目の前の女からは、きつい香水の匂いがした。意図的に曝け出された胸元。豪勢な宝石がちりばめられた首。長く豊かなウェーブの金髪。真っ赤に彩られた唇と長い爪。誰かは熟した魅惑などと称するかもしれない、娼婦じみた女だった。その全身から、むせ返るような薔薇の匂いが立ちこめている。近距離に詰め寄る女のその匂いに、レッドはぐらりと脳が揺れるのを感じた。きつい、匂いだ。

「あなた、何様のつもり」

女は上から見下すようについっと顎を上げる。帽子をかぶり少し俯き加減のレッドからは伺うことは出来ないが、女の顔はひどく歪んでいた。嫉妬と憎悪がどろどろに溶け合った、おぞましい表情だ。

「餓鬼の、しかも男の分際で」

女がカツン、とヒールを鳴らす。にじり寄るようにレッドとの距離をつめる。誰も通りかから無いような通路の奧に、逃げ場はない。最早悪臭の域に達する花の香が、レッドの周囲を絡めとり、呼吸を苛んだ。息が、詰まる。レッドは静かに呼吸を浅いものにしていく。ただでさえ無に近い表情を、一層人形のように酷薄なものへと変える。

その様子は、女の感情を煽るだけだった。突然の激昂の引火材となった。

「生意気なのよぉッ!!」

女が手を振りかざす。
パァンと高い音が空気を切り裂く。一見女の細腕のそれのどこに、そんな力を隠していたのか。鞭のような暴力が、鋭くレッドへ襲い掛かる。悪臭に視界のぐらついていた彼に為す術はなかった。帽子は吹き飛び、強かにコンクリートへと身を落とす。
衝撃に肺から息が漏れ、レッドは思わず喘息する。無表情を崩したレッドに、女は凄絶な笑みを浮かべた。横たわり僅かに顔を顰めるレッドの傍らにしゃがみこむ。

「あんたみたいなのが、あの人のお側にいていいわけがないでしょう」

うっそりと紅が歪む。女は白魚とでも評されそうな指先を、ひたとレッドの頬へ添える。

そして鋭く研がれた爪を、思い切り突き立てた。

「―――っ!!」

レッドに激痛が走る。身に面した床は氷のように冷たいというのに、頬は焼けるように熱い。血が一筋頬を伝う。流れる血に合わせて、ズキンズキンと痛みが脈を打つようだった。

 抵抗するべきなのは分かっていたし、そうしたかった。だが女の香水に完全に気分を害した今、レッドは立ち上がることは疎か女の腕を振り払う気力もなかった。

「身の程を弁えなさい」
「……ぅ、っあ……!!」

女の赤いマニキュアが、より深紅へと色を変えていく。ぎちと肉の裂ける音が、激痛への呻き声に紛れた。裂かれるというよりは、抉られるというような体感。それは無表情と無口を地でいくレッドでも耐え難い苦痛だった。

「……生意気ね、本当に生意気よ。自分が遊ばれているって分からないの?あんたみたいな餓鬼をあの人が相手にするとでも思ってるわけ?まさか、あの人の財産が目当てだとか?だとしたら、生意気にもほどがあるわ。許しておけない」

女は髪を振り乱し、爪の先に力を一層こめる。血は雫になって滴っていた。
レッドは悪条件が折り合わさってぼんやりとする視界を凝らす。女を視界に入れると、まるで空気を求めるように口を閉口した。

「………、」
「何よ」

「……それは、…あ、なた、の……ほ、……う」

カッとマスカラに彩られた瞳が見開く。同時に女は突き刺した爪を勢い良く引きぬいた。レッドがそれに堪えたのも束の間――女は、懐から銀色に輝く刃を取り出した。

爪とは比べ物にならない、大きなバタフライナイフ。薄暗い通路に、狂気に煌めく。
女はそれを、躊躇いもなく振りかぶった。

「―――――」

 目蓋を閉じるのも億劫だったレッドは、その光景を全て見ていた。
ナイフを振りかぶった女。修羅の様な顔に、ばらばらと乱れた髪。鈍く輝く刃が、自分の首元目掛けて弾丸と化する。狂気が自分を貫く瞬間。

女が自分の首を前に――倒れた瞬間。

「…………ぁ」

 自分の隣に、女はばったりと倒れ伏した。乱れ髪の合間から覗く顔に先程までの負の色はない。気絶していた。

そして、先程まで女が立っていたそこに、人影。


「碌でもない女だ」


低く落ち着きを持った声がコンクリートに響いた。黒いスーツに妙齢の精悍な顔つき。威厳を称えた、鋭い眼光。男は転がる女を軽く足外にして退けると、レッドの元へ片膝をついた。皺なく整えられた衣服からは、微かに煙草の匂いがした。レッドは密かに溜め息を吐く。女の息の詰まる香水が、男の匂いで少し掻き消された気がした。

「無事か」

男はそう言うと、レッドを引き立たせようとする。頷き、レッドは腕に足に力をこめた。だが、少しも力が入らない。匂いは薄れても、頬の激痛が意識の大半を奪い、香に毒された目眩と吐き気は止みそうにも無かった。男はレッドの頬を伝う血を軽く拭うと、表情は変えないままにすっと眉根を寄せた。

「無事ではないな、大事か」
「………だれ、の。せい、だと…」
「私だな。――医務室へ行くか」

男はレッドの膝裏と背に腕を回し、軽々と立ち上がる。あまり揺らされたら吐いてしまいそうだと、レッドは蒼白い顔で思った。だが男は滑るように優雅な足付きだった。女を足蹴にしたものと同じには見えなかった。

 レッドは横たわったままの女を、抱えられた腕の中から見下ろす。そして自分を抱える男を見上げた。
女は、男を独占したかったようだ。金か地位か、男を自身を好きだったのか、レッドには分からない。それでもどんな形にしても、レッドを憎悪するくらいに男に対しての思いは深かったのだろうとレッドは考えた。なのに男は、魅惑的な女よりも細く頼りない男のレッドを選んだ。

ねぇ、あなたはこの女を碌でもないといった。けれど、女よりもこんな俺を選んだあなたも、碌でもない男だよ、サカキ。

レッドは一人胸の中で呟くと、男の黒いスーツに埋もれるようにして目を瞑った。





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