「あら、定子さん。久しぶりねぇ!お散歩かしら?」

犬を連れた老女は、唾の広い上品な帽子を被った老女に声を掛けた。

「ええそうなの。孫がお夕食作るのを代わってくれるって言うから、少し外の空気を吸おうと思いまして。最近は料理もしてくれるから、とても助かってるのよ」

定子は笑顔で会釈をして、上品な仕草で口元を隠しながら孫の自慢をする。
犬を連れた老女は「いいわねぇ!」と笑顔を綻ばせる。
犬が定子に向かってキャンキャンと激しく吠えたてる。

「あらあら、ミルクったらどうしたのかしら。こんなに吠えることなんてないのに…。ごめんなさいねぇ、定子さん。また今度、ゆっくりお話聞かせてね!」

そう言って吠え続ける犬を引っ張って老女は去っていった。
定子は笑顔で手を振り、老女を見送ると、路地を曲がって人通りの無い道に入る。

「クソ駄犬が。キャンキャン吠えやがって。アイツ嫌いなんだよな、クソ…」

定子から発せられた言葉は先ほどと打って変わって、上品とは言い難いものだった。
廃ビルに入り込んだ定子。
ビル内の階段を上がる定子から煙が立ち上がり始め、煙が定子を包む。
煙が消えると、そこには二十歳に満たない、少女が姿を現した。
彼女はガチャリ、と屋上の扉を開ける。
夜色の長い髪が靡いた。

「ふう、おばあの真似するの、面倒だ…。まあ、仕方ないことだけど」

そう言って屋上の手すりに背中を預けて、ポケットから煙草と百円ライターを取り出して、煙草を一本咥えた。
ライターで火をつけ、頭をガリガリ掻いた。長い黒髪が乱れる。

「眠ぃ…。ここ2、3日、依頼された情報掻き集めんのに寝てねぇからな…」

ふー、と紫煙を吐き出して、煙草を指に挟んで口から離した。
手摺りに肘を置き、頭を掌底で支える。
空は夕暮れに差し掛かっている。少女はカラスが飛び去るのをビルの屋上でボーッと見送った。
大して吸わないまま、灰が煙草を侵食する。煙が風に乗って長く尾を引いた。
ピロン、と端末が小さく鳴った。
ポケットから端末を取り出し、チラリと画面を見ると、そこにはクライアントから情報の追加と催促の連絡。

「…クソが。追加とか、ざけんなっつの。料金上乗せしてやるぞ…」

そう愚痴を零しながら煙草に口をつけた。
フィルターギリギリまで吸い込んで、紫煙を吐き出し、短くなった煙草を足元に叩きつけて、スニーカーで踏みつけた。

「クソッタレ。…はあ、帰ろ」

廃ビルを出て、大通りに向かって歩き出した。
途中の自動販売機でホットの缶コーヒーを買う。
プルトップを上げたところで、見知った顔がスケートボードに乗って、颯爽と通り過ぎようとしていた。

「…美咲だ」
「あ?…ああ、密果か」

スケートボードに乗っていた八田は少女に呼ばれてスピードを落とし、板から降りて立ち止まった。
八田はボードを片手に近づいてきて、密果のところまで来た。
女嫌いの八田が女である密果に普通に話し掛けられるのは、密果の事をよく知っているからだ。

「何してんだ?こんなとこで」
「…散歩」

缶コーヒーを持ち上げて見せる。

「ふーん。密果のばーちゃん、元気か?」
「おばあ?ピンピンしてるよ。あと100年くらいは生きるんじゃねえの?って感じ」
「そりゃ言い過ぎだろ。ま、元気で何よりだけどよ」

密果は、ククッと笑いながら缶コーヒーを一口飲む。
八田もその言葉に笑いながら突っ込みを入れた。

「まあね。でもま、生きてくれなきゃ困るからね」
「だよな。…そーいや、アレ、考えといてくれたか?」

八田は真面目な顔をして、密果の顔を見た。

「…あのなぁ美咲。前にも答えたろーが。私の考えは変わらねぇよ。吠舞羅なんかにゃ入らねぇ。何かに縛られるなんて真っ平だ」

密果は「またその話か」と溜息を吐いて、美咲を半眼で見た。
八田と馬鹿話や世間話をするのは好きだが、最近の八田はこうやって何かにつけて吠舞羅へ勧誘をしてくる。それに対して辟易していた。
…暫くは距離を置いた方が良いのか。

「じゃあ、私は行くよ。おばあが夕飯作って待ってる」
「俺は諦めてねえからな!また考えといてくれよ!」

(…しつこいって)

密果はそう思いながら缶コーヒーを飲み切ると、建物の影に缶を置き、八田に背を向けた。
ふわ、と欠伸をして、前髪を掻き上げて歩く。
見慣れた道を歩き、自宅の前まで来ると、家の周辺を見渡し、人目を憚るように急いで門を開けて、小走りで家に入った。
ドアを閉めて真っ暗な玄関ホールで一つ溜息が出た。

(…コソコソ生きるのには慣れたはずなのに。)

祖母ーーー定子の得意だったご近所付き合い。人好きだった定子。陰気で口の悪い自分とは真逆な、上品で淑やかで、社交的な性格だった。
祖母は4年前のクリスマスに死んだ。急死だった。当時15歳の彼女にはショックが大きく、家で一人、崩れ落ちて泣き叫んだものだ。
祖母の年金と既に亡くなっていた両親の残した遺産だけで生活していた彼女はすぐに祖母の死を隠蔽し、誰にも言っていなかった自分の能力で祖母が生きている様に周りに示した。お陰で今でも祖母の年金が入る。
それだけでは足らないと、顔の知られる事のないネット上で情報屋を始めた。
中学の同級生であり、一緒に連むことの何かと多かった伏見がパソコンや端末に詳しかったから、死ぬ気で学んだのだ。
勿論、祖母の死が周りに露見しない様に情報を完璧に操作する事は今でも忘れてはいない。
情報屋としても、それなりに儲かっている。
うまく世間を渡り歩いてるつもりだ。
それでも、何かを隠しているという、息が詰まる様な毎日が密果の首を絞めていた。
全て打ち明けて、全て曝け出して、自由が欲しい。
ただ、自分の能力を曝け出してしまうと、ストレインの矯正施設に連れて行かれるだろう。それに、死体遺棄だ。手錠が密果を待っている。
自分が「ストレイン」という存在である事、ストレインは矯正施設に入れられる事、ストレインの能力で何か罪を犯せばセプター4に捕まる事。日本の隠れた異能と常識、それくらいの情報は掴んでいた。
身を守るには、この生活を続けていくしか手が無いのだ。
八田や伏見の様な権力や仲間は持ち合わせていない。だからといって何かの組織に入ったりなどはしたくない。


欲しいのは自由だ。
両手を広げて、大声で叫べる様な、何にも囚われることのない、自由。


密果はリビングの傍に置いてある、祖母のお気に入りだった大きなオルゴールにディスクを入れて動かした。
チャイコフスキーの「金平糖の精の踊り」だ。
澄んだ音の中に怪しげな雰囲気を醸し出すこの曲は、密果も気に入っていた。
それを聴きながら、ノートパソコンを立ち上げ、クライアントからの追加の情報を探る。
欲しかった全ての情報を抜き取ってから、暗号化して、クライアントにメールで添付して送りつけた。
デスクトップ画面に戻して、溜息を吐いた。
途端に入るメール。確認したら、銀行からの入金のメールだった。
仕事は終わった。

「……眠ィ」

密果はオルゴールからディスクを抜き取り、重い身体を引き摺って部屋へ向かうと、ベッドへダイブした。

起きたら、クリスマス。祖母の笑顔とケーキがあり、プレゼントを渡される。
照れ臭くて、お礼の言えない自分に祖母は何も言わずに頭を撫でてくれる。

幸せな日常など戻ってくるはずないのに。
願ってしまう。
あの時から、密果の時間は止まったままだ。


今の生活が、悪い夢であれば良いのにと願いながら、眠りについた。




ドラジェで隠した、溺れそうな想いを引き摺って。


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