名前が欲しかった。
唯一無二の、自分だけの、私だけの、僕だけの、俺だけの名前を。誰とも同一視されることのない、揺るぎないアイデンティティー足る名称が必要だった。その名前を持ってして存在を確立するために、名前が欲しかった。名前の無い個人など、本体を持たない影のようなものなのだ。名前を持たない俺は空っぽで、人形以上の空虚を持て余す。
俺は生きているのか?死んでいるのか。名付けられぬままでは、そんな自問も泡のように弾けて消える。数値で表しきれてしまうような虚しい空間に立ち竦むことを義務にされ、自分を探し求めた。
「レッド」
やがて俺は俺の名前を知った。赤という概念を含有したその名称は、確固たる存在を俺にもたらしてくれた。燃えるような、情熱、煽り立てる高揚の色。それが俺の名前になったんだ。
そして気づけば、俺の周りにはたくさんの人がいた。オーキド博士、母さん、ご近所の人。あと、俺のライバルの、グリーン。権威的博士の孫として生まれて、幼い頃からお隣同士に住んでいた。彼の瞳はその名を表すように、鮮やかな緑色に染まっていたのを俺はよく知ってる。俺の瞳が赤いというのを、俺はグリーンの瞳を見つめることで知ったのだから。俺は彼を通して、俺の名前の色を知ったのだ。
グリーンはよく俺に突っ掛かってきた。事ある毎に旅先に現れては俺をからかい、バトルを挑んでいた。それは一般的に見て少ししつこいと思える程の辛み方だった。けれど、俺は嫌じゃなかった。
「おいレッド、バトルするぞ」
「……グリーン」
「何だよ」
「……相変わらず騒がしいね」
「なっ…んだと?!おい表出ろよ、こてんぱんにしてやるからな!泣いてもしらねーぞ!」
「……いいよ、バトルしよう」
いきり立ったようにボールを握り締めるライバルは、いつだって俺を見てくれた。レッドはグリーンのライバルで、グリーンはレッドのライバルだ。それが粗筋で全貌でしかない。
幸せだった。俺を認識した俺は、物語の軌道をなぞるように足取りよく進んだ。時には辛いこと、悲しいことや悔しいこともあったけれど、それがレッドであるがためだと思えば喜びの一因に織り上げられた。
そしてそんな日々が続いたある日。
俺は世界に断絶された。
ぎこちなく彩りを失っていく世界で俺は直に知る。自分の名前が失われたということを。
自分の名の色を、瞳の色を認めるに対峙していたライバルを奪われて、俺の色は薄れていく。レッドという、俺だけの名前だったはずの言葉が、誰か別の物の呼称へすげ替えられていく。オーキド博士が、母さんが、近所の人は俺でないレッドをレッドと呼ぶ。グリーンは俺でないレッドにバトルを挑む。名前の無くなった俺は、僕は、私は、自分を失う。個性を受け止める前の器へと還り、立ち竦む。
誰もが俺を霞ませていくのを、知る。
それはとても恐ろしいことだった。
ゼロという呼称よりも無に近い存在へ近づくのを恐怖と知って、俺は、泣いた。
ねぇ、名前が、名前が欲しい。誰とも同一視されることのない、俺だけの名前をちょうだい。
誰か俺に、名前を。
100918