…大方、あの人が使い物にならなくなったのでしょう。 毎度のこと。少しでもケンカすれば翌日のお客様は近藤様と沖田様。毎度のこと。それも今日で終わり、だけれど。 「お待たせ致しました」 「ああ、華(かるら)さん。久しぶりでさァ」 「そんな他人行儀な呼び方はよして、なまえとお呼びくださいな。一週間ばかし前にもいざこざがあってからに、久しぶりでもないでしょう」 「茶屋じゃなくて本当によかったのかい?」 「ふふ、三枚歯下駄は重くて敵いませんからね。お二人ならよろしいかと」 嘘は、言ってない。今は三枚歯下駄を履いて歩く気もなければ茶屋まで花魁道中する気にもなれない。気分は依然沈んだまま。多分これからもっと沈むのだろう。 「さて、早速本題に入らせてもらいまさァ」 「…ええ、察しは付くけれども」 「…トシと、何があったんだい?」 いつもそう。近藤様は躊躇うことなく、聞きたいことを率直に聞いてくる。そしてその真剣な瞳に、胸の奥がドキリと苦しくなるの。うまく呼吸出来なくなって…嘘がつけなくなってしまう。そうしていつも本当のことを話してしまうのよね。 でも今日は、そんなことをされなくても話すつもり。 「……終わりにしましょうと、言ったのよ」 「「!!」」 「最近幕府に認められて、真選組の活動が活発になってきているでしょう?ということはつまり、市民の手本にならなくてはならないということ…」 「………」 「一隊士ならともかく、その真選組の要ともなろう副長あの人が私みたいな売女に現を抜かしてるだなんて…上にも下にも知られたら、厄介なことになるばかりだわ」 「なまえちゃん…別にそんなこと気にしなくても良いんだよ?」 「そうですぜ、局長なんかストーカーでさ」 「…それでも…私のようにお金さえ払えば何でもするような売女ではないでしょう?」 私はいいのよ。どれだけ蔑まれようと、生きていける。 でもあの人は違うから。私とは違って、太陽の光の下が似合う人だから。 「近藤様、沖田様、後生でありんす。なんとか、なんとかあの人を説得してくれなんし」 「……なまえさん」 「あちきの事など忘れんして、御天道様の下で相応しい女性と添い遂げて欲しいんす。あちきが願うのは、あの人の幸せだけ…」 廓詞を使うのは私のけじめ。女郎の誇りを捨てないように。現との区別をつけるための、大事なけじめ… 「あちきはもう、十二分によい思い出をもらいんした」 人として愛された。それだけで、もう… 「後生でありんす。その方があの人にとってもいいんす」 「なまえちゃん、でも」 「もうあちきに心残りは…っ!」 急に襲うお腹の痛み。なぜ。なぜ、今なの。 「なまえさん!」 「総悟、美桜ちゃんを呼んでくるんだ!」 「待ちなんし!なんでも…なんでもな、っつぁ…っ」 誰にも知られたくなかったのに。美桜にもあの人にも誰にも… 「花魁!なまえ姐様!」 「美桜ちゃん、なまえちゃんは」 「姐様の腹にはやや子がおりんす。土方様とのやや子が…」 ああ、美桜は知ってたのね。それもそうね、とても賢い子、だもの。 「っ、近いうち水にしんす。そちらにも迷惑はかかりんせん……ああっ!」 「姐様!」 「なまえ!」 …なんで。なんでここにあの人が、いるの。 「とうし、ろ、」 「お、まえ、どうして黙ってたんだ!赤ん坊がいるなら、言ってくれりゃ、」 そんな、こと。言われたって駄目なものは駄目なのよ。それが地下の、吉原の掟なのだから。 「言っていれば、どうなったのでござんしょうか。どうせ水にして流さなければいずれか見つかりんして、流れるまで鞭打ちの刑でありんす」 「っ……」 「そんな、今更言われんしても…っ、た、」 「なまえ!」 もう、嫌。なんで。なんで、愛してしまったのよ。 「もう、遅いのよ……っ」 もう、なにもかも、遅いのよ。 私が女郎じゃなかったら、そうしたらよかったのかしら。私が普通の町娘だったら。私が商人の娘だったら。私がお武家のおひい様だったら。 そうしたら、貴方と一緒になってもよかっただろうに。 「……そんな、そんなことはありんせん。姐様もやや子も土方様もみな、幸せになれる方法がひとつ、ありんす」 「美桜…?」 「土方様が姐様を身請けなさればよろしいかと」 身請け。十四郎がお金払って私を身請けすれば、私たちは幸せになれる。 流石ね美桜。でもねそれは、無理なのよ。 「美桜、あちきはこの吉原一の呼出し花魁、華でありんす。人ひとりが一生遊んで暮らせる大金積んでも、あちきを身請けするには足りんせん」 「姐様…」 愛だけではどうにもならない世界だから。いい夢見させてもらいんしたよ、土方様。 「もうお引取りくんなし」 「……幾らだ」 「…あい?」 「お前が幾らか、聞いてんだ」 そんな、払えるわけもないのに。あんな馬鹿みたいな額。この間も幕府のお偉いさんが値段を聞いて帰っていったばかりだというのに。 「千と六百」 この、声は… 「親父様!」 「千と六百両払えたら、華をどこへなりと持ってきな。美桜もつけようじゃあねぇか」 「親父様、姐様は千と二百両だと、この前申していたのではありんしょうか?」 「お前も華の新造じゃあなかったら、昼三くれぇの花魁だろうよ。それに…そこの坊(ぼん)」 そう言うと親父様は、沖田様に目を遣った。まさか、親父様も気付いて…? 「お前さん、美桜に惚れとるろう。お前さんも工面するってんなら、美桜は坊にやってもいい」 さぁ、どうしなっせ。 意地の悪い悪徳商人のような笑みを浮かべた親父様を見るのは、久しぶりだった。 その後の展開は早かった。 親父様が分割払いでも構わないだとか言い出すものだから、上も下も大騒ぎ。先日の大名はカンカンになって殴り込みに来るわ、この一連のことが瓦版になるわで、店はいつもに増して賑わっていた。親父様は大見世の忘八らしく怒鳴りつけていた。 私は喧騒の中、美桜と共に大門を出た。 「泣かんせんの。姐様たちは身請けられて出て行くんでありんす、笑顔で見送ってやんなまし」 「でもわちきは、もっと華の姐さんとおりたかったんでありんす!」 「美桜姐さまも行かれたら、わちきは哀しくて死んでしまわす!」 「穂積、有明。霞水(かすみ)が今日からお前たちの花魁でありんすよ。霞水、二人を宜しく頼んますえ」 「あい…あい、華姐様、美桜姐様…っ」 「では皆様…おさらばえ」 金魚 結局、その金魚は次の日の朝にはお腹をみせてぽっかり浮かんでいた。 きっと私のこの苦しさも、明日になれば跡形もなく消えてゆくのだろう。 温い腕の中でまどろむ夜に、消えて亡くなる不安のように。 花街が好きです この時代は呼出しが一番、その次が昼三 千六百両=8000万くらい 091030 ↓叱咤お願いします |