あ、とゴールドが違和感を思ったそのとき既に、全てが急変を始めていた。
ぐわんと頭が揺さ振られるような眩暈が、突如訪れる。目の前が砂嵐のように霞み、思わず顔面から額にかけて掌をかざした。
その手が、震えていた。
意志に伺いを立てることなく勝手に、寒さを耐えるように小刻みに震えていた。
それを認識した途端、頭から走った眩暈は目まぐるしい勢いで侵食を進める。脊髄を主軸にするようにして、血管を巡り、筋肉を伝って、身体中の細部に疾走した。全身を全力で駆け抜けた揺らぎは、眩暈から疼痛、痺れへと有様を変貌させていく。かざした手が、酷く重く感じられた。耐えかねて力を緩め、ふいと降ろす。すると同時に、――全身からも力が失われてしまった。
くん、と重力に引かれて、膝が支えの役目を放棄する。力のこもらなくなった大腿から爪先は、上半身を前方へ傾がせた。ふらりと為す術無く、倒れていく。
周囲で悲鳴が上がった。
ゴールドが倒れ込んだ先。落下したそこは、プラットホーム目下の線路だったのだ。
悲鳴の中に、アナウンスとけたたましいベルが鳴り響き、交じる。ホームの彼方で、まばゆい金属がちかっと日差しを照り返した。最新鋭の科学を緻密に組み合わせた機械的なデザイン。空気抵抗を出来得る限りまで削ったつややかなフォルム。リニアが、疾風の様なスピードでこちらへ向かっていた。ホームへ素早く滑るように、走り込もうとしていた。
あぁ、駄目かも。
線路に臥しながら、ゴールドは素直にそう思った。リニアとはまだ少し、距離があった。瞬時に起き上がることが可能であったならば逃げることも出来たのだろう。だが今のゴールドは、投げ出された自身の腕をよろよろと引き寄せるので精一杯だった。
ヒュウンと風が唸り、リニアが減速しながらも突風を纏って近づいてくる。
悲鳴が一際大きくなる。
だがその悲鳴の中に、驚きの声と、危ないという制止の声が幾つか交じった。
転落したゴールド続け様に、少年が一人、線路へ飛び降りたのだ。
少年はひらりと鮮やかにレールの上に着地する。直ぐ様に俯せるゴールドの脇に腕を差し入れ、腰にも手を回す。そして密着し、抱き起こした。二人の体長はほぼ同じようだというのに、一連のそれは軽々としたものだった。レスキュー隊員か、それに師事しているのかと見紛うばかりの、躊躇いの無い動作だった。
響く悲鳴。迫るリニア。もうひかれてしまう、そう誰もが思う瞬間、少年はゴールドを抱えたまま、横転した。ホームの下に作られた空洞へ、飛び込んだ。
その一瞬後。
二人がいたレールの上をリニアが駆け抜ける。
事の顛末を目にした人々が、目を見張る。恐れていた惨状は、訪れない。それを理解した一瞬の後ホームには、目の前で起こった救出劇に対する歓声と、安堵の声が巻き上がった。まさに間一髪、といった出来事だった。
――ホームの下、歓声と安堵の声を聞きながら、ゴールドは呆然としていた。
理由のひとつは、あまりの展開の早さに驚いていたため。またひとつは、どうやら自分は助かったらしいということに。そしてもうひとつは、自分を助けたらしい人物が、よく知る人物だったということへの動揺からだった。
最後の理由に由来し確かめるべく、ゴールドは身動ぎ、身体の自由を得ようとした。救出の後も、回された腕が離されていなかったのだ。だが、幾度かあがいてみても、腕は解かれそうにない。解そうと触れた指先は、ぎゅっとゴールドの身体を固定していた。仕方なく、背後から抱き締められたまま、ゴールドは後ろを振り向いた。
薄暗いホーム下に、命の恩人の顔が浮かび上がる。そこには、想像していた通りの造形があった。赤髪が縺れたように乱れていることと、茜空のような瞳が隠しきれない真剣味を帯びていることを除けば、それは見慣れた顔だった。危険を顧みずゴールドを助けたのは、シルバーだった。
何となく口を利きづらい雰囲気に、ゴールドはたじろいだ後、前へ向き直った。するとシルバーが、それを契機に口を開いた。
「……死ぬかと思った、お前が。」
シルバーはゴールドを抱き締めたままの腕に、力を込めたりはしなかった。助けたときから既に、これ以上無いほどの力でゴールドを繋いでいたからだ。
「考える暇もなかった。…俺らしくもない、必死だった。お前がいなくなるだなんて、冗談じゃないと思った」
命拾いしたな、とか。礼ならまずは土下座からだ、とか。そんないつものような皮肉っぽさだとか、捻くれた調子をどこへ忘れたのだろう。シルバーの声からは、そう思わずにはいられない程の焦燥と切迫が、安堵とない交ぜになってあふれていた。
ゴールドは思わず、再びシルバーを振り替える。
今度は身体ごと、向き合うことが出来た。――シルバーがゴールドに合わせて一瞬だけ力を緩めたからだ。瞳を見つめると、再びきつく抱き締められた。
「助かってよかった」
線路に転落してしまって、シルバーに助けられ、命は助かった。
けれど今この瞬間、俺はシルバーに、もっと深い何かに落とされてしまったのではないか。落ちてしまった気がする。ゴールドはお礼を言おうとした口を堪らず閉口させて、震えた。
100610