いいかい、あの森に近づいてはいけないよ。怖い怖い狼男がいるからね。

 町に住む子どもたちは、皆、その噂話を知っている。ものごころつく頃から、御伽話のように親に聞かされる。迷信なのか、子どもを森に近づけさせない口実の嘘であるのか曖昧であったが、多くの子どもたちは、それを信じていた。

 いいかい、あの森に近づいてはいけないよ。狼男に食われちまうからね。





 クロウがその子を見つけたのは偶然だった。緑の髪をふたつに結った少女。丸い幼い瞳は少し潤んで、るあ、るあ、と不安げに繰り返している。ああ、迷子だなと、そう気がつくのに時間は必要なかった。
 いつからか、この森には化け物が住むのだと謳われるようになった。それ故に、木立を踏む音は珍しい。人間の子どもなど、目にしたのはいつぶりだろうか。ぺろりと、自身の唇を舐める。あの子はおいしいだろうか。あの子を連れて行ったら、子どもたちは喜ぶだろうか。
 クロウに直接の子はいないが、懐いてくれる狼の子たちがいた。彼らはいつもクロウにじゃれついて、子犬のように頬を舐めてくるのだ。もっとも、それは、クロウ自身も半身が狼であるからなのだが。
 狼たちは、本当の子のように可愛い。人に混じれぬことなど、少しも寂しくなかった。





「よぉ、迷子か?」

まるで街中で出会ったかのように、さりげなく声をかける。少女ははっと後ろを振り返り、泳いだ視線は、脅えを表していた。おどおどとクロウを見上げては、瞬間困ったように視線が逃げる。唐突に現れたクロウを警戒しているのだろう。いじらしくて可愛い子ども。

「ああ、驚かしてごめんな。俺はクロウ。この森に住んでんだ」
「この、森に……? この森には魔物が住むと、みんなが言っていたわ」
「あんなの、大人が子どもを森に近づけさせないための嘘に決まってんだろ? へぇ、それ信じてんだ。やっぱり子どもだな」

緊張をほぐすように、からうように声をかければ、少女はむくれてクロウを睨み上げた。腰に手をあてる動作は大人びていて、微笑ましい。

「わたし、もう子どもじゃないわ」
「ふーん。でも、迷子だろ?」
「わたしが迷子じゃなくて、龍亜が迷子なのよ。龍亜がわたしを置いて、走って行っちゃったの」

聞けば、少女には双子の兄がいて、隣町へのおつかいの帰りだったという。寄り道をしてすっかり遅くなってしまい、近道だと森を横切ろうとして、こうしてはぐれてしまったらしい。近道のはずなのに、これでは本末転倒だろう。親としても、少しばかり遅くなってもいいから、森を避けて帰ってきてほしかったに違いない。森には、化け物がいるのだから。

「なぁ、お前の名前は?」
「わたしは、龍可」
「じゃあ龍可、俺が森の外まで案内してやるよ」
「本当? でも、龍亜が……」
「探しがてら行けばいいさ。この森は広いからな。闇雲に探すよりも、とりあえず森の外を目指した方がいい」

な? とクロウは人畜無害にはにかんで、龍可の小さな背を押した。ふわりと香る、子ども独特の甘い香り。龍可の見えないところで、クロウの口元は三日月に歪んだ。





 龍可の小さな歩幅に合わせて歩いた。不安げにする少女に微笑みかければ、少女は気丈に笑ってみせた。心は不安で押しつぶされそうなのに、必死でそれを押し殺そうとする。愚かで可愛い人間の少女。
 がざがさと、木々の掠れる音。木立の隙間から漏れた夕日が目蓋に熱い。甲高い鳥類の声が、時折木々の間に反響した。その度に龍可は足を止める。大丈夫だと促せば、少女はほっと息をついた。
 クロウの足は森の出口になど向かっていないのに、龍可はクロウを信じて、横に並んで歩いた。

『ねぇ、ねぇ、クロウ兄ちゃん。その子はだあれ?』
『可愛い子だね。きれいにお肉がついてなんておいしそう!』
『ああ、クロウ兄ちゃん、早く帰ってきて! ぼくもうおなかがすいたよ!』

子どもたちが遠くでそう話しているのが聞こえた。人間には聞き取れない声である。龍可と雑談を交わしながら、クロウは静かに口の端を吊り上げた。
 龍可は大人しそうに見えて、内面はしっかりとした子どもであった。話す口調は整然としたものであったし、他人に合わせるだけでなく、自分の意見も主張出来る少女だった。
 人間が好きでも嫌いでもなく、興味がなかったが、龍可のそんなところは嫌いではなかった。しかし、クロウの足は徐々に森の奥へと向かうのである。果てしてそれは矛盾しているだろうか。人間が家畜を食うのと同じであると、クロウは思っていた。

「そう言えばさ、お前らは寄り道をして遅くなったんだよな?」
「ええ、そうよ」
「寄り道って、なにしてたんだ?」

ほんの少し疑問に思ったことを口にすると、きまり悪そうに龍可は口をつぐんだ。クロウはその素振りを訝しむ。問いは大したものではなく、些細なことであるというのに。
 俯いた顔を覗きこむと、龍可は逃げるように顔を逸らした。ははん、からかってやがるなと、クロウはそれを追いかける。

「なんだよ、俺に言えないことか?」
「言えないっていうか……」
「どうせ悪戯でもしてたんだろ。子どもの考えそうなこった」
「ちがうわ! ……別に、なんでもいいじゃない」
「なんでもいいなら、言ってもいいだろ」

龍可は言葉に詰まり、丸い瞳でクロウを睨み上げた。小さな子どもをからかうのが、面白くて仕方ない。
 ぷいと龍可がそっぽを向いた。おや、とクロウが思うのとほぼ同時、龍可は乱暴に言った。少女の頬は紅潮していた。

「ケーキを、食べたかったの!」
「はぁ?」
「隣町に、おいしいって有名なチーズケーキがあるの。わたし、どうしても食べたくって、龍亜に付き合ってもらったんだけど、そしたら、遅くなっちゃって」

恥ずかしさと同時に、自分のせいではぐれてしまったのだという事実がこみ上げたのだろう。不機嫌につんと跳ねた顔は、次第にまた俯いて、見えなくなった。龍亜……、と、少女は片割れの名を呼んだ。
 クロウはあっ気に取られていた。龍可が真面目な話をしていることはわかっていたが、どうにも腹の底が疼いてしょうがない。これが普段面倒を見ている子どもたちだったら、抱きあげて、頭をくしゃくしゃに撫でているところだろう。
 途端、クロウはからからと声をあげて笑った。龍可がはっとして彼を見上げる。

「悪い悪い、馬鹿にしてるつもりは、ねぇんだけど」
「もう、笑いたければ笑えばいいでしょ!」
「違うんだって! そうじゃ、ねぇけど」

そうしてまたクロウは笑うのだった。ケーキひとつで真剣に悩む姿が、とてもいじらしい。なんだそんなことかと、軽く流してしまえばいいのにと思う。けれど、無垢な少女はそれが出来ないでいるのだ。
 他人の姿にこんなにも心動かされたのは、どれくらいぶりだろうか。

「でも、チーズケーキかぁ。俺も食いてぇなぁ」

不機嫌に視線を落としていた龍可は、その言葉に顔を上げる。

「クロウは、チーズケーキ好きなの?」
「いや、食べたことねぇよ」

異端であった彼は、人間の中に混じ入ったことがなかった。だから、俗世のものに縁などなかった。元来、興味もなかった。
 知らぬことなど、クロウには当たり前のことだった。故に彼は平然と告げる。しかし龍可は、丸い瞳をこれまた大きく見開くのだった。

「もったいない! あんなに美味しいのに!」
「……って言われてもなぁ」
「ううん、チーズケーキを食べたことがないなんて損してる。今度一緒に食べに行きましょう? わたしが案内してあげるから」
「でも、龍可について行くと迷子になるからなー」
「クロウひどい! 今度はきっと大丈夫だもん」

軽口を叩き合うのが楽しかった。龍可はまた顔を背けて、その姿がいじらしくてクロウは笑った。ああ今度、一緒に食べに行こうと約束をして。




 森の出口は未だ見えず、辺りは暗闇に覆われた。満月が木の隙間から顔を覗かせ、月明かりのみが頼りになっている。
 クロウの足取りは重かった。すっかり心を開いて、楽しそうに話しかけてくる龍可への返事もおざなりになる。
 とりとめもないことを考えていた。人間というものに興味はなくて、都合よく見つけた迷子を旨そうだと思った。それは食物連鎖の一環で、どんな感情も伴わないはずだった。子どもたちへお土産を届けてやるつもりだった。

「それでね、龍亜ったらわたしの分まで全部……クロウ?」

龍可が訝しげにクロウを見上げる。彼の足ははたと止まっていた。

「どうしたの、クロウ? 大丈夫?」

そして彼の手は少女の手を掴み、それまでとは反対方向へと走り出した。まだ引き返せるうちに。仲間に見つかる前に。
 龍可は何が起きているのかわからずに、ただクロウに手を引かれながら戸惑いの声を上げていた。しかし、その声に応えている余裕はなかった。説明できるものでもないのだ。人外の感情論など、説いたところで無駄だろう。

『クロウ、どこへ行く』

ひどく近くで声がした。はっとして足を止めた。頭に届くような、人間には聞き取れない声だ。充満する獣の匂い。囲まれている。クロウは舌を打った。
 異様な気配を察してか、龍可は脅えて、クロウの服の裾を掴んだ。小さなその姿を背中に庇いながら、クロウは茂みの向こうへ叫ぶ。

「代わりはいくらでもいるだろう! なぁ、こいつは見逃してやってくれよ!」

しかし、返ってきたのは、否という否定の返事だった。匂いを嗅ぎつけて集まっていたのは、大人の狼たちで、周囲はすっかり囲まれているようだった。
 一匹が遠吠えをした。呼応するかのように、森に獣の声が響き渡る。龍可は悲鳴を上げた。がたがたと震えているのが伝わってくる。安心させるように、クロウは笑んでやるが、どうにも、焦りの色は隠せないようだった。
 茂みから飛び出したのは、大人の、五匹の狼だった。身体は大きく、毛並みは灰色である。瞳は煌々と不気味に光っていて、ぐるると低く唸っている。鋭い犬歯の間から、涎が零れ落ちていた。彼らは間違いなく、龍可を捕食する気だった。

「おい、やめろ! 頼む、この通りだ! 明日はちゃんとした獲物を連れてきてやるから!」
『クロウ、お前は人間の味方をするのか』
「いや、別に、そんなわけじゃ……!」
『裏切り者め!』
『半分が人の化け物なのだ、最初から信用するのが間違いだったのだ』
『そうだ! クロウは裏切り者だ!』
『人にも獣にも混じれぬ化け物め』
『そこの人間と共に食ってしまえ!』

そして、狼は大きく吠えた。鋭い歯が龍可に向かう。
 クロウの行動がエゴにまみれていたことはわかっていた。裏切り者と罵られても当然なのだろう。全て、自分の身勝手な言動が原因なのだから。しかしそんな理屈抜きに、彼は少女を守りたかった。

「やめろって、言ってんだろうが!」

クロウは頭上を見上げる。大きく丸い月が顔を覗かせていた。
 どくんと、大きく心臓が鼓動した。血が激しく体内を巡り、巨大何かが、身体の内側からせり上がってくるようだった。
 森の中に、獣とも何ともつかぬ、不気味な雄叫びが響いた。ごきごきと不自然な音と共に、クロウの姿が変化する。そしてそこに現れたのは、褐色の毛色をもつ、一頭の獣だった。他の獣と比べれば随分不格好で、二足歩行をし、大きな背は歪んでいる。
 臆していた狼たちであったが、化け物めと、牙をむき出しにして飛びかかってきた。それを迎え撃つように、クロウは五匹の狼に立ち向かっていたのだった。





 狼たちが横たわっていた。死んでこそいないが、全身から血を流して、もう立ち上がる気力はないのだろう。しかし一方、クロウもまた、深い痛手を負っていた。
 ふと力が抜けて、クロウの姿は四足歩行の狼になった。褐色の毛並みを持つ狼だ。そのまま横になってしまいたかったが、隅でがたがたと震えている龍可を見つけ、心配そうに鼻を鳴らしてそちらへ歩み寄った。
 龍可は、腰が抜けたように、力無く座りこんでいた。瞳からは大粒の涙を零して、嗚咽を漏らしている。ふと、龍可の足が地面を掻いているのが目に入った。一生懸命逃げようとしているのだろう。クロウは足を止めた。化け物の姿に、随分怖がらせてしまったらしい。これが今人間の姿であるなら、クロウは苦笑を零していただろう。やはり自分は、人にも獣にも混じれないのだと。

「クロウ、クロウなのよね……? ちがうの、わたし、もう、なにがなんだか……」

涙声で龍可はそう告げる。ああ、同情などいらないのに。化け物だと、逃げてくれたらいいのに。
 するとそのとき、固い何かがクロウの頭部に直撃した。ごつんと脳に響いて、酷使した身体は意識を飛ばしそうになる。それでもなんとか持ちこたえ視線を上げると、反対の茂みの方に、龍可とよく似た少年が立っていた。彼が、龍可の兄である、龍亜なのだろう。龍亜は両手に、拳大の石を抱えていた。

「龍可から離れろ!」
「龍亜!」

龍亜は龍可に駆け寄り、動けずにいる龍可に肩を貸した。

「ごめん龍可。おれ、龍可を守らなきゃいけなかったのに、置いていったりして……。でも、もう大丈夫。大人を呼んできたんだ。あの化け物だって、きっと退治してくれるさ!」
「やめて、龍亜! ちがうの、クロウは、わたしを……!」

たーん、と鋭い銃声が響いたのはそのときだった。クロウの鋭い聴覚に、幾人もの足音が届く。龍亜が呼んだという、大人たちだろう。このまま見つかれば殺されてしまう。よろよろと、クロウは森の奥へと歩き始めた。

「待ってクロウ!」
「ダメだよ龍可! あれは化け物なんだ! 龍可を襲おうとしたじゃないか!」
「ちがうわ! クロウはそんなことしない!」

違わないさ、とクロウは思う。最初の目的は、龍可を餌として仲間に差しだすことだったのだから。
 一度振り返ると、龍亜と龍可は言い合いをして、龍可はクロウを引きとめようとしていた。だが自分は、そちらの世界へは行けない。ケーキを一緒に食べに行こうという約束は、果たせそうもない。情けない声を小さく零して、それからクロウは、一度も振り返らずに、森の奥へと駆けていった。





「あなたって、馬鹿なのね」

褐色の毛並みの狼は、惨めに地面に倒れていた。雑巾のようにぼろぼろで、化け物と恐れられた痕跡はそこにはない。そして、そんな狼の傍らにしゃがんでいるのは、赤い髪の少女だった。

「あなたみたいな人を知っているわ。他人の世話ばかり焼いて、いつも損をしてる人」

少女は懐から小瓶を取り出すと、それをクロウの口許に寄せた。中では液体がたゆたっている。つん、と鼻につく香りがした。

「止血薬。死にたくないんだったら飲みなさい」

彼女がどうして自分を助けようとしてくれているのか、クロウには皆目検討もつかなかったが、彼女の言葉に素直に従い口を開いた。冷たい液体が喉をつたって胃に落ちる。ひどく苦い。

「あなた、もうここには居られないでしょう? この森を西へ抜けて、少し行ったところに、時計塔の見える町があるわ。そこに行きなさい。そこにはきっと、あなたの居場所があるから」
「お前……いったい……」

掠れた声で問うと、あら、喋れるの、と少女は猫目の瞳を丸めて、少し、驚いたような顔をした。

「私もあなたと同じ、化け物よ」

少女は立ち上がる。感情を映していないかのようだった瞳は、今は少し、寂しそうに見えた。

「私は、魔女だから」





 それから数十年が過ぎて、クロウは今、時計塔の見える町にいる。龍可はもちろん、かつての仲間とも、とうに会ってはいない。魔女と名乗ったあの少女に至っては、いったい何者であったのか、結局わからずじまいなのであった。
 あの森で、クロウは全てを失った。しかし何も寂しくはないのだ。彼の側には今、やたら気難しい吸血鬼と、腹立たしいほどに自由気ままな化け猫、それから、自己犠牲精神に溢れる幽霊がいる。そこにあなたの居場所がある、という魔女の言葉は、奇しくも見事に、当たってしまったのであった。








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