ピッ、ピッ、ピッ、と規則的な電子音。――それ以外に、何の音も聞こえはしなかった。
 半ばまで引かれたベージュのカーテンは、まばゆい程の月明かりを柔らかく濁している。室内にはどこか虚しいものへと変貌した影が落ちる。清潔感と、恐ろしいまでの無機質感。白と淡色に統一された全てからは、そんな感覚を受け取らざるを得ない。機械音と沈黙だけがもたらす静かな部屋の中。
 そこでグリーンは、一人椅子に座っていた。
 照明も使わない部屋で、単調な電子音だけが、グリーンの意識を現実へと刻み付ける。黒の画面に緑の線でなだらかな山を描くディスプレイは、安堵と希望と、絶望を手繰っている。グリーンは四つの支柱に支えられた丸椅子で、じっとその音に耳を傾けていた。

『保証はありません』

 冷たい電子音の中に、記憶から蘇る声が交じる。

『意識は、戻るかどうか』

 淡々と低い声で告げた妙齢の男の声が、するすると聴覚から脳内へと染み込み、心を抉る。ピッ、ピッ、ピッ、と変わらぬ調子の中で、聞きたくもない言葉が溢れるように再生された。

『誠に残念ではありますが』

『このまま目が覚めない可能性が高く』

『命があることが奇跡のようなものと』

 聞きたくない、そんなものは、聞きたくなかった。グリーンはゆるゆるとかぶりを振る。電子音に意識を傾けることを、やめた。
 そして、そっと手を伸ばす。
 薄闇に浮かぶ沢山の管に繋がれた身体の、細い腕。グリーンは、その白い指先に触れた。意識も無く眠り続ける―――レッドの手を、握った。


 レッドは、意識不明の重体だった。病院に担ぎ込まれ気の眩む様な大手術を経ても、昏睡状態の重傷だった。手術から暫らく経ち、院内の患者部屋へと移された今も、意識は戻らない。昏々と眠るように横たわっている。
 罰なのかもしれない。
 グリーンはレッドの温い体温に触れながら思った。――これは、レッドがこうなってしまったのは。レッドに会いにいけなかった、全てを有耶無耶にして正直な気持ちを伝えなかった自分への、罰なのかもしれないと。
 グリーンはいつも、いざという所で臆病だった。
そうしなければいけない、そうするべきだというところで、必ずのように立ち往生をする。そして、気取ったり余裕を装ったりして、まんまと逃げ出していく。そうすれば、グリーンは自分を傷つけずに済んだ。真っ正面から挑むことが出来ることなど、ポケモンを介したバトル時くらいのものといった具合に。

 勿論今も、そうだった。
 部屋を訪れた看護師が、微動だにしないグリーンへこう言った。
――声をかけてあげてください。名前を呼んであげてください。そうすると、患者さんに届くことがあるんです。
柔和な笑みを浮かべた年若い看護師は、そう言っていた。そういった話は、グリーンも耳にしたことがあった。意識が無くとも、声は届いているものだと。その呼び掛けに応えてくれることもあると。
 グリーンは、レッドの名前を呼ぶべきだと思った。
 同時に、到底出来ないと思った。
 結局のところ、グリーンは怖かった。名前を呼んだら、レッドは戻ってくるのかもしれない。だがもし、名前を呼んでも、その意識が戻らなかったとしたら。そうしたらレッドは、もう二度と戻ってこないのではないか。そんな事実に直面しなければならないのではないか。そう考えると、グリーンの口は嗚咽を漏らすようにひきつり、身体はどうしようもなく竦んでしまった。

 けれど、それでどうなるのか。

「………、」

 また、曖昧に事を過ごすのか。目が覚めるのか、覚めないままなのか。知らないままでいられたらそれは幸福と呼べるのか。そんな筈は――無かった。そんなグリーンの態度が罰に値したかもしれないのだった。
 事実を知るのが怖いのではない。お前が戻ってこないのが、怖いんだ。グリーンはレッドに目を覚ましてほしかった。そのためならば、臆病になることは、やめた。

「レッド」

 擦れそうな声で、名前を呼んだ。白い部屋に溶け入りそうな、拙い声で。
 レッドは、――目を覚まさない。それでもグリーンは、何度もレッドの名前を口にした。

「レッド」

 何度だってお前の名前を呼ぶ。もう躊躇うのはやめにしたんだ。だから、目を覚ましてくれよ。グリーンは握り締めたレッドの手に祈るように縋った。白い指先を一つ一つ数えるように、慈しんで絡める。電子音では無い血の通う確かな証を、今取り戻したかった。

 ――規則正しい電子音が、速度を変える。グリーンは祈る掌からはっとレッドを見つめた。
 青白い瞼が震える。マスクの付けられた唇が薄く開いた。握る指先がグリーンの手を微かになぞった。
 グリーンは、泣きそうだった。

「レッド」

 何度だって呼ぶ、その美しい名前を。そして今度はみっともない臆病をさらしたりはしない。だから、誤魔化しの無い気持ちを、正面から伝えさせてほしいんだ。グリーンは朗らかに、力強く微笑む。
 そして微笑みを返すレッドに、電子音よりも確かで暖かい、愛の言葉を――乗せた。





100606
BGM・美しい名前
スロウダウンの話の続きかもしれないし、別かもしれない
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