マサラタウンを少し離れたところにある雑木林。無造作に緑が茂るそこはとても穏やかな場所だった。
道に迷うということはまずあり得ない。明るい土色の獣道は林の隅々をきっちりと照らし、どう道を外れても必ず帰路を見つけることができるようになっていた。林を自然豊かに彩る樹木は背が高く、しなやかな葉の合間からは、眩しさを鉋に当てて滑らかにしたような光が幾重も射し込む。暗すぎず眩しすぎずあたたかいそこで、足元が不確かになることは決してない。そっと擦れる木陰のざわめきや、そよ風さえもふわりと柔らかい。ちらほらと生息するポケモンも、人畜無害な小鳥程度のポッポや、のろのろと青葉を味わうキャタピーくらいのもの。ただただ何の危険も他意も無く、優しい場所。
幼なじみだったグリーンとレッドは、よく二人でその林へ出かけたものだった。野生のポケモンがわんさかといる外へ子どもだけで出かけることは危険だと禁止されていたが、その林はあまりにも優しかったので遊びにいくのを許されていたのだ。安全でありながら少年には魅力的な起伏があり、しかも町の外でありながらうるさい大人の目を気にせずにいられる。そんな自然の遊び場を、二人はとても好んでいた。
「レッド、ちょっときてみろよ」
自然の中へ朽ちようとしている丸太の上を歩いていたグリーンが、レッドを呼ぶ。少し離れて後ろにいたレッドは、呼ばれて歩幅を速めた。
立ち止まってレッドを待つグリーンは、レッドが隣に並んだのを見るとすっと視線を移ろわせる。視線は、上へ、上へ。レッドもそれに倣って、グリーンから注意をそらし上を見た。
「みろ、この木すごい」
「……本当だ」
それはこの穏やかな自然の中には珍しい、大木だった。他の木々は二人で手を繋げば囲めてしまうような幹なのに、この大木はレッドとグリーンだけは到底囲めそうにない。しっかりと力強く伸びる枝を覆う緑の葉は、これもまた他よりずっと色が濃くてざわざわと揺らぐ音がする。
大人の足なら三十分もせずに隈無く回れる自然の領域だが、まだ七つを数えたばかりの彼らにとってその林は広大だ。日頃遊び場にしていても、踏み入れたことのない場所もある。この大木はその類いだった。初めて目にした種類の木に、二人は驚いていた。
僅かな間茫然と空を仰ぐ。辺りは林が持つ穏やかな静寂に包まれる。しかしグリーンは突然、大声を張り上げてその沈黙を破った。
「な、レッド。この木に俺たちの名前を彫ろうぜ」
「……え?」
レッドはグリーンを見て、きょとんと首を傾げる。グリーンは興奮しているのか、頬をほのかに紅潮させながら捲し立てた。両手を軽く広げて、大木とレッドを交互に見る。
「こんなおっきい木、もっとずっと、大きくなって長くここにいるだろ。だからここに俺たちの名前を彫れば、ずっと残るんだ」
「うん」
「それって、すげーかっこいいだろ!」
「…そう、だね!」
子どもの短絡的な考えだが、二人とも紛れもない子どもだ。何やら楽しそうなことに躊躇う理由はない。レッドはグリーンの言葉を理解すると、小さく静かに、けれどしっかり頷いた。
「な!じゃあ彫ろうぜ」
グリーンはきょろきょろと足元を見回して、石を拾い上げる。手に取ったのは灰色の別段へんてつのない石。少し角ばった面を持つそれは、小さな少年の手には些か余るようだったが、グリーンは満足げにそれを握った。そしてその角を、大木の樹皮へと強く押し当てた。力一杯に降りおろしたりして、木に傷をつくる。石をナイフの代わりに用いようというのだった。
幼い力を精一杯使い、暫く時間をかけて、やっと短めの縦線を刻み終える。グリーンはふうと溜め息を吐いた。
「ほら、レッドもやれよ」
「あ、うん」
レッドも同じように石を探して、軽く樹皮に突き立てた。かつんと小さく鳴って木の皮が溢れる。レッドはそれを見ながら、ふと思い立った。
「ねぇグリーン、」
「なに?」
「…あのさ、名前彫るの、お互いの名前彫ろうよ」
自分でも確かめながら、提案を口にする。
「へ?」
「僕がグリーンって彫って、グリーンがレッドって彫る。…のは、だめ?」
「何でそうしたいんだよ」
「自分で彫るより彫ってもらった方が……ぁ、かっこいいと、思う」
「ふぅん…」
グリーンは自分が刻んだ短い縦線を見つめる。ちょっと間を持たせてから、「うん」と頷いた。
「いいぜ、そうしよう」
「……うん」
そうすると、二人は黙々と彫り刻みを始めた。時折グリーンは「どのくらい彫った?」とレッドを窺ったが、基本的に夢中になって没頭した。幼く弱い力だが、時間をかけてしっかりと刻み込んでいく。
 やがて日が焼ける赤みを増してきた頃に、二人は字を刻み終えた。剥き出しの白い木の色が、カタカナで「レッド」「グリーン」の字を浮き上がらせる。少々歪ではあるが、そんなのはちっとも気にかからなかった。レッドとグリーンは知らずに滲んでいた汗を拭って、笑いあった。自分の名前を大木に彫るというの作業その思いの他の難しさへの苦労と、彫りきったことへの達成感ばかりがあった。これはずっと消えないのだと思うと、二人の胸は踊った。
「みんなには内緒にしておこう」とこっそりグリーンが囁いた。レッドはしっかりと頷く。口をぎゅっと結び、小さく震わせていた。こんなことをしたのはレッドとグリーンだけ。誰も知らずに二人の名前だけが並んでいると思うと、心があたたかくてむずむずしたのだ。そんな喜びをグリーンに出すのがちょっと恥ずかしくて、緩みそうな口をレッドは必死に耐えていた。
幼い頃の思い出だ。



 ジムの自動ドアをくぐって真っ先に目に入るのは、ポケモンを象って作られた二対の石像。重厚な風貌で挑戦者を出迎えるそれは、どんなジムへ行っても必ず置いてあるものだ。どのような素材で出来ているのか知らないが、ジムの照明を吸収し鈍く光るその像。厳めしい面構えのその姿は、激しいバトルの場にとても似つかわしい。
シュンと機械的な音と共に入り口が閉じる。しかしレッドはジムの中に足を踏み入れたというのに、ジムトレーナーへ歩んでいこうとしない。立ち尽くし、そのジムに鎮座する二対の石像を食い入るように見つめていた。
「………、」
 ジムの台座の前へ身を屈める。『ジム認定トレーナー』と彫られたそこには、このジムを突破したのだろうトレーナーの名前が刻まれている。レッドはそれをつらつらと目で流す。一番下の一番右。最も新しく彫られたと思われるそこに来て、目を止めた。
そこに刻まれているのは、『グリーン』という幼馴染みの名前だった。
レッドより先にジムへ挑戦し、認定されたのだろう。レッドはその小さな彫りに、そっと掌を翳す。まるで壊れ物か赤子にでも触れるかのように、丁寧に手を伸ばす。人差し指を、重ねた。つつ、とカタカナ四文字のその名前を指でなぞる。その仕草は酷くたおやかなものだ。
 ――レッドとグリーンは、成長の過程で少しずつズレ始めた。
レッドは自分のことを僕ではなく俺と呼ぶようになった。以前はグリーンについて回るようだったが、いつからか一人で行動することを好むようになっていった。グリーンもまた、レッドのことを蔑ろにすることが増えた。何かと互いを比較しては、レッドを鼻で笑うようになった。
 レッドは、またあの幼い日のように並んで名前を刻みたい、と願う。二人だけで知らないところを見て歩いて、何かを残せたらいい。刻めたらいい。けれど、グリーンはどんどん前へ先へ進んでしまう。レッドのことなんてお構い無しに、一人で行ってしまう。きっとグリーンは、あの木に名前を刻んだことも覚えていないだろう。広い世界を知った自分達は、あの大木が外界にはありふれたものだと知ってしまった。いらない知識ばかりが増えて、身動きは取り辛くなる。自由になったと思ったら、欲しいものは遠くにいってしまった。
レッドはその考えに至って、密かに自嘲した。きっとグリーンが自分と距離を置くようになったのには、"知った"ことにも一員があるかもしれないと思ったのだ。
 ハーフグローブに包まれた手を、胸に当てる。
その胸には、小さな隆起があった。男性の薄く固い胸板ではない。まだうっすらと小さなものではあるが、レッドの胸は少女の膨らみを持っていた。レッドの性別は、女性なのだ。
幼い頃は、レッドは自分自身でも性別を錯誤していた。グリーンとやんちゃに駆け回っている故にずっと、自分は男だと思っていた。グリーンもきっとそうだろう。グリーンはレッドを女の子として扱ったことは一度もなかった。幼馴染みでまるで兄弟のように過ごしてきたと、思っているだろう。しかし成長するにつれ認識は変わらざるを得ない。知りたくなかったことでも、知ってしまう。きっとグリーンは、レッドが女であると事実を認識してしまったから距離をとったのではないのだろうか。そう、きっと、レッド自身も。
 レッドの胸は、今でもグリーンを思うとくすぐったくなる。グリーンと隣に並べると認識するだけで、堪らなく高揚する。ポケモンバトルでわくわくするのとは違う、ゆっくり締め付けられるような熱が沸くのだ。しかし今や、その原因が何であるのかを知る術はない。きっとグリーンの隣にいられたらその理由を知れたのかもしれないが、グリーンはレッドの隣に並んでいてくれようとはしない。
 だからせめて、名前だけでも並べよう。レッドは帽子の鍔をきゅっと握って、立ち上がる。このジムを突破して、グリーンの名前の横に自分の名前を刻むのだ。幼い頃、大木に二人の名前刻んだように。それがせめてもの、グリーンと並べる手段なのだ。そしていつか、追いかけて追いかけて並んで、並んで、そして。
「……行こう」
 レッドはモンスターボールを一撫でして、ゆっくりとジム内へ歩き出した。
トレーナーの最高峰、ポケモンリーグ。そこでも勝者の名前は刻まれているのだろうかと、考えながら。





101206
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