久しぶりの休日だった。
いついかなる時に挑戦者がやってくるか分からないジムのリーダー職に、毎週の定休日なんてものはない。そのため、月に一度だけは予め休業日を定め公表しておく。その休業日だけは、挑戦者を待ち構える必要がないのだ。そう、今日はグリーンにとって、久しぶりの丸一日の休日だった。
 さて今日は何をしよう、と思案するグリーンの心は大変に軽やかだった。折角休業日をとっても大抵は溜まった書類の片付けに追われてしまうのだが、(自分で言うのも悔しいが)今日は珍しいことに何の課題も残していない。完全にフリーだ。バトルばかりで荒れてしまったポケモンの毛並みを整えてやるか。いや最近の品揃えを知るのも兼ねて買い物に出るか。日頃落ち着く暇がないのだからいっそ家でのんびりと寛ぐのも、悪くはない。
 グリーンはあれこれと考えを巡らせながら、顔を埋もれさせていたタオルを洗濯機へ放り込む。洗面所を出て、キッチンに向かった。壁に引っ掛けてあった濃緑のエプロンを手にとり、手早く腰の紐を一周させて身につける。何をするにしろ、朝飯を済ませてからでないと始まらないと思い至った。
開いた冷蔵庫の中には、朝早くに出掛けていった姉が充実させていった食料がたっぷりと並べられている。グリーンはあまり迷わず、カット済みのベーコンに卵をひとつ手にとった。今日は軽めな朝食でいいだろうと、ボウルを取り出す。
―――ピンポーン……
(……マジかよ)
 高らかに鳴り響いたチャイム。典型的な呼び鈴に思わず溜め息を吐いた。
こんな朝っぱらに、一体誰だというんだ。
咄嗟に考えられるのは、祖父か姉か、はたまたジム関係者か。いやしかし彼らなら一度ポケギアに連絡をいれるはず、だ。でも急用で直接言伝てに来たのかも。
グリーンは手にとった卵を冷蔵庫へ戻す。身に付けたばかりのエプロンを椅子の背に掛けて、キッチンを出た。暫くの間を置きつつ定期的に鳴る呼び鈴に「はいはい」と返事をする。ドアのロックを外した。ゆっくりと開かれたドアの隙間から、朝の冷えた外気が流れ込む。
「おはようございます、グリーンさん」
「おはようございます」
「……ボンジュール」
 開いたドアの向こうに並ぶ三つの顔。
トキワの和やかな自然を背景に、社交的に笑ってるのと、控えめに微笑むのと、どこまでも無表情の真顔。どれもグリーンにとって見慣れたものではあったが一斉に揃うとは驚きで、更に最後の一名はまさかの予想外だった。
(―――レッド?!)
グリーンの過去の黒歴史と言うか若気の至りをざっくりと掘り起こす彼は、いつもは雪山にいるはずのレッドだった。赤の帽子に上着にそれよりも鮮烈な血色の両目。知る人ぞよく知る姿だが、グリーンは内心驚いてしまった。
レッドはグリーンがどんなに必死に説得しても強行手段に出ても、山から降りようとしなかったのだ。周囲の心配を訴え、健康やら環境を考慮するようにと促し、ロープで捕縛しようとしたりポケモンバトルでケリを付けようとした日々をグリーンは思い起こす。それは長く辛く疲れるばかりの思い出。尽くした努力はどれも失墜と終わったのに、なぜ今こうもあっさりと降りてきたのだろうか。
「ちょっ…揃ってどういうつもりだ?大体レッドおまっ、ボンジュールって……何で山降りてんだよ、あんだけ絶対降りないとか言ってたくせに」
動転してあちこちに移ろいそうな視線を、グリーンは何とか制御する。昔は感情のコントロールが不得手な彼だったが、歳月を経て今では立派になったものだ。
 周囲を物珍しそうに見回していたレッドは、グリーンを見て瞬いた。
「……ゴールドが」
帽子の影から、隣に並ぶゴールドを見る。重力に逆らって跳ねる前髪を揺らし、後輩の少年は笑った。
「はい、今日グリーンさんはジム休業日って聞きまして、それでレッドさんに言ったんですよ。"グリーンさんが"……」
「"グリーンが休みの日なのに一人ぼっちで、俺が会いに来ないと寂しくて寂しくて死んじゃう"…って」
と、レッドが至って真面目な顔でレッドが続けた。事のあらましを知らなかったらしいコトネが「ミミロルみたい」と相槌を打つ。…あぁそういえば確かに、ミミロルは寂しいと死んでしまうなんて話があったな。自分に当て嵌めるには些か気色の悪い想像と話題を振り払い、グリーンはわざと顔をしかめてみせる。「野郎に会えなくて寂しいなんて思ったりしねーよ」と手をひらひらと振った。
「えー嬉しくないんですかグリーンさん、折角レッドさん降りてきたのに」
「は、俺がレッド呼びに行ってたのは周りの人間がしつこく頼むからで、俺は別にレッドが降りてくることに興味ねーよ」
鼻で笑って、やれやれと首を振る――本音とは、裏腹な所作だ。
(嘘だ。レッドが来てくれて、すげー嬉しい)
理由はどうあれ、レッドがわざわざ下山して会いに来ているという現実はグリーンを喜ばせた。
なぜなら。グリーンはレッドに、恋をしていたのだ。
 幼馴染みの友達として、グリーンとレッドは育ってきた。お互いにポケモンの鳴き声にも驚いてしまうような幼い頃から知り合う関係だ。いつもじゃれるように遊んで、やがて競うように走った。――その過程で、何を間違ったのか。グリーンはレッドを自然と目で追うようになった。
シロガネ山に籠るレッドを下山させようと奮闘したのは、何も周囲の心配や責任感からだけではない。レッドを心配する心情に、恋情がしっかりと織り込まれていたからだ。
 しかしグリーンは、その恋心に正直にはなれないでいた。
想い人のレッドは、男。グリーンも、勿論男である。それは紛れもない同性愛。グリーンは、自分が同性愛者なのかどうかと悩んでいたのだった。
女の子に事欠いたことはない。イケメンとちやほやされて、扱いも手慣れたものだった。自分は異性の心に惚れて、異性の身体に愛をそそぐものと思っていた。今も、その在り方を振り切れない。レッドが好きだと訴える心は、本物であるのか。もしそうだとしたらどうすればいい?レッドが好きだと思う自分の心を手放せないのに、遠ざけてしまう。そんな態度しかとれていないのに。
「…帰ったほうがいいですか?」
 コトネが顔色を覗き込むようにして伺ってくる。グリーンははっとして、悶々と沈む意識を取り戻した。
「あー、仕方ねーな。まぁ、茶くらいは出してやるよ。」
 恋心への悩みは絶え間ないが、その間に恋心自体も絶え間なく脈を打っている。どんな結論を出すにしろ、折角降りてきたレッドを帰すなんて、出来るはずがない。
グリーンは開いたドアを背にして、三人を室内に招き入れた。



「でもグリーンさん、今日本当に一人なんですね」
 家に入り、リビングのソファに腰をかける。そうして落ち着くなり、ゴールドはとんだ物議を口にした。
「…どういう意味だよ」
「いえ、キッチンに朝ごはんの用意の痕跡があったので」
ご家族も留守で、一人でゆっくり準備なんですね。
リビングから直接確認できるキッチンを観察するゴールドに、他意はない。ないと思うが、わざとらしい指摘が何だか気にくわない。一人で朝飯だからって何だと言うんだ。
「グリーンさん、彼女さんとかはいないの?」
コトネが藪から棒に訊ねる。
「……いないんだ」
追い打ちのように、レッドがそう呟いた。
"恋人いないんだ"――思い人当人から言われると、悔しいと言うか切ないと言うか、やりきれないものがある。興味深そうに視線をくれる赤い瞳に、いっそ悩みをぶちまけてしまいたいくらいだった。誰のせいで女の子と付き合う気になれないと思っているんだ、と。勿論そんな八つ当たりが出来るはずはないのだが。
 グリーンは半ばやけくそで、レッドに話の矛先を移した。
「大体レッド、お前のほうがいねーだろ」
勿論、いないだろうという確信に基づいた確認だ。
(いるわけがない)
「そういえば気になりますね、レッドさんの恋愛とか」
「ほら、どうなんだよ」
話を振られたレッドは「……」と沈黙する。どうやら案の定恋愛事情は皆無らしい。やっぱりな、グリーンが安心して笑おうとした。瞬間、――だった。
「……好きな人は、いるけど」
「――――え、」
「えっ?」
「レッドさん、好きな人いるの?」
どっと好奇心を露にした後輩二人が、先輩の恋愛話に食いつく。
「……内緒」
身を乗り出す二人に真顔で答えるレッドの顔、微かに朱が差している。そんな。並大抵のことでは、顔色ひとつ変えやしないのに。好きな人間がいて、そいつを思うと、赤くなるなんて。グリーンはその面差しを絶望的な思いで見つめた。
(嘘だろ)
まさか、レッドが誰かに恋をしているなんて、考えてもみなかった。無人の僻地に住んでいるから、そんな恋愛に興味なんてないとばかり。
(俺ばっかり、ホモとか何か悩んで、馬鹿みたいじゃねーか)
自分はレッドを思って一人悩んでいるのに、当のレッドは誰かに片想い中とは。悔しさと、情けなさと、切なさ。そんな思いがグリーンを占めていく。
そしてグリーンは、判断を誤った。
「――まぁ、俺にも彼女いるんだし、レッドにも好きな奴くらいいるよなぁ?」
グリーンは突然、そう言い放った。
「グリーンさんさっき彼女いないって言ったじゃないですか?」
ゴールドが驚いたように訊ねる。グリーンはやれやれ、と首を振った。
「それは恋愛経験の疎いレッドがあんまりに可愛そうだと思ってな」
「……何それ」
カチン、と音が鳴ったような苛立ちをレッドが浮かべる。
「俺に彼女いるなんて知ったらお前悔しがるだろ?」
「何でそうなるんだよ」
「へぇ?悔しくないのか。俺には彼女がいるのに?」
「……………別に」
 空気が、冷えきった。
誰もがそう感じる声色によって沈黙が引き出される。レッドはそれを契機にすっと立ち上がった。
そして一言。
「帰る」
レッドはそうとだけ言うと、さっさと輪の中を離れていく。
「え、レッドさん?」
「……ゴールド、コトネ。またね」
ソファから腰を浮かせた二人をちらりと見て、立ち去る。音を立てずに開け示された玄関が、逆に不気味だった。レッドは何の躊躇いもなく、わざわざ山から降りてきてまでやってきたグリーンの家を出ていってしまった。
「…グリーンさん」
レッドに言い放った状態のまま微塵も動かないジムリーダーに、ゴールドは声をかける。
「何だよ」
「俺達、留守番してますよ。」
「お前何言ってんだ?」
「ね、コトネちゃん」
「うん」
「…………ちょっと、出掛けてくるな」
グリーンはそして、間髪いれずに家を飛び出していった。

 残された後輩二人は、手持ち無沙汰だった。やることもないので、コトネはグリーン宅の急須を勝手に拝借し、出してもらうはずだったお茶の用意をする。
「どのくらいで戻ってこれるだろうね」とコトネは首を傾げた。ゴールドは「ちゃんと二人で戻ってくるかなぁ」と笑う。そして年の割りに疲れきったような、呆れを持たせた溜め息を吐いた。
「せっかくキッカケをつくってあげたのにね」
「……ね」








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