息が白い。
青年はそう思った。
人の姿は無い。
動物の気配も無い。
雪を踏む軽い足音だけが、辺りに響き渡る。
暫くして、青年は立ち止った。
その場で息を整えると、ゆっくり振り返った。
視界一杯に広がる山脈。
色が無いその様が、異なる世界にいるような感覚に陥る。
自然と重なる風景。
この時季になると蘇る。
一面の銀世界。
張りつめた空気。
駆ける度、風が頬に刺さる。その冷たさが心地よかった。
足を緩め、不意にその場で立ち止まる。
何も聞こえない。
静寂が包む。
何も見えない。
目に入るのは白ばかり。
一時、無が支配した。
世界が反転する。
雪の上に倒れている小さな体。
目の前には黒い巨大な塊が立ち塞がっている。
『立ちなさい』
金の瞳は冷たく言った。
震える腕に力を込め、上体を起こす。
瞬間、弾けたように駆け出した。
咆哮が響く。
鞘を抜き捨てる。
短剣の切っ先が塊の喉に向けられる。
刃が強く光った。
「何をしているのです」
鈴のような声が、鼓膜を打つ。
霞む視界の端に少女の姿が映った。
「…淙、乃?」
倩黎は思わず呟いた。
「いくら貴方でも、雪の上で寝るのはさすがに風邪を引きますよ」
言うと、彼女はため息をついた。
「さぁ、帰りましょう」
淙乃は立つように促した。
しかしまだ眠気が残っているのか、倩黎は宙を見つめたまま座っている。
見兼ねた少女は、彼の片腕を持ち体を引き上げた。立ったのを確認すると、来た方向に足を進める。
振り返ると、倩黎は雪が積もった枝を見つめていた。
「…どうしました?」
「いや…春はまだ遠いなぁと思ってさ」
「当たり前です。今やっと冬になったばかりなのですから」
「…そうだね…」
彼は力無く呟く。
その様子に、少女は違和感を感じた。
「倩黎?」
「…何でもない、帰ろうか」
訝しげに首を傾げると、少女は再び歩き出した。
青年は、鉛色の空を見上げる。
白い花が一輪、舞い落ちた気がした。
また
季節が巡る
この記憶も
解けて無くなれば
白花(ばいか) 雪の結晶
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