カメレオンの色間違い

(!ドラマ木目木奉夢 ご注意!)
(!名前変換ありません!)
 
 ◆柿原満(カキハラミツル)
 
 組織犯罪対策課5課から特命係に来た巡査部長。
 神戸より後に特命へ配属。
 普段は無駄口も叩かず、杉下に楯突くことも無く、淡々としている。
 淡々としすぎて、影で『鉄仮面』と呼ばれてる。
 組織犯罪対策課時代に犯人を過剰に殴ったため、特命へ配属になった。

 ―――――――――――






 柿原満は勤務後はネクタイを外し、右耳にピアスをつけると、バーに入り浸る。上司が『花の里』に入り浸るように。―――否、入り浸るとは上司に失礼か。『花の里』の女将は上司の元妻だと言うし。別れたとて、関係は良好で気が休まるんだろう。
 満の気の休まるバーはいわゆるゲイバーであり、その嗜好は当たり前だが、警視庁という職場では秘密にしている。
 
 カウンターで一人で飲んでいたら、背の高い男に声をかけられた。龍の刺青が首にある男だ。黒いTシャツをさらりと着て、ジーンズというラフな格好の男。顔はまあまあ良い。
「一人で飲んでて寂しくない?オレと飲もうよ」と言われ、2杯付き合った。まあ、ゲイバーなので、ホテルの誘いもあった。気持ちよくしてくれる、と。ほろ酔いだったが、やんわり「考えておく」と言った。
 店を出ると、知る顔が3人、雁首揃えて道の反対側に路駐していてドキリとした。
 知らぬふりをして通り過ぎようとするが、3人のうちの一番下っ端、芹沢が声を掛けてきた。広い道では無いので、普通に声をかけられても聞こえる。
 はあ、と溜息を吐く。髪を直しながら、仕方なく車に近づくと、「ちょっとちょっと!何してるの!こんなとこで!」と芹沢が言う。
 
「……別に言う必要あります?俺が就業終わりに何してようが、関係無いですよね?」
 
 満はそう言って立ち去ろうとするが、伊丹が怖い顔をさらに般若のようにして、後部座席のドアを開けて満を引っ張りこんだ。
 伊丹にぶつかる様に狭い後部座席に倒れ込む。
 バタン!と車のドアが閉められた。
 
「…お前、あの店がなんだか知ってて入ってんだよな!?」
 
 ワイシャツを掴みあげて問い詰める伊丹の手を掴み、満は睨み上げた。
 
「知ってますけどなにか。…痛いです」
「……はあ、問い詰めてえけど、そんなことよりだ。おい、コイツ見なかったか?」
 
 満のワイシャツを離した伊丹が、鼻先に突きつけた写真は、夜の暗い車内でも何とか見える状態だった。……知ってる。特徴的な龍の刺青が首に入っている男。
 
「さっき、飲んでたら話しかけられましたけど。マル被ですか?」
「何ぃ?話しかけられただぁ!?」
 
 伊丹の怒鳴り声が車内に響く。
 満は両耳を塞いでそれをこらえると、見兼ねた助手席の三浦が話を主軸に戻してくれた。
 
「薬物常習、被害者を薬物過剰摂取で3人殺してる。…お前、本当にこいつで間違えないのか?」
「ええ、刺青に覚えがあります。……なるほど」
 
 しばしの間考えた満は、ふう、と溜息をつくと、ポケットに入っていた警察手帳を伊丹に渡す。

「あ?おい、お前どう言う…」
 
 事だ、と続ける前に、運転席の芹沢に声を掛けた。
 
「イヤホンマイク貸して下さい。行ってきます」
「は?あ、え、ちょっと!」
 
 芹沢のイヤホンマイクを後部座席から毟り取ると、自分の耳に嵌め、車を降りた。
 
「シッポ出さないからまごついてたんですよね。…今からやる事、絶対に杉下警部たちには言わないで下さいね。じゃ、合図出したら突入してきてください」
 
 …バタン。
 車のドアを閉めて、先程までいたバーに向かって歩いて行った。
 
「アイツどうする気ですかね?」
「つーかアイツ、ゲイなのか…」
「……まあ、人の嗜好は自由だろ」
 
 芹沢がイヤホンのなくなった耳を掻きながら首を傾げ、伊丹は満の残していった警察手帳を見ながら疑問にも確信にも取れる言葉を口にし、三浦がそれを宥めた。
 
「何する気なんだぁ?柿原の奴…」
 
 伊丹は満がさっさと入って行ったバーの入口に目を向けた。
 
 
 ◇
 
 
 カランカラン
 
「お兄さん。フフ、さっきはどうも」
 
 満はピアスのついた方の髪をかき揚げて、人の良い笑顔を作った。左耳はイヤホンマイクがあるため、隠したままだ。
 
「ああ、さっきの子。振られちゃったかと思ったよ、オレ」
 
 男は男らしい笑顔でカウンターに肘をついて隣の席をトントンと叩く。
 満は男の隣りに座ると、カウンターの上にあった男の手を触り、囁くように口を開いた。
 
「やっぱり僕、お兄さんのこと忘れられなくて。なんで断っちゃったんだろう、って引き返してきたの」
 
 満はさらに男の耳に口を寄せ、続ける。
 
「……本当に、気持ちよくしてくれるの?」
「勿論」
 
 男は笑みを深めて満に軽いキスをした。
 
 
 2人は腕を組んでバーから出てくる。
 満は路肩の車に一瞥くれると、芹沢が運転する車がゆっくりとハザードを解除して発進した。
 
 
 少し歩いた満と男は近くのラブホテルに入って行く。
 
「先輩!!アイツら、ラブホに入っていきましたよ!」
「うるせえ芹沢!見りゃわかる!分かんねえのはアイツのやってる事だ!」

 伊丹は芹沢にそう怒鳴ると、イヤホンに耳を澄ました。
 

「…ホテルなんて久しぶり。僕、この201号室がいいなぁ」
 
 男に媚びるように満は甘えた声を出すと、男は「分かった、オーケー」と言ってカウンターに置かれていた201号室の空室ボタンを押した。
 男はカードキーを受け取ると、エレベーターで部屋へ向かう。
 部屋に入った2人は縺れるようにベッドになだれ込んだ。
 満は男にスーツの上着を脱がされ、ワイシャツとスラックス姿にされる。
 
「ねえ、待って…お風呂」
「待てない。気持ちよくするって言ったろ?」
「もう…」

 満はしめしめ、と思いつつも甘えたネコの男を演じ続ける。
 男は満に背を向け、手持ちのセカンドバッグを漁って、とあるものを持つと、満に見せつけた。
 
「コレ、気持ちよーくなるオクスリ」

 目の前に出されたのは細い注射器だった。
 …なるほどね、違法薬物。さしずめ、覚醒剤か…それに近しいものだろう。
 今から行われようとしているのは、キメセクだ。
 
「それ痛くない?僕、痛いのは嫌だよ?」
「痛くないよ、注射針細いし。皆やってるし」
「えー?そうなのぉ?」
 
 枕を抱きしめ、可愛こぶる。
 
「ほら、腕出して。すぐ気持ちよくなるから」
「痛いのは…」
「だいじょーぶ!オレ上手なんだからー」
 
 そう言ってる間にワイシャツをまくられ腕を引っ張り出されて、すぐに針が差し込まれた。
 ドクリ、と血管に流し込まれる薬物。
 
「はーい、終わり!頑張ったね!これから気持ちよーくなるから」
 
 男は明るく言うと、注射器を抜き、床に投げ捨てた。
 満は男の声がだんだん遠くなるのを感じながら、クラリとしてベッドに倒れ込んだ。
 だんだんと視界が虹色のライトで照らされたように鮮やかになる。頭がボンヤリとしてきて、呼吸が荒くなってくる。
 五感が鈍くなるような、鋭くなるような、上も下も右も左も分からない浮遊しているような状態になってくる。
 
「…………にゅう…」

 やっとのことで、満は口を開いた。
 
「えー?どうしたの?もう気持ちよくなってきちゃった?」
 
 男はくつくつと笑いながら満のワイシャツのボタンをプツプツと外していく。
 服をどんどん暴かれていく感覚が鈍い。
 
「………突、入…ッ!!」
 
 満は声をやっと張り上げると、すぐにホテルのドアが乱暴に開かれ、「確保ォ!!!」と言う伊丹の怒号と共に人がなだれ込んできた。
 
 男は芹沢と三浦が取り押さえ、伊丹は満に駆け寄る。
 満の服はワイシャツのボタンが全て外されており、ほぼ上裸の状態で、スラックスもベルトが緩められてジッパーが下ろされていて、下着がちらりと見える状態だった。
 ナニをされそうになっていたのか、伊丹はすぐに理解しカッと顔に血が集まるが、頭を振ってすぐに冷静になり、自分のスーツの上着を満の身体に被せた。
 
「おい!!おい!柿原!おい!!」
「……、……」
 
 頬を叩くが、満の目は虚ろで反応はまったく無い。ぐったりとしていて、人形のようだ。
 伊丹は血の気が引いていくのがわかる。今までの被害者と重なる。
 
「おい!救急車ァ!誰か救急車呼べ!早く!」
 
 伊丹の怒鳴り声が部屋に響いた。
 
 
 ◇
 
 
 ぴ、ぴ、ぴ……という機械の規則的な音と酸素マスクのシューという音で、満は目が覚めた。
 フワフワと浮いている感覚があるが、目の前は白い天井で、自分は管に繋がれベッドに横たわっていることがすぐに分かった。
 
「…目が覚めましたか?」
「……杉下、警部。神戸警部補…」
 
 首を少し横にすると、そこには上司の杉下が椅子に座っており、神戸は壁に凭れてこちらを見ていた。
 
「……すみません」
 
 満は杉下の冷たい視線に耐えきれず、目を逸らして謝罪の言葉を述べた。
 
「自分がどのくらい馬鹿なことをしたか、ぐらいは分かっているようですねえ」
「……はい」
「君の行動には肝が冷えますよ、全く」
「…すみません」
「…すみません、って。下手したら、君、死んでたかもしれないんだよ?」
 
 今まで静かにしていた神戸は少し怒りを込めた言い方で満に言葉を投げた。
 
「シッポを掴むには……アレが早かったです。薬の量は…見てました。大体の薬物の危険量は、把握しています。…多かったら、打たれる前に…突入をかけるつもりでした…」
 
 酸素吸入器を外して、満は話す。
 
「……それでも!自分の身を危険を晒してまで捕まえる相手だったの?あのタイミングではなかっただろうけれど、確実に一課だけで追い詰められる犯人だっただろ!」
 
 壁に背を預けていた神戸は、杉下より前に出て、枕の横に手を置いて怒鳴りつけた。
 普段スマートな神戸らしくない。
 己の身を危険を晒し、事件を解決するのは刑事の領分だ。しかも捜査一課に首を突っ込むのは特命係の得意技のはずで。つまるところ、神戸は言い方を変え、満の『体を売るようなやり方』を言及したかったのだろう。
 
「…嫌いなんです……ああいうヒト」
 
 ぽつりと言った満に、神戸は「は?」と言った。
 
「嫌いなんです。どうせ伊丹さんたちから聞いてるんでしょうけど、俺はゲイです。一晩の相手を探す事もします。でも、ああやって好き勝手に食い物にする男は、吐き気がする程…嫌いなんです」
「そりゃ、なんだろうと、誰だってああいう奴は…!」
 
 神戸の言葉を遮るように手を挙げた杉下は静かに言葉を掛けた。
 
「…それは、君の事件とその後の生い立ちに関係してますね?」
 
 それを言われ、満はヒュ、と息が止まった。
 …杉下警部は、知っているんだ。
 
「……ッ、…は、い………」
 
 目を伏せて肯定した満に、神戸は「なんです、それは?」と聞いてきた。
 
「話して、よろしいですか?」
「……はい。…もう、黙ってられない、ですから…」
 
 満は目を閉じた。
 
 
 ―――20年前。京都府京都市左京区。
 柿原満が中学一年生の頃。
 彼は父子家庭の育ちで、父親は不動産会社の社長だった。
 二人暮しで、とても仲の良い親子だった。
 とある夏の日。学習塾の帰り道に、息子は誘拐事件に巻き込まれた。
 犯人からの要求金額は1億円。警察に通報したら、息子は帰ってこないと言われていたが、父親は堪らず通報した。
 1億円は犯人に受け渡し成功したが、犯人を誰一人として捕まえることが出来なかった。後に息子から聞いた犯人の数は最低でも10人はいたのではないか、との事だった。
 金と交換に息子の居場所を聞いた警察は、直ちに指示された廃工場へ向かった。
 廃工場の奥まった場所で柿原満が見つかったが、酷い性的暴行を受けた跡があった。
 帰ってきた息子は、PTSDにより男性恐怖症になった上、ストレスにより話せなくなり、不登校と引きこもりになるまで時間はかからなかった。
 父親は酷く悲しみ、どうにかしようと手を尽くしたが、そもそも男性恐怖症になってしまった息子は自分を見るだけでパニック状態に陥る。
 そして、一人で心を病んだ息子と、当時のこの事件における報道の仕方に言及しつづけ、奮闘し続けていた父親は疲れ果て、遂に自宅で首を吊った。
 偶然部屋から出た息子は、遺体を発見。
 遺体は、死後一週間は経っていて、状態は腐り始めており、酷いものだったと言う。
 その後の満は、今まで絶縁状態だった親戚をタライ回しにされ、高校を転々として、成人男性と深夜、共にいるところを補導されることもあったという。高校卒業とともに大学に通うために、父親の遺産を手に親戚も知り合いもいない東京へ上京した。
 そして、警察学校を出て、交番、所轄、警視庁へ。
 心の傷は未だ癒えておらず、夜は眠れないために、普段は処方された睡眠薬と精神安定剤を飲んでいる。
 
 
「酷い…」
 
 神戸はポツリと言った。
 満は溜息を吐いて、フ、と笑った。
 
「…“酷い”?…同情しないでください」
「被害者家族会や然るべき処置があれば、君が身を削るような事をしなくて済んだはずだ」
「そうですね。今ならそうでしょう。…20年前なんて、そんなの何の役にも立たないんですよ、実際。それが現実です」
「そんな…」
 
 満が2人から顔を逸らし、曇り空が映る窓を見ながらそう言うと、神戸は悲壮な声を上げた。
 
「ですが、今回の一件で、20年前の事件の足がかりの一つになりそうですよ?柿原君の今回の行動は全てが馬鹿な行動ではなかった、という事です」
 
 杉下の言葉に、満は「…え」と首を杉下に戻した。杉下は続ける。
 
「逮捕された男…、幸坂耕一郎は、20年前に誘拐事件に関わったという余罪が浮上しています。幸坂の当時の住所は京都府京都市だとの事です。当時から暴力団と関係があり、薬の売買をするため、東京に上京してきたと」
 
 静かに判明している情報を満に語ると、杉下は膝の上で指を組んだ。
 
「でも…それにしてはアイツは若すぎる気が…。だって…だって、俺の事件は20年も前です…!最初から最後まで目隠しをされていましたけど、男の声は若くても20代後半から30代位で…犯人は今、4、50代位のはず!」
 
 杉下の言葉に満は、起き上がりかけて声を上げ、困惑する。目眩がするが構ってられなかった。
 管が限界まで伸びきったところで、杉下に優しく胸を押されて布団に戻された。
 
「…幸坂は20年前、当時18歳で、地元の先輩と金銭目的で誘拐を働き、暴行を行ったと本人が証言しました」
「……18、歳…」
 
 満は右手で目を隠した。
 犯人が10人以上だったため、暴力団の線も考えたが、組織犯罪対策課時代に情報を集められなかった。それはそうだ。だって、当時は犯人が未成年が混じっていたのだから。
 
「未成年が居たなんて…」
「…神戸君。そろそろ、柿原君も疲れているでしょうから、僕達はお暇しましょうか。柿原君は薬が抜け切るまで、決して退院しては駄目ですからね。しっかり休んでください」
 
 杉下は椅子から立ち上がり、神戸とともに病室を後にしようとしたが、振り返り、「ああ、最後に一つだけ」と言った。
 
「…なんでしょう」
「なぜ、伊丹さんに警察手帳を預けたんですか?」
「…脱がされる時、手帳が落ちたら元も子もありませんから。相手は3人殺してるんです。だから悟られないためには手帳は持たない方が良かった。それだけです」
「本当に、それだけですか?」
「……ええ」
「よくわかりました。では、お大事に」
 
 ガラガラ、パタン。
 
 
 …違う。
 満は男を相手にする時、いつも手帳を持たない。
 いつ、あの時の犯人に出会うか分からないから。
 東京という大都会で、京都にくすぶるより、出会う可能性があると踏んだから上京した。
 出会ったら、必ず殺してやるつもりだから。
 警察なんてしがらみもなく、柿原満として。
 そのためには、人を殺すとか自分を犠牲にするなんて厭わない。その後自分がどうなろうと関係無い。
 柿原満はそのためだけに生きてきたのだから。
 そんな時に手帳を持っていたら、具合が悪い。
 ……だから、持たない。
 しかし、そんな憎悪は杉下右京に通用しない。
 特命係に来て知った。
 彼はいつも“正しい正義”を貫くから。
 自分とは水と油だ。
 …そんな憎悪の片鱗を見せたら、杉下右京は嗅ぎつけるだろう。部下の犯そうとしている過ちを。
 決して見せてはいけない自分の裏側。
 決してバレてはいけない自分の憎悪。
 カメレオンのように、溶け込んでいなければ。
 
 
 ふ、とサイドテーブルを見たら、そこには警察手帳と証拠を入れる時に使う小さなジップ袋に入ったピアスが置かれていた。
 
「警察手帳と…ピアス…ね…。僕、本当はどっちなんだろう」
 
 自分の表と裏を表す、警察手帳とピアス。
『正義』の警察官の姿の自分と、ゲイの姿で人を殺そうとする自分。
 
「ハハハ……笑える。……狂ってる」
 
 あの時から
 自分は狂ってる
 
「…お父さん。僕も早く…そっちに行きたいよ」
 
 
 ◇
 
 
 あれから2週間経って、やっと医者から退院の許可が出た。
 少し痩せた身体で久しぶりに登庁すると、捜一トリオと廊下ですれ違った。
 
「あ、先輩!柿原ッスよ!」
 
 芹沢は先輩2人の肩を叩き、自分の後ろを指さした。
 
「本当だ。ようやく退院出来たんだなぁ。無事でよかった。なあ、伊丹」
 
 三浦も芹沢とおなじ方向を向き、ホッと溜息を吐くと、伊丹に振った。
 伊丹は満の方を向くと、元々眉根にシワが寄っているところをさらに濃くして、大股で満に近づいて行く。
 満のスーツの後ろ襟をガシッと掴むと、力任せに引き寄せた。
 
「特命係の柿原ァ!ちょっと顔貸せ!」
「……廊下で大きな声出さないでください。迷惑です。俺、遅刻しそうなので、用事ならお昼にお願いします」
「ッチ。分かったよ。絶対昼だぞ」
「……?……はい」
 
 後ろ襟を離された満は襟を整え、首を傾げて特命係の小部屋へ向かった。
 
 昼。早速伊丹が「おい、柿原。ツラ貸せ」と入ってきた。
 杉下も神戸もポカンとしている。
 
「…はいはい」
 
 満は溜息を吐いて席から立ち上がると、伊丹に着いていく。
 警視庁を出てしばらく歩く。黙ったまま何処に行くのかと思っていたら、とある行列に並び始めた。
 ラーメン屋だった。店の外までラーメンとニンニクの香りが漂ってくる。
 
「伊丹さん。俺、ラーメンはちょっと…」
 
 満は伊丹に言うが、「うるせえ」と一蹴されてしまった。
 ……病み上がりなんですけど。
 満は溜息を吐くが、お店の回転は早いようで、いつの間にか列の前の方まで来てしまった。
 そもそも、満は普段から脂っこいものが全くと言っていいほど胃が受け付けないのだ。
 席に通されてしまい、伊丹とカウンターに並んで座る。
 勝手に伊丹に醤油ラーメンを注文され、カウンターの向こうからドンッとラーメンが出てきた。
 満は、はあ、と息を吐くと、仕方なく箸を割ってちびちびと食べ始めた。隣りでは伊丹が慣れた手つきでニンニクを潰して入れ、胡椒を掛け、勢いよく食いついている。
 伊丹に遅れること、10分ちょっと。何とか胃にラーメンを詰め込んだ満は、伊丹と店の外で合流した。
 
「おめえ、入院で痩せたろ」
「……はあ?」
 
 いきなりの伊丹の言葉。
 そりゃ、入院生活で病人食を食べていたら痩せたけれども。
 それが伊丹に関係あるのか。
 
「頬が前より痩けてるし、…スラックスのベルトの穴が、使ったあとのある穴より一つ奥に通ってる」
 
 ベルトを指さされ、「ああ」と思った。
 意外と見てるんだなあ、と思っていたら、両手を自分のスラックスのポケットに突っ込んだ伊丹はそっぽを向いて言いにくそうに言葉を続けた。
 
「お前のおかげで現行犯で幸坂を押さえられた。証拠もバッチリだった。……だがよ、かと言ってお前があそこまでする必要はねえ。……死んだかと思ったぞ」
「俺が生きてて残念でしたね。…しっかり薬の量は見てましたし、あの手のタイプは最初から致死量を入れません。だんだん行為が進むにつれて足していくんです。それが蓄積して致死量になる。……キメセクで死ぬって、そういうものなんです」
 
 満の言葉に頭をかいた伊丹は、言いにくそうにチラッと満を見てからまた前を向いた。
 
「……その……普段からああいうバーに入り浸って、ホテル行ったりしてるのか?」
 
 もごもごと普段の伊丹らしくない言い方だった。
 ああいうバー。…ああ、ゲイバーか。満は腕時計で時間を確認して前を向いた。
 
「…そうですね。特にお店は決めてなくて、色んなところで飲んでます。そっちの方が出会いは多いですから。…イヤホンで聞いていたと思いますが、ホテルが久しぶりなのは本当でした」
 
 特定の店に出入りしていると自分が警察官とバレる可能性が高くなるから、いくつかの店をグルグル行ってるのだ。
 さも当たり前のように満は言うと、目を眇めて伊丹を見た。
 
「……何が言いたいんです?さっきから。この性癖についてのお叱りなら受けませんよ。俺の自由でしょう」
「お前の嗜好をどうこう言うつもりはねえ……けどよ、自分を切り売りするマネはすんな」
 
 伊丹の今度の言葉は言い聞かせるようなしっかりとした口調だった。
 
「切り売りしてるつもりは無いんですけどね。…まあ、俺みたいな人種に理解のない人から見たら、切り売りに見えるんでしょう」
 
 話しながら歩いているうちに警視庁に着いてしまった。
 
「じゃあ、伊丹さん。お昼、ご馳走様でした」
「あ、っおい!話はまだ……」
 
 伊丹を置き去りにしてエレベーターに乗り込んで、さっさと扉を閉めた。
 一人きりのエレベーターで胃と口を押えながら、しゃがみ込んだ。
 ずっと我慢していたが、気持ち悪い。胃でラーメンの脂が暴れている。フロアに着いたら早くトイレに行かなければ。
 ……綺麗事にも吐き気がする。
 だから、人と関わるのは嫌なんだ。
 
 トイレで食べたもののほとんどを吐き出した満は、廊下の自販機で水を買い、特命係の小部屋に帰ってきた。
 小部屋の時計は、ピッタリ13時。
 杉下に「おや、おかえりなさい」と言われ、「あ、はい」と返事をして、自分の机を漁る。
 胃薬と精神安定剤を水で流し込んで、一息ついた。
 
「伊丹さんに何か言われましたか?」
「退院したら痩せた、とラーメン屋に連れていかれて、何を言い出すかと思えば、“自分を切り売りするマネはするな”と」
「それについては僕も同感です。君は少し自分を大事にした方がいいですよ。夜な夜な一晩の相手を探すなんて以ての外です」
「ヒトの三大欲求です。当たり前ですが、それでお金を取っている訳でもありませんし、誤解されてると嫌なので言いますけど、しょっちゅうそういった行為をしている訳ではありません。特定のパートナーが居ないだけです」
「…天国のお父上が悲しみますよ」
「ウチはキリスト教徒でした。自殺した父は地獄ですよ」
「…どうやら、君にはどう話しても無駄なようですねえ」
 
 小部屋にピリ、とした空気が流れた。
 
「戻りました―」
 
 この空気を打ち破ったのは、神戸の戻りの声だった。
 
「…神戸君、君は相変わらず時間にルーズですねえ。お昼休みは10分も前に終わってますよ」
「すみません。大河内さんと話し込んでしまって」
「そうでしたか」
 
 時計を見ながら注意した杉下は、理由を聞いて納得した。神戸は自分の席に戻る。それを見て、杉下も読んでいた小説に目を落とした。
 
「ん?突っ立ったままでどうかしたの、柿原」
「……いえ、なんでも。伊丹さんにラーメン屋に連れていかれたので、胃が辛くて」
 
 置いてけぼりを食らって、立ったままペットボトルを握りしめていた満に神戸は声を掛けた。
 満は眉を八の字にして胃を押さえると、神戸は「なるほどね」と笑った。
 
「こっちはお粥しか食べてなかった病み上がりなんですよ?いきなり脂モノはキツかったです」
「確かに、それはキツイ」
 
 ハハ、と神戸は笑って、ノートパソコンでネットサーフィンの続きを始めた。
 
 
 その後何もないまま、定時になった。
 まだ、胃がムカムカする。
 はあ、と溜息を吐いた満は、ペットボトルの水を飲み干し、椅子から立ち上がった。
 杉下も神戸も支度を終え、先に札を返している。
 
「柿原君、お先に失礼しますよ」
「ええ、このファイルを一課に返してから帰るので、明かりは俺が消します。そのままで構いません」
 
 杉下は鞄を持ち、去っていった。神戸も後に続く。
 それを見送った満はファイルを胸に抱え、一課のフロアに向かう。
 途中で芹沢に会ったので、「芹沢さん。…お借りしていたファイルです」と渡した。
 
「あー、どこいったかと思えば。誰かが柿原に貸してたのか」
「すみません、必要だった時に借りていて。…三浦さんから借りうけました」
「いや、別に必要とかじゃなくて、今日は珍しくなんもなかったからさ。机片付けてて、“どこ行ったっけ”って思ってただけだから。この事件、ほぼ柿原の手柄みたいなもんだし」
「そんなことありません。突入して証拠を上げた一課の手柄ですよ。これ、特に伊丹さんの報告書は細かく記載されていたので、とても把握しやすかったです」
「伊丹先輩の報告書、いつも細かいからねえ」
「じゃあ、ありがとうございました。…失礼します」
 
 芹沢に手渡し、くるりと元来た道を引き返す。
 芹沢は後ろから「病み上がりなんだから、真っ直ぐ帰れよ」と声を掛けてきた。
 ……教師かなにかか。と突っ込みを心の中で入れながら、特命係の小部屋に戻って、自分の札を返す。
 パチン、と電気を消して小部屋を出たら、コーヒーを飲んでいた角田と目が合ったので、「お疲れ様です」と声を掛けてフロアを後にした。
 後ろから、角田の「おう、おつかれ。気をつけて帰れな」という声が聞こえた。
 
 エレベーターを使って一階のロビーに出たら、神戸が柱に背を預けて立っていた。
 誰か待っているんだろうな、と思いながら、横を通り過ぎると、「ちょっと待って」と腕を掴まれた。
 
「…神戸警部補、帰ったんじゃなかったんですか?」
「君を待ってたんだ。…これから予定ある?」
「……無い…です、けど」
「じゃあ、ちょっと付き合って」
「…はあ」
 
 地下駐車場に連れていかれ、神戸のGT-Rの助手席に乗せられた。
 夜の街を走って何個目かの赤信号で、満は我慢出来ずに神戸の横顔に声を掛けた。
 
「……なにか、俺に言いたかったんじゃないんですか?」
「ん?ああ、別に。オレのドライブに付き合ってもらおうと思って。気晴らしだよ」
「はあ…?」
「本当は飲みに誘おうと思ったんだけど、病み上がりだし、お酒はダメだと思って。お昼のラーメンで胃にダメージ来てたみたいだしね」
「だからドライブ?…そうやっていつも女性を誘ってるんですか?」
「…ちょっと待って、君の中でオレは一体なんなの?」
「……女たらし……ですかね…」
「だいぶ誤解されてるみたいだけど、違うから」
 
 満が顎に手を当てて、神戸の印象を言うと、神戸は溜息を吐いて否定してきた。
 神戸のキザな印象が強すぎるのだ。
 
 暫くして、海の見える高台に着いた。
 車からおりて、高台の柵の前まで来ると、夜の風が心地よかった。
 満はネクタイを緩め、髪を押えながら空を見上げた。
 満天の星空で、耳をすませば波の音が聞こえる。
 
「……薬物のまわりが普通の人より早かったって、医者から聞いたよ」
 
 神戸が車のボンネットに寄りかかって腕を組むと、満を見た。
 
「…この前言った通り、薬物の危険量は分かってたんです。…恐らく、俺の常用している処方箋薬との兼ね合いが悪くて、予想以上の混濁状態になったかと。自分的には…予想外でした」
 
 満は海を見ながら自分の考えを言う。
 
「伊丹さんがあれだけテンパってたのは初めて見たよ」
「……そうですか」
 
 しばらくの沈黙。
 
「……一晩の相手、ああやってバーでいつも探してるの、理由があるんじゃないの?」
 
 ピクリと満の肩が強ばった。
 
「いつも探してるって言い方、やめてください。PTSDで男が怖いはずなのに、いつの間にか男じゃないと駄目になってた。でも、いつもじゃないです…セックスしないことだってあります。むしろそっちの方が多いくらい」
 
 満は膝を抱えてしゃがみ込んだ。
 
「ごめん。そういうこと、いつもしてるんだと勘違いしてた」
「ゲイなんて、非生産的だし、サルみたいにやってるって勘違いされてもおかしくないです」
「…悪かった。…でも自分の心の傷を隠してまで、男ばかりの警察に入ったのも、理由があるんだろ?」
「…誰も捕まえてくれないから、犯人を自分で捕まえるため、警察官になりました。所轄時代、組対時代も、今も、似た事件がある度に資料を漁りました。でも、刑事になっても、結局…捕まえたのは、この10年でやっと一人。……気が狂いそうです。あと何人いるかも分からない。時効も迎えてるのに」
 
 本音と建前が混じる言い方だった。
 
「だから、自分の身体をエサに…就業時間後に手帳を置いて、バーで犯人を探してる?」
 
 核心だった。
 
「……今回は偶然でした。でもその偶然をずっとずっと狙ってた。それで捕まるなら、いくらだって男を誘います。…怖いけど…でも捕まえなきゃ。僕がやらなきゃ、誰も捕まえてくれないから」
 
 風が強く吹いた。
 それが止んでから、満はハッとして口を両手で塞いだ。
 今、自分のことを“僕”と言ってしまった。
 視線だけ後ろに送ると、神戸は「やっぱり」と口にした。
 
「…そっちが本当の君なんだ」
「……やっぱりって」
「聞いたんだ、実は。三浦さんが録音していて、男に近づいてから、突入が掛かるまでの一連の会話を、杉下さんと一緒に聞いた」
 
 満は両手で顔を覆った。
 確かに、あの幸坂という男と一緒にいる時は“僕”と言っていたし、就業時間後は基本的に“僕”だ。
 ……不覚にも神戸の前で思わず素が出てしまった。
 それよりも、捜一トリオに秘密だと言っていたのに、聞かれていたなんて。
 あの鼻にかかる甘えた自分の声。
 普段より過剰に振舞ったとはいえ、恥ずかしい。
 
「普段、ああなの?」
「っち、違います!あんなじゃないです!誤解しないでください!」

 満は振り返って一生懸命手を横に振ると、神戸はクスリと笑って「冗談だよ」と言った。
 
「いつも淡々としてる君も、そんなに一生懸命否定すると面白いね」
「…か…からかわないでください…」
 
 顔から火が出そうだ。
 ……完全にペースに飲み込まれている。
 これが神戸尊という男か。
 ふう、と溜息を吐いて、月を見上げると、今日は満月だった。
 
「…なんで今日、俺をドライブに誘ったんです?」
 
 満は立ち上がって“俺”に戻すと、神戸に問うた。
 
「気晴らし……と、言いたいところだけど。…お昼、杉下さんと一触即発になってたでしょ」
「…聞いてたんですか?」
 
 満は顔を神戸に向ける。
 
「聞こえたんだよ。別に隠れてたわけじゃない」
 
 満はそれを聞いて腕を組んだ。
 目を眇めて、昼の杉下との会話を思い出して、イライラが戻ってくる感覚があった。
 
「就業時間終わりに尋問してこいと言われたんですか?」
 
 それを聞いた神戸は自分の前髪を払い、言いにくそうに口を開いた。
 
「…尋問というか、“僕には本音を話してくれなそうなので、代わりに聞いてきてください”って言われて。…騙し討ちで悪かったと思ってる」
 
 それを聞いて、満は「そうですか」と頷いた。
 確かに、自分とは水と油である杉下とは話が通じない。
 杉下が神戸を選んだのは、いい人選だとは思う。
 満はひとつ深呼吸をすると組んでいた腕を解いて、右腕を庇うように左手で掴んだ。
 視線は地面にある。
 …これを、言ってもいいのか。
 逡巡した満は、ゆっくり口を開いた。
 
「…俺は…普通の人にはわかって貰えない、同性愛者です。20年前の事件で性的暴行も受けました。“切り売りするな”とか“自分を大事にしろ”と言われても、正直困るんです。迷惑なんです。…あの事件で身体をこんな風にされて、大事にできるわけがない。この身体は捨て武器で、俺はこれからも、自分の事件と戦い続けます。それがたとえ自分が死ぬことになっても、良いと思ってる」
 
 満が言い切ると、暫く沈黙が流れた。
 風の音と、波の音だけが聞こえる。
 
「…捨て武器とか、死んでもいいとか、言うなよ」
 
 神戸が怒気のこもった声で一言放った。
 
「…ハア。…だから、そういうのが迷惑なんです。俺は別に…」
 
 呆れて言ったが、神戸の顔を見た満は、それ以上、言葉が紡げなかった。
 神戸が、まるで自分のことかのように悔しそうな顔をしている。
 
「何…なんで神戸警部補がそんな顔するんです…?」
「……一人で溜め込んで、一人で全部犠牲にして…そんなの、苦しいだろ」
 
 ボンネットに体を預けていた神戸がいつの間にかボンネットの上に置かれた手をギュッと握りしめている。
 その手は、怒りか、悔しさか、震えている。
 
「仲間が、こんなに苦しんでるのに、手を差し伸べてやれなかったのが、悔しくないわけないだろ」
「……なんでそんなに、俺の事、知ろうとするんです?手を差し伸べようとするんです?だって、これは俺の事件です。神戸警部補には関係ないじゃないですか」
 
 満は困惑し、吐き捨てるような言い方をした。
 仲間とはいえ、関係ないだろう。自分の事件だ。
 ……同情しないで。
 ……これ以上、自分の内側に入ってこないで。
 
「仲間だろ…悔しいさ。あの時、病室で言っただろ。然るべき処置があれば、って。今なら、君は警察官で、手帳を持ってる。特命係で、オレたちは三人だ。一課だって幸坂の件で関わった。組対だって君が元いた部署で、幸坂が暴力団と関係があったと分かれば、当時の犯人グループは暴力団の可能性が浮上して、動くはずだ。……それなのに、頼らない君に、正直、ムカついてる。全部を一人でやろうとしている君に、怒ってる」
 
 満は黙ったままだった。―――否、何も言えなかった。
 そんなふうに言われたのは、生まれて初めてだった。
 
 いつも人を拒絶して、うわべだけ繕って。
 身体を許しても、心だけは許さない。
 心はいつも復讐に塗れて、一人になった時、ふと自分に虚しくなる。
 
 そんな自分に「怒ってる」と言った。
 その優しさが、怖い。
 いつの間にか膝をついてペタンと崩れ落ちていた満の目は涙で濡れていた。
 頭を両手で抱えてゆっくり左右に振っている。
 
「……やめて。…そんなこと言われても、困ります……そんなことされたら、僕は……」
「……誰かが支えにならないと、君は壊れてしまいそうだから、ね。…支えさせて」
 
 打って変わって、優しい笑顔で手を差し伸べた神戸の顔を見上げた。
 
「オレだけじゃない。杉下さんも、一課の三人も、組対の角田課長たちも、みんな柿原を支えたいと思ってる。だから、心配するんだ」
「……え…」
「だから、ひとりで苦しむのは、もうやめよう?」
 
 “切り売りするマネはするな”
 “君は少し自分を大事にした方がいいですよ”
 “病み上がりなんだから、真っ直ぐ帰れよ”
 “気をつけて帰れな”
 “…捨て武器とか、死んでもいいとか、言うなよ”
 
 気が付けば、今日だけでも、こんなに優しい言葉を掛けられていたことに気が付いた。
 なんで今まで、こんな優しさに気がつけなかったのか。
 
 ひとりで蹴りをつけようとしていた事件。
 犯人を一人残らず殺して、終わったら、父の後を追って自死をするつもりだった。
 そんな、今まで我慢してきた、堆積していた、腹の底でぐちゃぐちゃしていた汚い思いが崩れ落ちていく音がする。
 それを感じた瞬間、涙が溢れて止まらなくて、満は父親が亡くなって以来、久しぶりに声を上げて泣いた。
 しゃくりあげながらグリグリと目を擦るが、涙は一向に収まる気配がない。
 神戸はいきなり泣き出したことに驚きつつ、満にハンカチを差し出してくれた。
 
 
 散々泣いて泣き疲れた満は、神戸のハンカチを握ったまま、車の助手席で寝てしまった。
 神戸はそれを見ると、車の外でスマホを取りだし、一本の電話をかけ、夜空を見上げた。
 
「…ああ、杉下さん。……ええ、はい。だいたいの事は話してくれました。ええ……―――」
 
 
 
 次の日、満は登庁すると、既に出勤して朝の紅茶を入れていた杉下が「おはようございます」と声を掛ける。
 ピクっとした満は「…おはようございます」と尻窄みな声で札を返して、ちょこんと自席に座った。
 
「……目が腫れてますね、どうかしましたか?」
 
 杉下は目ざとかった。
 ドキッとした満は「あ、いえ…」と口篭る。
 昨日とは打って変わった満の反応に、杉下は紅茶を飲みながら観察を続ける。
 黙ったまま俯く満に、杉下は溜息をそっと吐くと棚から茶器を出して紅茶を注ぎ始めた。
 
「飲みますか?僕の取っておきのブレンドです」
「え、…と…。はい…」
 
 そう言って、満がソーサーを受け取った。
 ちびり、と飲むと、温かい紅茶の香りが鼻をぬけた。
 普段満が飲む、安いティーバッグの紅茶とは全然違う気がする。
 
「……美味しい、です」
「そうですか」
 
 杉下は満足気に頷くと、自分の席に戻って、紅茶を楽しみ始めた。
 
「おはようございます」
 
 少しして、神戸がいつも通り遅刻して入ってきた。
 
「君はまた遅刻ですか、学習しませんねえ」
「すみません」
 
 そのやり取りを満は黙って見ている。
 普段なら知らん振りをして書類を眺めているのに。
 神戸と視線が合い、満はすぐに逸らすが、神戸はいつものスマートな笑顔で声を掛けた。
 
「おはよう、柿原」
「お、…おはようございます」
 
 下を向いた満は、小さい声で神戸に挨拶をした。
 昨夜の大泣きが恥ずかしい。目を合わせられない。
 しかも、泣き疲れて自分のマンションに送られるまで車で寝ていたなんて。
 そんな様子を見ていた杉下は神戸を目で呼び、満に背を向けて小声で会話をする。
 
「…彼、昨日とはかなり様子が違うようですが?」
「あー、いえ…。昨夜、話をしていたら、その…泣かれまして。それでなのでは?」
「泣かれるほど厳しい言い方をしたのですか?…君なら穏便に話をしてくれると思ったんですがねえ」
「穏便でしたよ、かなり」
 
 そんな話をしていると、角田が書類の束をバサバサと振りながら特命係の小部屋に入ってきた。
 
「おい、頼まれてたヤツ、調べ終わったぞ」
 
 そう言って満の前に書類を並べた。
 満はポカンとしていたが、次に放った角田の言葉に表情を固くした。
 
「幸坂を手掛かりに、京都の暴力団、友銀会に関わってた半グレを向こうで調べてもらったら、アタリだ。人数は12人。方々に連絡取って、全国に散ってた該当者全員に聴取が出来てな。全員が時効だと分かっててゲロったぞ。…当時のリーダーはコイツ、三上裕太だ」
 
 そう言って、12人の写真のうち、眼鏡の男を指さした。
 
「……こいつ、父の会社の社員だった男です…」
「知ってんのか!」
 
 角田が眼鏡の位置を直しながら身を乗り出して聞いてきた。
 満は頷くと、下唇を噛んだ。
 
「……はい。俺、父の不動産会社に時折顔を出していたので。この男は、確か父の会社で…当時は土地の担当部長をしてました」
 
 満は、そう言って膝に手を置き、スラックスを握りしめた。
 …犯人は、近くにいたのだ。
 
「土地担当か。そりゃ、土地勘があって監禁場所の吟味とか逃走経路の確保とかも、警察の盲点が付けるかもなあ」
 
 そう言って顎に手を当てた角田。
 
「……誘拐も、強姦致傷も5年前に時効だけど…どうするの?」
 
 神戸が満に尋ねてきた。
 そうだ。身代金略取誘拐は時効15年。強制性交致傷罪も時効15年。
 この事件は20年も前の事件だ。
 
「それなんだが…」
 
 そう言って角田が少し言いにくそうにしながら、口を挟んだ。
 
「……三上の家には大量の児童ポルノ動画があった。自分で撮影したものとみられる。……その中には、当時のお前のも…」
 
 その言葉に、ヒュ、と満の息が止まった。
 スラックスを握っていた手から汗が滲む。
 だんだん呼吸が早くなる。
 心臓が早鐘を打つ。
 息を吸っているのに、呼吸が苦しい。
 満は、胸元を押さえて前屈みになる。
 誰が見ても、はっきりと過呼吸が起こっていた。
 
 ……撮影まで、されていたなんて。
 
「…わ、悪い。柿原、大丈夫か!」
 
 角田が慌てる。
 神戸は満の背中を摩りながら、角田に声を掛けた。
 
「角田課長、この話、一旦休憩を挟みましょう。柿原が辛そうだ」
「…っ、いえ、……続け、ましょう……ッハ、ァ、…大丈夫……ッ」
 
 机の縁をギュッと掴み、呼吸を自力で整える。
 引き出しの中の精神安定剤を取り出し、震える手で口に入れると、持ってきていた水で流し込み、自分に言い聞かせるように「大丈夫」と言う。
 額にはじっとり汗が滲んでいて、満は髪をかきあげて書類を睨んだ。
 まだ、手が震え、喉が引き攣る。
 
「柿原君の動画の証拠があるなら、三上だけは立件出来そうですねえ」
 
 杉下は満が少し落ち着いたのを見て、今まで黙っていた口を開いた。
 
「児童ポルノ法であれば、時効は被害者が知ってから6ヶ月ですから、今からでも遅くないでしょう。……柿原君、立件しますか?」
「……コイツだけでも…コイツだけでも捕まえたい、…絶対に、逃したくない…!」
 
 杉下の言葉に、満は意思の強い言葉で返した。
 手が白くなるほど拳を握りしめ、憎しみの籠った声だった。
 その様子を見て、杉下は満の目をしっかり合わせてきた。
 
「…もうこれ以上、自分を犠牲にするという馬鹿な真似はしないと、誓いますか?君の信仰していた神と、亡くなったお父上に」
 
 その言葉に満は一瞬口ごもった。
 それでも、しっかり杉下を見つめ、「はい」と頷いた。
 
 
 それからは、三上を立件するため、三上の現在住所の福島県警や当時の事件が起こった京都府警と連携を取ったりと、特命係は飛び回った。
 普段は睨まれるはずの、事件に関して特命係が方々に動く事は、被害者が柿原満だということで、内村や中園は“見なかったことにする”と言って遠回しに一任していた。
 やっと漕ぎ着けた裁判。
 ―――判決は、『児童ポルノ製造目的略取誘拐』と『児童ポルノ所持』の罪で懲役10年の有罪判決が下った。
 三上は全面的に罪を認めたが、謝罪の言葉は一言も口にしなかった。
 閉廷後、満は顔を覆い、震えた溜息を吐いて、法廷を後にした。
 外に出ると、杉下と神戸が入口で待っており、満と合流すると彼の歩幅に合わせて黙って歩き出す。
 駐車場まで暫く歩いて、満が息を吐いて黒いネクタイを緩めると、今まで結んでいた口を開いた。
 
「……懲役10年でした。…けど、よかったです。三上だけでも、捕まえられました。それもこれも、お二人が……いや、皆が居たからです。俺一人じゃ、絶対捕まらなかった。……本当にありがとうございました」

 満は足を止めて頭を深く下げた。
 
「頭上げてよ。仲間だろ。支えるって言ったじゃない」
 
 神戸は満の肩を掴んで頭を上げるよう言った。
 杉下は神戸の言葉に頷き、「そうですよ?」と言って、続ける。
 
「それに、ここまで来たのは、君の事件に向き合う執念の結果です」
「……ありがとう、ございます…」
 
 
 神戸の車で三人は終始無言で警視庁まで戻り、満は事件解決まで関わった一課と組対にお礼を言って回ったあと、就業時間終わりまで一言も喋らなかった。
 何かを考え込んでいる様子だった。
 
 就業終わり、杉下と神戸が『花の里』で飲んでいると、先に札を返して帰ったはずの満が入店してきた。

「あら、初めてのお客さん」
「……どうも」
 
 たまきは笑顔でお絞りを用意すると、神戸の隣に置いた。
 杉下は振り返ると、少し目を丸くして口を開いた。
 
「おや、君が来るとは。珍しいですね」
「…あら、右京さんのお知り合い?」

 杉下の言葉にたまきは驚いた様子だった。
 
「ええ、同僚です」
 
 杉下は日本酒で口を潤してから言うと、満はペコリ、とたまきに頭を下げた。
 
「……はじめまして。柿原です。杉下警部にはいつもお世話になってます」

 満は立ったまま言うと、たまきは「ここの女将の宮部です。よかったら、お掛けになってくださいな」とお通しを出しながら笑顔で答えた。
 満はちょこんと神戸の隣に座る。
 
「お飲み物はどうします?」
「あ…えと、……お茶で」

 口篭りながら満はたまきに伝えると、「はい」と言ってグラスを取りだし、烏龍茶を注いでくれた。
 
「…杉下さんも言ったけど、珍しいね」
 
 神戸は烏龍茶のグラスを持って口を開いた。
 満はグラスを両手で握ると烏龍茶に目を落としたまま言葉を紡いだ。
 
「……その、お二人に言わなければならないことがあって…。まずは杉下警部から…って思っていたんですが、近くの駐車場を見たら、神戸警部補のGT-Rも停まっていたので、丁度いいと思って……」
 
「入るのに、すごく緊張しました」と神戸と杉下を見て、満は眉を八の字にして、はは、と笑った。
 それを見て杉下は口を開く。
 
「言わなければいけないこと、とは?…警視庁では言えないこと…ですか?」
「今日は…ずっと…考えてたんです。裁判で結審がついてから考えが纏まって。…そうですね、言えないこと…でもあったと思います」
「……それで、話とは?」
 
 杉下は問うてきた。
 
「…明日、退職願を出します。お二人には先に言わないといけないと思って…」
「また突然ですね。何か考えがあってですか?」
「……はい。今回の三上の件、被害者が僕を含めて60人以上いました。僕は…警察官を辞めて、今回みたいな性被害者を支援する団体を作ります。さっき、僕の行ってる心療内科の主治医の先生にも話して、協力してくれるとの事だったので。……神戸警部補が、あの時“然るべき処置があれば”って言ってくれたからです。だから、僕が…そういう人たちを支援しなきゃって」
 
 満はそう言うと、杉下をじっと見た。
 
「……もう、馬鹿なことはしないって警部…杉下さんと誓いましたから。これからは心を入れ替えて、僕が思う、正しい道を歩きます」
 
 膝に置いた拳をぎゅっと握って、しっかり見据えて言う。
 満の言葉に、頷いた杉下。
 
「そうですか。君がいなくなると、寂しくなりますねえ」
「…本当に…いままで、ありがとうございました」
 
 杉下に頭を下げた満は、その後、神戸に体を向けた。
 
「……神戸、さん…にもお礼言わなきゃですね。ありがとうございました。また……あの丘に連れて行って下さいね」
「もちろん」
 
 神戸も頷いてにこりと微笑んだ。
 
「じゃあ、今日は柿原さんの新たな門出のお祝いですね」
 
 たまきが手を叩いて、料理を始めた。
 
「そんな!あ、えと、でも……その……ありがとうございます」
 
 満は手を振って恥ずかしそうにした。
 こんなあたたかな人に囲まれて、新たな門出と祝ってくれる事など、つい1年前まで想像もしていなかった。
 ずっと暗闇で生きていくと思っていたから。
 いつか父のあとを追って自死すると決めていたから、未来のことを、他の人のことを考えるなんて、想像つかなかった。
 
 たまきの手料理を食べながら、楽しく会話をする。
 
 ……僕は、こんなにも笑えたんだ。
 お父さん、いくのはもう少し先になりそうです。
 だから。これからやろうとしている事を、見守っててください。
 
 
 
 …………………………
(20220731)
 途中、序盤の幸坂に脱がされてる時の満くんのワイシャツの下の肌着は溶けました。
 文章書き終わって読んでる時に、『ワイシャツの下って普通、肌着あるよな?』と思いましたが、そこはご都合主義で。
 こんな長いお話になるはずじゃなかったです。1万9千字……(震え)
 まじ途中、挫けるかと思った時効とかの調べ物。難しい。

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