「…ふうん。“ジャマー”ねぇ…」
朝のコーヒーを飲みながら、パソコンをいじっていた密果は独りごちた。
自分が情報を手に入れても、何かできるわけでもなし。そう思ってパソコンを閉じた。
自分にできるのは、ただ情報を手に入れて横流しするだけ。
セプター4から逃げ出した、ストレインだけを狙う“ジャマー”なんて名前のストレインなんて、セプター4が自分達でケツを拭けばいい。自分達の落ち度だろうが。
密果は飲み終わったマグカップを流しに置いて、水を溜める。
煙草を吸おうと思ってソフトケースを手に取ったら、中身は空だった。チ、と舌打ちを一つ零して、グシャリとソフトケースを潰す。
…買いにいかなければ。
ハー、と溜息を吐いて、部屋着を脱ぎ捨て適当な白いTシャツにジーンズを履くと、財布をジーンズのポケットにねじ込んで、家を出た。
端末をチラリと見ると、時間は昼の11時頃だった。
(…コンビニで昼飯も買って帰ろ…)
鎮目町のコンビニ近くまで出てきて、一度路地に入った。
密果は20代後半位の適当な男に変身して、端末のインカメラを開いて確認する。
「今日も完璧…」
髪を少し整えてから端末をしまって、路地から出てきた。
コンビニでハイライトとマカロニグラタンを買う。ハイライトはポケットにインだ。
店から出て暫く歩いたが、途端に身体に寒気が走った。
初めての感覚で、何事かも分からず、密果は立ち止まった。
能力の制御が不安定になるような、変な感覚。体の中で力が暴れ回って手が付けられない様な。
脳裏に過ぎったのは、“ジャマー”。
“ジャマー”は「ジャミング」から取った名前だと情報が載っていた。能力のジャミングだ。嫌な能力のストレインだ。
…近くに居るのか。
(…やっば…)
すぐに路地裏に入り込み、蹲み込んだ。
身体を抱きしめて、体に走る気持ち悪い感覚をやり過ごす。
まだ変身から30分経ってないのに、強制的に解ける。
煙が体から完全に消えてから、長く溜息を吐いて、身体の力を抜いた。
まだ体の中で力が震えてるような感覚がある。
舌打ちを一つ零した。
「うぅっ…」
通りから少女の呻く声が聞こえ、すぐ後に「アンナ、どうしたの?!」と男性の声が聞こえた。
(…ストレインの女の子?アンナって…吠舞羅だっけ…)
確か、年端の行かない少女が居たはずだ。矯正施設出身の子…だった気がする。
感応能力の少女が“ジャマー”の能力に当てられて、自分のように制御が出来なくなったのか。
そこまで思考が行き着き、一度後ろを振り返ったが、袋小路だと言うことに舌打ち一つ零し、一つしかない出口を睨んだ。
(…ここから出るしかないじゃん)
路地から出る時に、通りの右にはゴスロリ服の女の子とヒョロイお兄さん。なにか目を丸くして、正面を見ている。
(ん?…あの一緒にいるヒョロイの、十束多々良か?……つーか、なんで戦闘員多い吠舞羅の中の非戦闘員2人組が一緒に行動してるかな…!?吠舞羅ってバカなの?)
頭にハテナを浮かべ、彼らの正面ーーー左を向いたら、いかにもヤバそうな、ラリった男が包丁片手に立っていた。口からはよだれが垂れている。
密果が身体を路地から出した頃には、ラリった男ーーー“ジャマー”は走り出していた。
狙いはゴスロリ少女と十束多々良だ。
(…バカは私もだけど…!)
「クソ平和バカ共が…!!!」
密果は持っていたコンビニ袋から手を離して即座に十束多々良を突き飛ばし、ゴスロリ少女の事を庇うように立った瞬間に身体に痛みが走った。
「…ぐっ…!!」
密果は息を詰めて少女を力無く突き飛ばした。
左の肩甲骨に突き刺さった包丁。
男は力任せに包丁を密果から引き抜く。溢れる血。
膝をつく密果。
「ぅ、あ…っ」
「…おねえちゃん…」
「アンナっ!」
密果は痛みに、肺に残った空気と共に間抜けな声を上げた。
目の前の恐怖に動けない少女。
十束多々良はすぐに少女に駆け寄り少女の名前を呼ぶ。
「早く行け馬鹿野郎!!」
密果は叫んだ。
十束多々良がアンナを連れ立って逆方向へ走る。
「うおおおおおあああっ!!!」
男が雄叫びを上げる、振り上げられる包丁。
道端にへたり込んだまま動けない密果。
(…くそ、痛くて動けねえよっ…)
「伏見、緊急抜刀!」
聞き覚えのある声に青い制服の男が、サーベルで包丁を弾き飛ばして密果とラリった男の前に立ちはだかった。
「んのっ……何やってんだ、密果!バカか!」
途端に飛んでくる怒号。
「煩えよ!こっちだってやりたくてやったわけじゃねえ!」
密果も肩を押さえながら振り返り、伏見に負けずと怒鳴り散らす。
“ジャマー”は、青服の伏見を敵わない相手だと見たのか、伏見に背を向けて走り出した。
伏見は端末を取り出し、テキパキと指示を出す。言葉遣いから、多分電話相手は部下だろう。
暫くして端末をしまうとサーベルを鞘に収めて、密果に近づいてきた。顔は真顔だ。
「…な、なにさ…」
密果は何も言わない伏見を見上げて声を掛けた。
「…怪我の手当てするから来い。説教は後だ」
「すんのかよ説教!お前、いつからアタシの説教出来る偉い奴になった訳?」
「グダグダうっせえな!さっさとついて来いっつってんだよ!」
「んだとバカ猿!元はと言えばお前らセプター4がラリったストレイン逃したのがいけねえんだろーが!」
「そこまで分かってんだったら、なんでノコノコこっちに出てきやがった!」
「結局今説教すんじゃねえか!つーか、アタシには関係ねー事だし?!どこ出掛けようがアタシの勝手だろ!!」
「…ッチ、あのストレインについては、こっちの落ち度だってくらい分かってる。さっさと来い。病院行くまでの応急手当てくらいなら出来る」
「…ッチ、分かったよ…。………手ェ貸して」
密果が右手を差し出すと、舌打ちを一つ零した伏見がその手を掴んで立ち上がらせた。
伏見は彼女の白いTシャツが血だらけになってるのを眉根にシワを寄せて一瞥すると、バサリと上着を脱いで彼女の細い両肩に掛けた。
「…着てろ、血塗れよりマシだ」
「……デカイ、重い、傷に擦れて痛い」
「煩えな、喋れなくしてやろーか」
「上等だ、やれるもんならやってみろ」
「…そんだけ軽口叩けんなら大丈夫だな」
そう言って前を歩いて行ってしまった伏見を、密果はゆっくり後を追う。
どこまで連れて行かれるのかと思ったら、伏見は広場の一角に大きな車両がたくさん集まった中を縫って歩き、1番奥にあった一つの車両の前に来た。
1人の胸の大きな女性が腕を組んで仁王立ちをしている。若そうだが、偉い人なのだと言うことが見て取れた。
「…副長。手当てしてやってもらえますか、コイツ」
「伏見、持ち場はどうしたの。…彼女は?」
「通行人庇って例のストレインにやられたのを保護しました。コイツ一応女なんで、副長が手当てして下さい」
伏見のジャケットを肩から掛けた密果は「コイツ一応女」と親指で指差されたことにイラッとしながら、副長と呼ばれた女性に頭を下げて会釈した。
「分かったわ。手当ては私に任せて、伏見は持ち場に戻りなさい」
「チッ…了解しました。……ジャケット。今度返せよ、密果」
「…血だらけにしちまったしな。洗って返す」
「縮ませんじゃねえぞ」
「そこまでバカじゃねえわ。ナメてんのか」
「お前、女子力ねえから言ってんだよ」
「煩えよ。ただ服洗うのに女子力なんか要らねえだろ。さっさと持ち場とやらに行けってば」
「…縮ませんなよ」
「…喧嘩売ってんのかテメェ!いちいち余計なんだよ!さっさと行けバーカ!破って捨てんぞコレ!」
「…伏見も貴女もそこまでにしなさい。伏見はさっさと持ち場へ、貴女はこっちよ」
伏見と密果の口喧嘩に業を煮やした淡島は口を挟んで、密果を大型車両に案内する。
言い合いの応酬をしていた2人はグッと黙り、密果は淡島に少し近づいた。
密果はまだ腕を組んで突っ立っていた伏見に一瞥した。
「…行けよ」
密果は肩から掛けたジャケットを抱き寄せ、フイ、と背を向けて一言言い放った。
「言われなくても行くっつーの。…手当受けたらちゃんと病院行けよ」
「…分かってる。……………ありがと」
淡島が大型車両のドアを開けて促した所に入りながら、密果は伏見の顔を見ずに小さく礼を言った。
バタン、とドアが閉まり、車両内には淡島と密果の2人きりになる。
ふう、と淡島が溜息を吐く。
「…傷を見せて頂戴」
「…はい」
ジャケットを肩から下ろして膝に置くと、淡島に背を向けた。
痛む肩を庇いながら、Tシャツを脱ぐ。傷口が血でTシャツに張り付き、脱ぐ時に密果は顔を顰めた。
「…痛かったわね。貴女が通行人を庇ってくれたおかげで、貴女の他に被害は今のところ出てないわ」
そう言いながら、淡島は密果の傷を消毒液で洗浄する。
痛みに密果は両手を握って耐える。
消毒液の付いたガーゼが密果の肩甲骨を滑る。
「…貴女、伏見と仲が良いのね」
突然の淡島の言葉に密果はバッと振り向いた。
(…この人、ンなこと聞いてどうするんだよ)
「…別に、学生の時の同級なだけです」
顔を前に戻して、密果はボソッと言った。
「伏見の最終学歴は中卒だと言うし、中学校の同級生って事かしら?…吠舞羅の八田とも?」
「まあ…」
「見た事ない顔だけれども、貴女も吠舞羅なの?」
「…いや、八田からは勧誘されますけど、私は伏見や八田と違ってただの一般人です。あんなのに入るつもりは毛頭無いので」
「入らない方が身の為よ」
「でしょうね」
そこまで会話した後の突如の無言。
傷口を洗い終わった淡島は、ガーゼを切り、傷口に当てる。一瞬の痛みに密果はピクリと動くが、そのまま淡島に身を委ねる。
包帯が脇の下を通って肩に慣れた手つきで巻かれていく。
ただ淡島が処置をするだけの音がする、他に何も音の無いこの空気がとても居心地悪い。
淡島は包帯留めで端を留めると、「終わったわ」と言った。
密果は淡島に背を向けたまま、Tシャツを着ると、淡島に向き直り、小さく礼を言った。
淡島は目を細め、足と腕を組んだ。
「…貴女、吠舞羅やセプター4に詳しいみたいだけど、一体何者なのかしら」
(…クソ…さっきの会話、カマかよ。意地の悪ィ女)
「…別に。八田や伏見から聞いた情報です。名称を知ってるだけで、詳しくないですよ」
「…そう。まあいいわ。病院、気を付けて行くのよ」
「どうも」
車両の扉を開けて、車から降りる。
周りの青服の連中がチラチラと見てくる。そりゃそうだ。なんせ、車両から出てきた一般人が、自分の組織のナンバー3の伏見のジャケットを羽織っているからだ。
(…これ脱ごう。目立ち過ぎる)
伏見のジャケットを脱ぎ、小脇に抱えた。血塗れが目立ったっていい。
昼飯とタバコを買いに行っただけなのに、とんだものに巻き込まれたものだ。
深い溜息をついて、家路に着く。
ポケットに入れた煙草に手を伸ばしたら、そこには何もなかった。
何度ポケットに手を当てても、ポケットに手を入れても、そこには入れたはずの煙草は無い。
折角買ったマカロニグラタンも、煙草も無い。
もう、踏んだり蹴ったりだ。
もう一度長い長い溜息を吐いた。
「クソ…」
吐き出した言葉のすぐ後、ゾクッと寒気がした。
体の中で力が騒めき出す。
「…みっけたぜえー……。おめーはぁ、殺さねえとなぁ……いけねえよなぁーー…」
間延びした声。路地から出てきた涎を垂らした目のイった男に、密果はヒュッと息を呑み込んだ。
力の制御が出来ないせいと恐怖で身体が動かない。
包丁がギラリと光る。
(…や、ば)
「しぃぃぃねぇやぁぁぁあああーーーッッ!!!」
襲いかかる“ジャマー”。
密果はもうその場で目を瞑るしか無かった。
ーーー終わった。
ギュッと伏見のジャケットを握り締める。
「うぉらあああっっ!!」
ゴゥッと炎が音を立てる。
聞いたことのある声。
密果は座り込んで薄目を開いた。
「…へ……みさ、き……?」
「おう!アンナからこの辺いるって聞いたからよ!」
「アンナ、から…?」
「あー、アンナっつっても誰だか分かんねえよな。アンナって言うのは…」
「話は後にしい!八田ちゃん!」
関西弁の男が会話を中断させ、その男のジッポーから炎の鞭が“ジャマー”に向かって飛んでいく。
…万国びっくり人間ショーか。
“ジャマー”と密果の間に関西弁サングラス男と八田が立ちはだかる。
「君!こっち!」
後ろから声を掛けられ、振り向くと十束多々良が密果の右手をとって下がらせた。
2人で離れた路地裏に逃げ込む。
「いやー、間に合って良かった。危なかったね」
「アンタは…」
「あ、おれ、十束多々良って言うんだけど、君が密果ちゃんでしょ?」
「は?」
「あれ?違った?八田の数少ない女の子の友達でしょ?助けて貰ったーって似顔絵を見せたら八田が密果ちゃんだって言ってたよ?」
朗らかな笑顔でそう言われると何と答えたらいいか分からず、密果は黙ってきゅうと眉根に皺を寄せた。
(…なんだよ、吠舞羅って変人の集まり…?)
「あ、それ青服?なんで持ってるの?」
「…あ、コレ…知り合いのヤツで」
喋り続ける十束のペースに飲み込まれて、密果は借りてきた猫状態になっていた。
「知り合い?んー伏見かな?」
「…あんたに言う必要ありますか」
「なんか、伏見とデジャブするんだけど…その言葉遣い。密果ちゃんって面白いね」
「はぁ、そうですか…」
すぐそこの通りでは“ジャマー”対吠舞羅の戦闘が行われているのに、なんだか平和な空気が路地裏に流れる。
平和ボケはこの人の頭だ、と密果は心の中で思った。マイペースが過ぎる。
「あの時、助けてくれてありがとうね密果ちゃん。俺がついていながら、アンナに怪我させちゃうとこだった。でも、密果ちゃんが怪我しちゃったよね。大丈夫?」
路地裏に座り込んで体育座りして膝を抱えた十束に倣って密果もゆっくり腰を下ろした。
首をコテンと倒して十束が尋ねてくる。
「…セプター4に助けて貰ったので。怪我も応急処置してもらいました」
「成る程、それで青服持ってたのか。密果ちゃん白いTシャツ着てるし、血塗れなのが目立つって伏見に掛けられたってとこかな?」
(……当たりだけど)
この人、目敏いと言うか、想像力逞しいと言うか、密果はそんな連中と連んだことがない為に、全くと言って耐性が無い。
密果は黙るしか無かった。
「流石の伏見も女の子には優しいか。そうなんだー」
「…もう何でもいいです」
長く溜息を吐いて、ゆっくり立ち上がった。
「…美咲にお礼言っておいてください。私、帰ります」
「えっ、帰っちゃうの?HOMRAに招待して、お礼しようと思ったんだけど。アンナも直接お礼言いたいって言ってたし」
あ、アンナって言うのは…、と喋り始めた十束を無視して入ってきた通りとは別の通りから出ようとする。
「私、具合悪いんで。じゃ」
そう、まだ“ジャマー”のせいで体の中でグルグルと力がさざめきの様に渦巻いている。
こんな気持ち悪い感覚からさっさと抜け出したかった。
十束に背を向け、両手をポケットに突っ込み、腕には青い制服を掛けて、足早に家方面へ急いだ。
今度こそ無事に家に着いた密果は急いた気持ちのまま門を開けて、家鍵を乱暴に鍵穴に捻じ込んで玄関ドアを開けた。
すぐにリビングのソファーに横になって、青い制服に顔を埋めた。
「……なんだよ…お前ら、正義のヒーローかよ…」
小さく呟いた言葉は青い制服にくぐもって、部屋に響くことはなかった。
「…アタシ…、ダッサ…」
洞窟のカナリヤは言葉より雄弁に鳴いていた。