罵声と中傷。それに目を瞑ったときにはもう、アキの額には硬い石が投げつけられていた。 その箇所が、熱をもったように熱かった。じんじんと痛みの波紋が広がって、ふっと目頭が熱くなる。泣くものかと唇を噛み、周囲の人間を睨み上げると、魔女め、と迫害の視線が帰ってきた。 それらを皮切りにして、様々なものが自分に投げられた。石、トマト、水飲み用の桶。たまらくなって、身を翻し走り出した。その背に温かい言葉をかける者など、誰ひとりいなかった。 アキの母は聡明な人だった。薬学に精通し、薬草で多くの患者を救った。産気づいた妊婦の赤子を取り上げたこともあった。神の如く崇拝された時代もあった。 アキも母に倣って、多くの医学知識を身につけていた。薬草を摘んでは薬を作り、母とともに、貧しい者たちを救済した。身体の弱い母が亡くなってからは、アキひとりで薬を作り続け、やがて女神と称された。 女神の呼び名が魔女へと変わったのは、果たしていつのことだったか。 国で疫病が流行った。奇妙な病気だった。治療法も見つからず、都会では、苦しみながら多くの人が死んだ。いつからか、まことしやかに噂が流れはじめた。誰かが井戸に毒を入れたのだと。ああきっと、それは魔女の仕業だと。 薬に詳しいアキが疑われたのは、当然のことだった。きっと彼女は魔女に違いない。このままでは国が滅びてしまう。その前に、魔女を狩らなくては。 笑顔は憎しみに変わり、歓迎の手は拒絶の石を投げた。アキの弁明は、病の恐怖に震える彼らには届かない。どうしようもなく、息を潜めて、ひっそりと生きて行くしかなかった。 しかし、それには限界があった。生きて行くには食べなければいけない。食べるためには、市場へ向かわねばならない。一度表へ出れば、アキはすぐさま、迫害の標的となった。ものを投げつけられたり、棒で叩かれたり。アキの身体には痣が絶えなかった。 市場を抜けたアキは、暴力から逃れるために、時計塔の中へと逃げ込んだ。扉に内側から鍵をかける。ずるずると座り込んで、激しく鼓動する心臓を押さえつける。足ががくがくと震えている。怖かった。このままではいずれ、本当に殺されてしまうかもしれない。魔女狩りの火は、疫病がおさまらない限り、広がり続けるのだろう。 人の気配がした。こつこつと、堅い足音が近づいてくる。はっと顔を上げて身を固くした。この状況では、非力なアキは抵抗もままならない。捕らえられ、町の人々に突き出されでもしたら、一巻の終わりだった。 アキが睨み上げる先に現れたのは、青い瞳の青年だった。訝しげに階段を下りてきて、アキを見つけた途端、大きく眼を見開く。 「どうした、大丈夫か」 そう言って彼は、身を強張らせているアキに駆け寄った。彼は表情が乏しく能面であったが、その声音は随分と落ち着いたものであった。 それでも、彼を信用することなど出来ずに、逃げるために立ち上がろうとした。鈍い痛みが走ったが、歯を食い縛ってそれに耐える。早く逃げなくては。彼に、魔女だと気づかれる前に。 すぐ側に彼の気配があった。はっと振り返れば、彼の青の瞳と視線が合致する。目が合った。気づかれてしまっただろう。井戸に毒を入れた魔女だと。彼はきっと、アキを捕まえ、人々に差し出すのだろう。これで疫病はおさまると宣いながら。そしてアキは殺される。腹立たしい。そして悔しい。様々な感情が相成って視界を濡らした。 青年が、手を伸ばしてアキに触れようとする。咄嗟にその手を振り払った。 「さわらないで!」 「怪我をしているだろう」 アキの必死の剣幕など、彼は一切気にせずに、額の傷を気遣った。その優しげな眼差しに呆気にとられる。 他人の温もりに触れたのは、いったいどれくらい昔になるだろうか。 彼は、アキが魔女だと気がついていないのだろう。だからこそ、このような態度をとるに違いない。気づかれる前に、逃げなくては。 「私に、かまわないで」 冷たく告げ、壁にすがりながら身を起こす。青年の視線が自分をたどっているのがわかった。それ故にアキの焦燥感は増すのだ。いつ気づかれるだろう。いつ、その優しげな青色が、軽蔑の色を帯びるのだろう。 ふと、青年が口を開いた。 「怪我の手当てを、させてくれないだろうか」 「言ってるでしょ。放っておいて」 「あんた、魔女だろう」 瞬間、アキの動き、思考、全てが奪われ、呑まれていった。 「救急箱を取ってくる」 彼は立ち上がると、奥の、暗がりの方へと歩いていった。 彼は最初から、あの目がぶつかった瞬間から、魔女であることを知っていたのだ。知っていて、あのような眼差しを向けたのだ。ぐるぐると頭が回って、何がなんだかわからなくなる。 そうこうしているうちに、彼は戻ってきた。銃か何か取ってくるのかもしれないと思ったが、彼が持ってきたのは、小さな木箱、ただひとつだった。 木箱を足元へ置いて、青年は、傷口に消毒を施した。箱からガーゼを取り出して、アキの額にあてる。手際がよい事から、彼は手先が器用なのかもしれない。 「俺にはこれくらいしかできないが、ないよりましだろう」 「いい、いいわ、あとは、自分で治すから」 「自分で?」 「薬草には、詳しいのよ。打ち身の薬くらいなら、自分で……」 「すごいな」 しどろもどろになるアキに、青年は微笑んでいた。その言葉に裏はなく、ただ純粋に、青年はアキを賛辞した。こんなに真っ直ぐに他人と向き合う人に、アキは出会ったことがなかった。 「……あなた、私が怖くないの?」 「何故、怖がる必要がある」 「私は魔女よ」 「井戸に毒を入れた、とかいう」 「ええ、そう」 「いや、違うな」 青年は断言して立ち上がる。天井を見上げたその口は、ネズミだ、と告げた。 「疫病の原因は、菌に感染したネズミだ」 近ごろ、東の大陸との貿易が盛んになった。船に乗って、菌に感染したノミがやってきた。ノミはネズミに菌をうつした。ネズミは細菌をばらまき、病が流行った。それは他でもない、人間が流行らせてしまった病なのだ。けれど彼らは、見えない恐怖を魔女と名づけ、見える敵を作り出した。 「魔女が井戸に毒を入れただなんて、そんなでたらめ、どうして信じてしまうんだろうな」 呆れたように、青年は言った。 青年は、名前を遊星というらしかった。遊星はたったひとりで、時計塔の管理をしていた。常日頃から時計の調子を確かめ、定刻に鐘を鳴らすのが役割だという。 遊星は俗世間から一歩離れたような生活をしていた。それ故に、魔女狩りの風潮に流されることは無かったが、時おり寂しそうに外を覗いていた。それを指摘すると、そんなことはないと彼は笑っていたのだが。 遊星は優しかった。はじめて出来た理解者に心が跳ね、アキは世界に救いを見つけた気がした。彼とともに過ごす時間が幸せで、アキは彼の広い心に、身を委ねることが多くなった。 時計塔が三回の鐘を鳴らす。その様子を、遊星は神妙な顔で見つめていた。彼が普段から能面であることを差し引いても、不機嫌、不安げ、と言って差し支えない表情であった。 ささやかな彼の表情の変化に、アキが気がつくようになったのは、最近の話である。 「どうしたの? 遊星」 「いや、音が……」 「音?」 アキには、鐘の音はいつもと同じに聞こえた。しかし、彼には違うらしい。その面持ちのまま、遊星は時計塔内部の柱に、ゆっくりと耳をあてた。聞き入るように、そっと目を閉じる。 それでいったい何がわかるのか、アキには見当もつかない。けれど彼は何かを察した様子で、一度顔をあげると、手首の動きでアキを呼んだ。 「なに、ゆうせ」 ふ、と軽く身体がひかれた。手首を緩くつかまれて、柱の側面に耳をつけるよう促される。そのまま柱に身を預けると、視線の先に、同じように耳をすませる遊星の顔があった。 すっと片耳に手を添えられる。世界の音が遮断されたよう。柱の奥から、かちかちと定期的な、時を刻む音が聞こえた。 「ほら、音が少しずれているだろう?」 「え、ええ」 「なにか挟まってしまったのかもしれない。たまにあるんだ」 事も無げにそう言って、彼はどこかへと歩いて行った。きっと彼は工具箱を取って、時計の整備へと向かうのだろう。たった今、先ほどの、アキの耳元へ手を添えたことなど忘れて。 火照った顔を両手で覆った。ああ本当は、時計の音など聞こえていないのだ。自分の心臓が激しく上下して、吐息を震わせないことで精一杯だった。目の前の彼に視線を奪われながら、同時に今にも逃げ出しそうだった。 嘘をついてごめんなさい。歯車の不具合などわからなかった。意外に大きな手が、暖かかった。足元は崩れそうだった。自分を支えることに必死だった。 少女は思った。私は、彼が好きなのかもしないと。 遊星の生まれた場所は、3つ向こうの、海の見える町だと知った。彼の父親は有名な機械技師で、父がこの時計塔を築いたらしい。けれど、父親は事故で早くに亡くなってしまって、以来、遊星はここで、父にかわって時計塔の管理をしているのだと言った。 「じゃあ、いつ故郷へ帰っているの?」 「父さんが死んでから、一度も帰っていないな」 大きく開(ひら)けた窓からは、羽を休めに来た鳥たちが顔を覗かせていた。アキが手のひらにエサを乗せれば、鳥たちは可愛らしく鳴いてそれをつつく。その鳥たちを、遊星は以前から可愛がっていたようで、アキに慣れるのも随分早かった。 「それは良くないわ。お墓参りにも行っていないんでしょう?」 「ここを離れるわけにはいかないからな」 時計は、今や生活に外せないものだ。男は時計を見上げて出掛けるし、女は時計の鐘を聞いて家事をする。 アキは何かを決心したように、遊星の前に立った。見上げる遊星は、幾分か間の抜けた顔をしている。 「私が残るわ」 「……なんの話だ?」 「遊星の代わりに、私が時計の管理をするわ」 「そんなこと」 「私だって、遊星を見てたのよ? 最低限のことならわかるし、遊星が故郷へ帰っている間だけなら大丈夫よ。だから」 「ありがとう、アキ。気持ちだけ受け取っておくよ」 ふ、と息を吐いて、遊星は立ち上がろうとする。何を世迷い事をと、そう言いたげに。彼からしてみれば、アキの言葉は、面白い冗談なのだろう。 しかし実際は、そうではないのだ。 「私は本気よ!」 途端、遊星は目をぱちくりと瞬かせた。 「私、遊星の役に立ちたいの。余計なお世話なら、もう言わないわ。でも、遊星は時おり、寂しそうに町を見ていたから……。遊星は私を助けてくれた。私も、遊星に恩返しがしたいの……!」 「俺は恩なんて売った覚えはないが」 見ると、遊星は微笑んでいた。 少し見上げた先にある彼の顔は、いつも変わらない能面で。しかし、彼はいつだって優しい表情をしていた。少しだけ目元を緩ませて、少しだけ口角を持ち上げて、こうして微笑むこともあった。細やかな表情の変化に、アキの心臓は敏感に跳ねた。 「ありがとう」 遊星はいつだって、優しかったのだ。 「手向けの花は何がいいだろうか」 「白いお花がいいと聞くわ。それか、故人の好きな花とか」 「そうか。父さんの好きな花など、知らないな」 「あら、じゃあ白いお花でいいと思うわ。でも、私は白い花では少し寂しい」 「寂しい?」 「だって、白は清廉で、美しくて、私には似合わないわ。遊星、あなたにはきっと似合うでしょうけど」 「そんなことは……。なら、アキはなんの花がいい?」 「私は赤い花がいいわ。真っ赤なお花がいい。触ったら少し怪我をするような、そんな赤が好きよ」 ほんの少し自虐を含ませて言うと、それを咎めることなく、遊星は笑っていた。こうして笑い合えることが幸福で、例え、向けられる視線が胸に刺さろうとも、彼が存在するだけで、アキの世界は美しく巡った。 好きな人の力になりたかった。だからアキは、遊星に自由を与えた。そこで遊星が幸福になると信じていた。 3日が過ぎて、遊星は数年ぶりに外へと出かけて行った。行ってくる、と告げた遊星に、行ってらっしゃいと答えたむず痒さが、アキの心をくすぐっていた。 アキの元に電報が届いたのは2日後のことである。遊星の乗っていた汽車が落石事故に巻き込まれたということだった。ずきんと心臓が痛んで、嫌な予感を感じながらもその先を読んだ。瞬間、がくりと膝から崩れ落ちる。 そこには無機質な文字で、彼の死亡が確認されたということが綴られていた。 綺麗な便箋の手紙も届いた。汽車の中であなたが庇ってくれたおかげで、娘は無事に助かりました、という内容だった。 激しい後悔の火が身を焼いた。あのとき、私が遊星を送り出さなければ。いや、そもそも私と彼が出会わなければ。火刑台に送られ死んでいれば……! 涙は留まることを知らず、壊れたように頬を伝った。絶叫はどれだけ吐き出されても底が見えず、後悔と悲しみに、喉は擦りきれてしまいそうだった。いっそ、ぶつりと全ての感覚が途切れてしまえばいいのに、それさえも叶わない。 「どうして子どもなんか助けたのよ! 見捨てていれば、あなたは助かったかもしれないのに! あなたって本当に馬鹿だわ!! なんで自分の命すら捨ててしまうのよ!!」 しかし反面、遊星が子どもを助けたのは、当然のことであるように思うのだ。遊星ならきっとそうした。自身も省みずに他人を助け、それが彼にとっては本望なのである。遊星とは、そういう人間だった。それはアキも、痛いほどによく知っていた。 夜を越え、目蓋を泣き腫らしても、遊星が帰ってくることはなかった。冷たい時計塔の中で、アキは膝を抱いて何時間も泣いた。その肩を抱いてくれる優しい腕はない。アキはまたひとりになった。 寂しい、寂しいと、子どものように訴える。遊星のいない世界は、アキにとってあまりにも残酷だった。 かたん、と小さな音が鼓膜を揺すった。目を開けると目蓋は痛く、また全身も、凝り固まったように硬直していた。こぼれる朝日が目にしみる。どうやらまた、泣きながら床の上で寝てしまったらしい。 先の物音は、ポストに何かが入れられる音だった。着の身のまま歩いていってポストを開けると、届いていたのは一枚の絵葉書であった。差出人の名は、不動遊星と明記されている。 綺麗な海の絵が描かれていた。白い波がたって、海鳥が灯台の回りを旋回している。これがきっと、遊星の故郷なのだ。 その葉書の文面は短かった。ただ、アキへの感謝と、両親の墓参りが無事に済んだこと、近日中に帰ることが簡潔に記されていた。 インクで書かれた文字は、みるみる間に滲んでいった。力の加減が出来ずに、その葉書を握り潰してしまいそうになる。 そうよ、遊星は死んでなんかいない……! 私が死なせはしない! 遊星は故郷でアキに葉書を書き、それを投函してから事故にあった。葉書が届く前に、遊星は事故で死んでしまった。ただそれだけのことであるのに、孤独感に心を奪われたアキは、そのように考えることが出来なかった。きっと彼は生きている。世界ではじめて愛した彼は、生きているのだと。 そして少女は、彼を蘇らせることを決意した。 時計塔の内部に、幾何学模様や円陣がいくつもいくつも描かれていた。呪文のような、記号のような文字を、アキは無表情で床に壁に天井に、チョークで書き付けて行く。彼女は憔悴しており、黒いローブから出た腕は、枯れ木のようであった。 分厚い本を見返して、魔方陣に間違いが無いことを確かめる。足元には、白眼を剥いて血を流し死に絶えた、鳥の死骸が散乱していた。かつて鳴きながらエサをつついた面影など、少しも残されてはいない。 「遊星、私たくさん勉強したの。ねぇ、遊星。もうすぐ帰ってくるんでしょう? 寂しかったな、よく我慢したなって、褒めてくれるんでしょう……?」 ぼそぼそと、囁くような声が響いている。掠れて、いくつも歳を取ったような声音だった。 黒魔術というのは確かにあって、それを学問として勉強する者も、盲信してしまう者もいた。明らかに、アキは後者であった。 「遊星、遊星、早く帰ってきて。あなたのいないこの世界は、私には、あまりにも辛すぎる」 手首をナイフで切りつけると、そこから血が溢れて、描いた魔方陣に血の斑点を落とした。 不思議なことが起こった。 血は奇妙なまでに床に広がり、血をすすった文字は、眩いまでに発光した。それは鳥の死骸を呑み込んで、時計塔の内部を容赦なく照らした。不自然な突風に、アキの髪はばたばたと揺れる。つんざくようなアキの笑い声が、しばらくそこに響いていた。掠れた声の、不気味に高い笑い声は、魔女のそれによく似ていた。 身体中から、力が抜けていくような感覚があった。怪しい、不完全な黒魔術である。その代償は大きい。心臓をわしづかみにされているようだった。はぁはぁと荒い息をしながら膝をつき、遂には横たわる。それでも、この儀式を止めるつもりはなかった。 あなたにもう一度会えるなら、それでいい。その望みさえ叶うのならば、私は魔女にだってなろう! 完全な人間をつくるには、悪魔に処女の心臓を捧げなければいけないと記述があった。自分の命に執着などなかったが、それでは遊星には会えなくなってしまう。だからアキは、自分の命の半分と、小動物の命を媒介に、他の何かに魂を移し変えることを思いついた。そしてそこに永劫の命を与えるのだ。もう二度と失ってしまわぬように。器は、衰えない身体が良い。そう、例えば機械のような。この、時計塔のようなーー。 散乱した部屋の中で、アキは目を覚ました。視力も少し失ったらしく、辺りが霞んで見えた。倦怠感に支配されて、上手く身体を動かすことが出来ない。 壁に凭れて、目を閉じている青年がいた。アキははっと目を見開く。頬には妙な、痣のようなものがあったが、それ以外は見覚えがある。ああ、彼は帰ってきた。嬉しさに涙が溢れ、喉の奥は熱を孕んでとても痛い。 青年がゆっくりと目を開ける。青の瞳が瞬いて、ここはどこかと、周囲に視線をめぐらせる。 遊星、遊星、と泣きながら手を伸ばす。青い瞳の青年は訝しげに首を傾げたが、アキを見つけた途端、大きく眼を見開いた。 「どうした、大丈夫か」 そうして彼はアキに駆け寄って、いつかと同じ言葉をかけるのだった。 アキを抱き起こす彼の腕からは、まるで心臓の鼓動のような、機械の歯車の音がしていた。 |