翌日のことである。
 十代が目を覚ましたとき、時計の針は十時を指していた。十代は何度も何度もその時刻を確認して、途端、掛け布団を弾き飛ばした。

「はぁ!? え、マジで!? なんで誰も起こしてくれねぇんだよ!」

その日は平日であった。本来ならば、彼は七時頃起床し、身支度と朝食を済ませ、八時半までには座席に座っていなければならなかったが、そんな時刻からはもう既に、時計一周と半分ほど離れていた。
 十代は元から、早起きが得意な方ではなかった。それでも、遅刻をしたことは存外少ないのだ。ひとえに、律義に毎朝起こしに来る、ふたりの舎弟のおかげである。しかし今日に限って、おそらく彼らは来なかったのだ。万が一、彼らの甲斐もなく自分が起きなかったとして、メールのひとつでも残したらいいのに、それすらもない。
 とうとう愛想でもつかされたかと、十代は頭を掻きながら思った。自業自得だとわかってはいるのだが、否、わかっているからこそ、彼らへの恨みつらみは尽きることがない。そう、起きなかったら起きなかったで、連絡のひとつでも寄こしたらいいと。
 簡単に支度を済ませ、制服をひっつかんで外へと飛び出した。朝食を食いっぱぐれたことが心残りであるが、もはや十代にはどうしようもないことだった。





 アカデミアの校舎は沈黙していた。はて、授業中とはいえ、アカデミアとはこんなにも静かなたたずまいであっただろうか。その違和感を置き去りにしたまま、十代は教室のドアを開けた。

「すみませーん! 遅れまし、た……?」

元気よく発せられた声は、尻すぼみに小さくなり、痛いまでの沈黙の中に消えて行った。一歩二歩と進んだ先で、十代は立ち尽くす。
 その教室には誰もいなかった。人がいたような気配すらなかった。椅子は、そろえられたまま綺麗に並んでおり、机の上には消しカスひとつ見当たらない。長期休み中の教室を思わせるような風体であった。
 あれ、と、小さく呟く。教室の変更でもあっただろうか。しかし、その場の雰囲気がそれを否定した。
 強烈な違和感である。そこにはまるで、最初から人がいなかったようであった。ここの教室だけではない。アカデミア全体に言えることだ。思えばここに来るまで、誰ともすれ違っていないし、誰の声も聞いていないのも不自然だった。
 隣の教室まで走っていって、扉を開く。やはり、と言うべきか、そこの教室も無人であった。黒板には文字の書かれた痕跡はなく、ノートや教科書も見当たらない。きっちりと測ったように並べられた椅子の背が不気味だ。

「翔ー! 剣山! 万丈目! 明日香! 三沢ー!」

思いつく限りのクラスメイトを並べ、がむしゃらに叫んだ。教室を出て、吹き抜けのホール、食堂、デュエル場、屋上、グラウンド、思い至る場所全てをまわった。だがしかし、そこには友人たちの姿どころか、人の子ひとり見当たらないのだ。
 これはまともではない。足元から、ざわざわとした、恐怖感が這いあがってくるのを感じた。見慣れた校舎が、恐ろしくて恐ろしくてたまらなくなる。

「なんだよ、どうなってんだよ……」

そういえば、いつもそばにいるはずの、ハネクリボーの気配すら感じ取れない。異様な気配を察知して身を隠しているのか、はたまた、アカデミアの面々同様に姿を消してしまったのか。
 ず、ず、となにかを引きずるような、異質な音がした。グラウンドの真ん中で、十代は周囲を見渡す。荷を詰めた麻袋を引きずったような、そんな音だった。

「おーい! 誰かいるのかー!?」

ず、ず、と音は続く。それは次第に、こちらに近づいてくる。やがて十代は気がついた。この気配は、普通のものではない。背中を、ぞくぞくと何かが走る。
 無意識のうちに十代の足は一歩後ろに下がった。逃げなければと、とっさに思った。しかし、足が動かない。音に背を向けるのが、怖くて仕方ない。
 ず、ず、ず。いったん、そこで音が途切れた。十代は唾を呑む。そして刹那、グラウンドと観覧席を繋ぐ扉から、黒い影のような、なにか肉塊のような、異形のものが覗いた。それは扉をすり抜けて、ず、ず、と再び音を鳴らしながら、這って十代を目指した。

「ーーっ!?」

あまりの気味の悪さ。あまりの超現実に、十代は喉を引きつらせることしかできなかった。声にならない悲鳴を吐き、恐怖のためか呼吸が乱れる。これは夢か何かかと嘆いた。
 なんだろう、あれは。おそらく、アカデミアの生徒が消えたのと、あの肉塊は深い関係があるのだろう。あれに追いつかれれば、きっと自分もまた、この世界からは消え失せるのだろう。事態は理解していなくとも、逃げなければならないと、そう結論を出すのは早かった。
 肉塊が出てきたのとは、反対側の扉からグラウンドを飛び出した。後ろを振り返らずに、ひたすらに校舎を目指す。恐怖からひきつる息を懸命に繰り返しながら、がむしゃらに地面を蹴った。
 なんだよあれ、なんなんだよ、どうなってんだよ。答えの出ないそれを、幾度も幾度も自身に問いかける。
 朝起きたら生徒が全員消失していた。アカデミアには教師の姿すらない。そしてグラウンドで見つけたのは、得体のしれない肉塊。これらを現実として受け止めるほうが困難だろう。
 正面玄関に飛び込み、鍵をかけた。荒い息のまま遠くを見やるが、あの奇妙な塊の影はない。ほっ、と息をつこうとして、刹那、心臓を鷲づかみされたような感覚があった。
 ず、ず、と、荷を詰めた麻袋を引きずるような音が、校舎の奥から聞こえたのだ。間違いなく、あの肉塊だろう。

「うそだろ……、なんで……!」

絶望感にさいなまれるが、とりあえずここから離れなくてはならない。しかしどこへ向かえばいいのか。とりあえず走りだしたものの、十代は途方に暮れていた。このままでは、あれに捕まるのも時間の問題だ。
 あの音が、耳にこびりついてはなれなかった。地面をこするあの音が本物であるのか、それすら十代にはわからない。肉塊がどこにいるのかわからぬ恐怖に潰されそうになりながら、がむしゃらに次の角を曲がった。その時だった。
 強く、腕を掴まれ、引き倒された。十代の身体は角にあった部屋に飛び込み、次に強かに床に叩きつけられる。自身になにが起こったのかわからぬまま、顔を上げた。そして彼の瞳は、驚愕に見開かれる。

「ゆ、遊戯さん……!? 無事だったんですね! ああ、よかったー! 俺もう、この世界には俺しかいねぇんじゃねぇかって……!」
「しーー」

目の前にいたのは、遊戯だった。歓喜に言葉を震わせる十代に、人さし指を立てて沈黙を促す。
 ず、ず、と、不気味な音が扉の向こうを通り過ぎて行くところだった。どうやらあの物体は、十代や遊戯には気がつかなかったようだ。そもそも、知能があるかどうかすら定かではない。
 音が遠ざかって、やっと遊戯は大きく息を吐いた。そして安堵した様子で、危ないところだったね、と口を開く。

「でも、十代くんが無事でよかった」
「遊戯さん、あの生き物……って言っていいのかもわかんねぇけど……、とにかく、あれはいったいなんなんですか? アカデミアのみんなは、みんなあれに捕まったんですか?」
「ごめん、それは僕にもわからない。朝、アカデミアに来たときにはもう、この島に人は残っていなかった。ただ、君と僕を除いてはね」
「なんで、俺や遊戯さんは無事だったんだろう……」
「僕は、精霊の力が関係してると思うんだ。君と僕の共通点といえば、それじゃないかな」

しかし、その答えが正しいのかどうか、確かめる手段は今のところ存在しない。
 あの物体はいったいなんなのか。生徒や教師たちは、いったいどこへ、そして何故消えてしまったのか。この超現実的な現象への疑問は尽きない。

「ただひとつ言えることは、ここでこうしていてもしょうがないってことだけど、でも、外に出るのは危険すぎる。とにかく今は、この状況を打開する手がかりが欲しいんだ」

何か知ってることはない? と遊戯が問う。不可抗力とはいえ、十代はこのアカデミアを走りまわったのだ。そこで何か情報を得ていないだろうかと、遊戯は考えたのだろう。
 十代は思索する。いったい自分は何を見てきただろう。数分前、そして、ここ数日の光景が脳裏を巡る。
 そもそもは遊戯がアカデミアを訪れた日の胸騒ぎ。吹雪が言っていた、生徒の失踪。暗い森の中。アカデミアの屋上。目覚めた先にあった、あの物体。自分はこれまでなにを見た。
 彼の中に真っ先に浮かんだのは、やはりあの、遊星という青年だった。

「やっぱり、あいつだ!」
「え?」
「遊戯さん、俺、森に行ってみます!」
「ちょっと、待ってよ十代くん、どういうこと?」
「遊戯さんにはああ言われたけど、遊星ってやつは絶対に怪しいと思う。とにかく俺は、あいつと話がしたいんです! あの森と遊星が関係してることは間違いないんだ!」
「ひとりで行くのは危険すぎる! それに、遊星くんは本当に……!」

遊戯の制止など、十代には無意味だった。彼の言葉を背中で聞きながら、十代は既に扉を開けていた。遊戯の言葉の続きは、扉の閉まる音にかき消された。





 いくら太陽が上にあるとはいえ、人気のない森と言うのはやはり不気味であった。しかし、それは今、足を止める理由にはならない。 草を踏みながら、十代は森の奥を目指していた。はじめて遊星と対面した、カードの墓場へと向かう。彼がそこにいるという確かなものはなかったが、漠然とした、予感のようなものであった。
 ある程度進んだところで足を止め、荒い呼吸をして心臓を落ち着かせる。肩が跳ねる。そして、その視界の先に、こちらを向いてたたずむ遊星がいた。彼の傍らには、カードの墓場と呼ばれる、枯れた井戸があった。

「やっぱりここにいたのか……!」
「……」
「おい、お前なにか知ってるんだろう! みんなはどこだ! あの気持ち悪ぃ塊はなんなんだ! お前とあれが無関係だなんて言わせねぇ! もしかして、今起きていること全部、お前の仕業なんじゃ、」
「あなたなら、きっとここへ来てくれると信じていました」
「は」

驚いて、十代は息を吐くことしかできなかった。遊星はなにを言うのだろうと、そう思うのと同時に、彼は井戸の底を指さした。

「全ての原因は、ここにあります」

怪訝そうに顔を歪めたまま、恐る恐る、彼の横へと足を這わせる。そして促されるように、十代は井戸の底を覗きこんだ。
 ぽっかりと、暗い闇ばかりが視界を覆った。古井戸から吹き上げる風が、十代の髪を揺らす。数秒して、十代はその違和感に気がついた。

「なにも、ない……?」

本来ならば、それは不自然な光景だった。本当なら、そこには捨てられたカードの山があるはずだった。けれど今、そこにはなにもない。

「あの塊は、ここに捨てられたカードの精霊たちが具現化したものです」
「カードの、精霊? あれが!? あんな不気味なやつ、今まで見たことないぜ!?」
「怨念、のようなものだったのでしょう。もともと力の弱かった彼らでしたが、怒りが彼らに力を与え、そして怒り故に、あのような不気味な姿になってしまったのだと思います」
「もしかして、その精霊たちが、捨てられた恨みを晴らすために、無差別に生徒たちを襲って……?」
「その通りです。最初は、本当にカードを無下に扱うものたちだけを襲っていたのでしょう。けれど、そのうち力の制御がきかなくなって、こんなことに」

辛そうに、遊星は瞳を細めた。その様子は、加害者が自分の罪を嘆いているようでもあった。
 しかし十代にはわからないのだ。どうして遊星がそんなことを知っているのか、そもそも彼は何者なのか。しかし、この状況では彼を信じる他ないだろう。なにより、遊戯が言っていた通り、彼の言葉には悪意を感じない。
 はっと、遊星が顔を上げて十代の瞳を覗きこんだのは突然だった。

「十代さん、俺に力を貸してください」

十代は目を瞬かせる。息つく間もなく、遊星は続けた。

「十代さんのことは、ハネクリボーから聞いて知っていました。精霊と心を交わす力があることも知っています。その力、少しだけ貸してほしいんです。俺は、アカデミアの生徒を救いたいんです」
「あ、ああ、アカデミアを救いたいのは俺も同じだ。そういうことならもちろん、俺も力を貸すぜ! でも、遊星、君はどうして、このアカデミアを救いたいんだ? 君はここの生徒じゃないだろう?」
「そもそも俺は、ここにいる人たちを救うために、このアカデミアにやって来たんです」
「それって、どういう……」

十代さん。遮るように遊星が呼んだ。
 井戸から風が吹き上げる。それは井戸の底に、風の通り道となる空洞が存在することを示していた。井戸の壁に開いた穴を、遊星の指が指し示す。

「この奥に、捕えられた生徒たちがいます」

俺と一緒に来てください。その申し出を断る理由など、十代には既になかった。






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