青い海に沈んで死ぬことができたら、どんなに幸せなことだろう。海から生まれた存在だというのなら、海の中へ消えていきたい。そう考えるばかりだ。俺は何度もそんなことを考えていた。
肺に海水が満ちる。
青から藍へ、全てが彩られる。
酸素なんて手放して、意識も海へと放す。
苦しくないと言ったら、嘘になる。怖くないと言ったら、虚勢になる。それでも俺は、海で死ねたら、そう思っていた。
(……あぁ)
声にならない溜め息が海に溶けた。上へ首を向る。すると水面で、さっきまで僕を乗せていたラプラスが、荒波に揉まれながらも俺を探している。あぁ、ごめん。ラプラスは賢いから、自分のせいで俺が海に落ちたなんて思わないでくれるといいんだけれど。こんな荒れた海に出よう何て考えた俺が悪いんだ。
海の底へと向き直る――目蓋を開いていられなくなってきた。
暗闇が、近い。
そう、思った――瞬間だった。
(あ、れ?)
ぐい、と腕を捕まれた。
強い力が俺を引き上げる。
途端に、遠くなっていた水面が、ぐんぐんと近くなっていった。
手の届きそうだった水底が、遠ざかっていく。
酸素がない俺は力なくただされるがままに、海から引き上げられた。
砂浜の温かい砂が、濡れた頬に張りつく。
浜風に喘ぐと、肺に詰まった海水が咳と一緒に流れ出た。荒いながらもいつもの呼吸が戻ってきて、海は、遠くなった。
「大丈夫かい、ゴールド君」
俺を海から引き上げてきたその人は、確認するように俺の肩に軽く触れた。マツバさんだった。
いつも着ている黒いハイネックも白いパンツもぐっしょりと海水に塗れて、暗い金色の髪からはぼたぼたと雫が滴っている。服を着たまま、飛び込んだらしかった。
マツバさんは髪を軽く掻き上げると、俺に向かっていつものように落ち着いた笑みを浮かべた。
「無事でよかったよ」
「……なんでこんなとこいるんですか」
今俺達が腰を下ろしているのはアサギシティの横にある砂浜で、俺が沈んだのはその目前に広がる海だった。エンジュにいるべきその人が、あらわれるはずのない場所だった。
「……見えたからね」
マツバさんは少しの沈黙の後、そう言った。
あぁ、マツバさん、千里眼ですもんね。俺は納得する。納得して、溜め息を吐いた。
「もう少しで、溺れてしまうところだったよ」
マツバさんはやんわりと諫める。
「僕がみつけなかったら、今ごろ君は沈んでいた」
「……別に、よかったんです」
俺は恨みがましい目をマツバさんに向けた。助けてもらっておいてなんだけれど、感謝の気持ちはこれっぽっちも無かった。
――別に、もう死にたいとかいう積極的な感情を抱いたことはない。生きているのはそれなりに楽しい。まだ見たことのないポケモンがいて図鑑は揃っていないし、リーグは制覇してしまったけれどまだまだ強いトレーナーだってたくさんいるはずだ。やることは、きっとたくさんある。
でも、さっき死んでもよかったと思っていた。
未練のない死なんてやってくるはずがない。なら、せめて海の中で死ねたらよかった。事故とか病気とかはたまた他殺か、そんな風にいなくなるよりは、さっき海の中で溺れ死んでしまいたかった。
「はは、迷惑だったようだね」
マツバさんは笑みを乗せると、肩をちょっと竦めた。
「………いえ」
「社交辞令はいらないよ。」
「………」
「それにね、僕は君を無理矢理に生かしたかったわけじゃない」
俺が目を丸くすると、マツバさんは勿論生きていてくれたほうが嬉しいさと言う。
「だけど、死にたい人間を無理矢理に生存させるのはひどいとも思う」
「じゃあ、なんでですか」
「そうだね、」
マツバさんは空を仰ぎ見た。
「暗い水底へ沈みながら死ぬより、空に抱かれながら死ぬほうが、きっといい。」
そう思うからかな、とマツバさんは何度目かの笑みを浮かべた。その笑みは初めてみるもので、今までに見たことのないその人の表情に、俺は思わずはっと息を呑んだ。
それはまるで、空に恋でもしているかのような、恋人の後追いでもしようかというような。切なく、思い詰めたものだったから。
100504
そして47番道路に向かうマツバさん
崖と彼と私と繋がってる話