ゆらり。大きくブランコが揺れる。ぐらり。綺麗な弧を描く。
 華やかな布を纏った女が手を上げた。綺麗な女だ。金髪は緩くウェーブし、笑顔の似合う女だった。
 女はブランコに掴まると、軽やかにその身を空へと投げ出した。ふわり。滑らかにブランコは空を切って。そして女はしなやかに身を捩る。手がブランコから離れる。いくつもいくつも回転を繰り返して、はっと見とれているうちに、女は別のブランコに掴まって別の足場に軽やかに着地した。美しい女が妖艶に笑う。拍手と歓声。女は気取って礼をした。
 ゆらり。ブランコは幾度も揺れる。ぐらり。眩暈がしそうな高さ。
 もうひとりの女がおずおずと手を上げた。真っすぐな黒い髪の女。先ほどよりは、幾許か見劣りする女。
 女は手を伸ばし、ブランコを握る。あぁ、怖いのだろう。可哀想な女。
 失敗するだろうな、漠然とそう思う。思っているうちに女はその肢体を投げ出して、そしてそのまま、落下した。途端、会場はため息。興ざめであると、その空気が言っていた。女の身体はネットに受け止められていて、そしていたたまれないように下を向いていた。

「あの女……何回目だ」

サーカス小屋の暗がりで、うんざりしたようにジャックは言うのだった。




 ジャックは美しい男だった。均整のとれた肉体は魅力的であったし、肌は透けるように白かった。ただその身体は全身が黒い布に覆われていて、人と交わることを拒絶している。
 彼は自分が異端者であることを自覚していた。彼は自分の身体を変幻させる奇妙な術を持っていたし、太陽の光というのが極端に苦手であった。そして何より、彼の犬歯は鋭く、その歯は生き物の肌を抉って血を啜った。
 人には混じれず、日を浴びることもできないない彼は、暗闇に包まれるように数世紀を生きてきた。家畜を荒らし、ときに人間を襲ったこともあった。しかしジャックは嘆かないのだ。何故なら彼は高貴な存在であり、人間よりもはるかに勝る生き物であると確信していたからである。
 夜しか知らぬ彼の娯楽は、町はずれのサーカスであった。夕方に花火を打ち上げ、夜に舞台の幕を上げるサーカスである。彼はそこのテントの暗がりに佇んで、ころころと変わる景色をささやかながら楽しんでいた。
 しかし、近頃入ったらしい曲芸の女にはほとほと呆れるのだった。彼女が軽やかに回って着地するところなど、ジャックは一度も見たことがなかった。ふわりとブランコが揺れたと思えば、どさりと彼女は真っ逆さま。観客たちが頑張れと声援を送ったのは束の間のことであった。ジャックの知り合いにやたら身のこなしの軽い猫がいるが、そいつでも紹介してやろうかと嫌味のように思った。




「じゃあきっと、その女は飛びたくねぇんだろうさ」

町の光を遠くに見ながら、夜の森でクロウは言った。サーカスは数刻前に公演を終えている。クロウというのはジャックの友人で、半分が狼の男だった。クロウは満月の夜には猛獣となるが、三日月の今日は人間となんら変わらない姿で木の枝に腰掛けている。

「ならば何故サーカスなどにいる?」
「俺が知るかよ」

単刀直入にクロウは言う。ジャックはすっかり面白くなく、アメジストの瞳は煩わしいように細められた。

「俺は気にくわんのだ。サーカスというのはエンターテイメントだろう」

あぁまたその話? クロウはうんざりとして息を吐いた。しかし、ジャックはそれに気がつかない。ジャックというのはプライド故に配慮が抜け落ちたような、とにかくそういう性格なのだった。

「客人を楽しませずしてなにがエンターテイメントだ。なにより、あの女には努力の影と進歩が見えんのだ!」
「じゃあ女の目的はエンターテイメントじゃねぇんだろ」
「ではなんだと言うのだ」
「だから俺が知るかっての……あれだろ、よくあるさ、鳥の気持ちになってみたいとか」
「くだらん!!」

クロウの言葉を一蹴して吐き捨てる。そんなものがプロの世界云々、彼の論説は続く。数世紀あのサーカスを見てきたジャックには、確かに気にくわないのだろう。だがそれをクロウに投げつけられたところで、どうしようもないのだ。ああとクロウはため息。どうしてこんなのと長い年月付き合っているのか。また、今日が満月なら噛み殺しているのにと。




 女は舞台に上がらなくなった。空中ブランコに乗るのはあの美しい女とさわやかな青年だ。
 彼らの演技は見事であった。くるくると回って空をかける。観客の感嘆の吐息。あの黒髪の女のことなど、誰もが忘れてしまったかのように。
 こうなることを望んでいたはずなのに、ジャックの気持ちは晴れない。いつもの光景が少しも目に留まらず、さらさらと流れていくようで、フィナーレを残してジャックはサーカス小屋を出た。少しも面白くなかった。
 舞台のある大きなテントの脇に、小さな別のテントがあった。ジャックの視線はふとそちらを辿る。そこには、俯いて座るあの女の影があった。彼女は視力が悪いらしく、今は分厚い眼鏡をかけていた。

「貴様、何故ここにいる」

どうしようと思ったのか、ジャックは女に声をかけていた。励ます気はなかった。ともすれば女をほだして連れ込んで、血を抜き取ろうとしたのかもしれない。
 女はジャックを見上げた。頭まで黒のフードを被ったジャックを女は警戒したようだったが、すぐにどうでもいいと言いたげに視線を外した。

「もう、あそこに私の居場所は無いの。ブランコから、外されちゃったんだから……」
「あれだけ惨めなものを見せられてはな」
「し、知ってるなら聞かなくたってぇ……!」

ふえんと泣きだしそうに、女は表情を歪めた。ジャックはうんざりする。見た目を裏切らずに、情けない人間だと思った。血を吸う価値もないと、静かに落胆する。

「惨めだと自覚があるなら努力をしろ」
「私だって努力してるんだから!」
「しているのなら、何故ブランコに乗れんのだ!」
「わ、私が聞きたいわよ!」

わっ、とテントの方から人の声。明かりが漏れてジャックの網膜を反射する。公演は終わったようだ。子どもの歓声と大人の笑顔。サーカスは大成功であったらしい。
 ジャックは人波が嫌いであった。雑踏に紛れて移動することもままあったが、出来ることなら避けたいものであった。ジャックは気だるげに首筋に手をあてて、次に、反論の息を巻いている女に指先を向けた。

「貴様の名前はなんだ」
「カーリー、だけど……」
「カーリー、俺は貴様が気にくわん。これ以上俺のサーカスを汚すことは許さん」

正面から嫌いなのだと宣言されたカーリーは一瞬きょとんとして、そして、ええええ、と戸惑ったような声を上げる。舞台の上で演技をする者なら感情くらい隠してほしいものだと思いながら、ジャックはまくしたてた。

「だから、早急にブランコに乗れるようになれ。舞台を汚すことも気にくわんが、貴様がこのまま逃げることも許さん!」
「えええ!?」
「なんだ、文句があるのか?」
「あるに決まってるんだから! いったいなんの権限があってあなたがそんなこと言えるのよー!」
「サーカスは観客を喜ばせるものだろう! 俺はその観客だ! 俺を喜ばせずして何がサーカスだ!」
「ひ、ひどすぎる……」
「このままでは貴様がクビになるのも時間の問題だろう。それまでに一度くらい飛んでみせろ」

そうしてジャックはカーリーに背を向けた。ここ数日胸に詰まっていたことを吐き出して、彼の胸中はすっきりとしている。
 一方、唖然としていたカーリーであったが、はっと立ち上がり、歩み去るジャックに向けて叫んだ。

「待って! あなたの名前、聞いてないんだから!」
「人間ごときに教える名などない!」
「なにそれ!」

ぎゃんぎゃんと、演者らしからぬ態度でカーリーは喚く。ジャックは一度だけ頬を吊り上げて、その足は群衆の中へと向かっていった。
 カーリーがジャックを見失ったのは一瞬だった。しかし次の瞬間、その姿は煙のように消えていたのであった。




 小さなテントの脇でカーリーと話すのが習慣になってしまった。彼女は舞台には上がらないため、こうして公演中に雑談を交わしている。サーカスは見られなかったが、ジャックに後悔はなかった。
 カーリーは純粋な女だった。純粋故に考えが甘い面もあったが、それ故に真っすぐな面もあった。人間としては魅力的なのだが、競争の激しい世界には向いていないだろうなとジャックは思う。
 本人の言う通り、確かにカーリーは努力をしていた。彼女の手は肉刺(まめ)で覆われていたし、公演の終わったテントでひとり練習していることも知っていた。しかしカーリーは飛べないのだ。かの美しい女のように、華麗に微笑むことができない。彼女の表情はいつもどこか引きつっている。

「これだけ練習して少しも進歩しないのは、ある意味才能だな」
「うう……」
「技術が足りているのに飛べないというのはつまり、気持ちの問題ということだろう」

カーリーが空中ブランコの演者になったのは何故だろう。何故そこに乗りたいと思ったのだろう。何故、あえて道化の道を選んだのだろう。
 それらの問いにカーリーは答えた。いつになく誇らしい顔をしていた。

「憧れだったの。綺麗な人が手を振って、まるで鳥みたいに空を飛んで、あの人は自由なんだって思った。そして、私も自由になりたかった。高いところから、色んな人の笑顔が見たかった」
「それだけの思いがあるなら、そろそろ飛んだらどうだ」
「だって……」

ぼそりと、カーリーは告げた。怖いの、と。ジャックは耳を疑った。

「貴様、あれだけ落ちていて、まだ落ちることが怖いのか!」
「落ちることだけじゃないんだから! ブランコに乗れば全部見えるの。お客さんの呆れた顔も、残念そうな顔も、座長の怒った顔も……。もう全部、怖いの」

ジャックは思索する。恐怖心に負けてしまうなどなんともったいなく、愚かであるか。ジャックにはとうに恐怖など無いのだった。
 カーリーを飛ばしてやりたいと思っていた。この純粋な女が宙を舞う姿はきっと美しい。観客は、ほうと惚けるようにして見入るだろう。その光景を想像しただけで熱くなる。カーリーはきっと、今までにない笑顔で手を振るのだ。
 こんなことを思ったことなどなかった。ああ俺も歳なのか。だからこんなに感傷的なのだ。数世紀を生きる間に、随分人間というものに毒されていたようだった。それはとても甘い毒だ。じわりと脳髄を刺激する。これはこれで悪くない。




「カーリー、今から出かけるぞ」
「え、こんな時間に? それにいったいどこに行くっていうの?」
「いいからついてこい!」
「横暴なんだから!」

ジャックの手が、カーリーのそれを引いて立ち上がらせる。ジャックの手はひやりとしている。肌の白さと相成って、陶器のような。

「いいか、俺がいいと言うまで、決して目を開くな」
「へ?」

素っ頓狂な声をあげたカーリーに、ジャックは一喝する。

「黙って目を瞑れ! そして絶対に開くな!」
「えええ! ひ、開いたら……?」
「全身の血を吸い取って貴様を殺す!」
「ひいいいい!」

言われるがままに、カーリーはぎゅっと目蓋を固く結んだ。暗闇が彼女の視界を包む。そしてふわりと浮遊感。不安定さに悲鳴が漏れたが、再びジャックの一喝がそれを制した。
 ジャックはカーリーの身体を抱き抱えていた。ジャックにとって、この程度のものを抱えるのは造作もないことである。そして、彼とカーリーの身体は霧となる。ふと足元が掬われるような感覚がして、そして周囲は薄暗い靄に覆われた。ジャックはその中を歩いて行く。




 ふわふわとした、夢の中のような心地が果たしてどれほど続いただろうか。おい、とジャックはカーリーを呼ぶ。恐る恐るカーリーは目を開いて、そしてぱちぱちと、数度目蓋を瞬かせた。
 カーリーの頭にはいくつもの疑問符が浮かんでいた。鼻腔をつく潮の香りと、白んだ夜明け前の空。落ち着いたさざ波の音が反響し、海鳥が空を眺めては、朝の到来を待ちわびている。どうしてこんな、一瞬のうちに、海にいるのだろう。
 町と海は離れていた。カーリーの住む町に海はないのだ。しかし、今彼女は灯台に立って、夜明けの空を眺めている。ああそう、確か自分は、夜更けにサーカスを抜け出してジャックと喋っていたはずなのに。それなのに数刻も経たぬうちに、世界は朝を迎えようとしている。
 傍らの背の高い男を見上げた。全身を黒で纏って、今も深くフードを被った、傲慢な男だ。

「ど、どういうこと……? どうして私、海なんかに……」
「見ろ」

カーリーの言葉を無視して、ジャックは海の先を指さした。
 地平線の向こうで、眩い光が顔を覗かせていた。海鳥が高い声をあげてそれを迎えようとしている。カーリーはぽかんと口をあけて、惚けていた。
 太陽が登ろうとしている。光の帯が海に道を作った。鳥たちは大きく歓声をあげると、その光に向かって意気揚々と飛び交い始める。白い鳥が水面を飛ぶ姿は美しい。それは、幼いころにカーリーが焦がれた自由でもあった。

「あそこに立てば、これよりも、もっと美しいものが見られるのだろう?」

ジャックが隣で言った。彼の頬にも太陽があたり、白い肌は赤味を帯びていた。

「人間は空を飛ぶことは出来ない。だが、お前たち空中ブランコ乗りはそれを許されたのだ。空には素晴らしい景色がある。それを見ることの何が恐ろしいと言うのだ」

彼の菫色の瞳がカーリーを見下ろしていた。そして彼はニヒルに、しかし満足げに笑うのだった。

「最初から、恐れるものなど、何もないではないか」

傲慢で、非道な男が、実は素直になれないだけなのだとカーリーが知ったのはいつだったか。太陽に照らされた、穏やかな顔をカーリーは見上げる。
 海鳥は白い羽に陽を浴びて、きらきらと輝いている。大きく旋回する姿は、いつかの、綺麗な空中ブランコ乗りによく似ていた。

「……飛べるかどうかわからなし、まだブランコは怖い。でも、あなたの言うことはきっと正しい。私、帰ったらもっと頑張れる気がするんだから」
「ああそうだ。ここまで連れてきてやったのだから、飛んでもらわねば割に合わん。死んでも飛べ」
「死んだら本末転倒なんだから!」

言ったあとに、でも、とカーリーは続ける。

「ありがとう。ここまで連れていてくれて。……え、と……」
「なんだ」

言い淀む彼女に問いかければ、名前、と控えめな言葉が返ってきた。初対面で啖呵をきったことを思い出す。
 人間に名を教えることなどないと思っていた。しかし彼は、自分でも驚くほどに素直に、己の唇を動かしていた。

「ジャック・アトラスだ。二度と忘れるな。永劫覚えておけ」
「もちろんなんだから! ありがとう、ジャック!」

カーリーは笑った。次にその顔を見せるのが舞台であるようにと、ジャックは密かに思うのだった。




 カーリーをサーカス小屋に送り届けたあと、ジャックはふらふらと、町の外へと足を運んでいた。足元は覚束なく、吐き出す息は荒い。心臓がばくばくと、薄気味悪く脈動していた。
 雑踏を抜けて森を目指す。普段は一瞬でも、今はひどく遠い。間に合わないかもしれないなと、自嘲の笑みが漏れた。
 ジャックは太陽の光が苦手であった。それは、彼の命を奪ってしまうまでに。海辺の強い太陽光を浴びた彼の身体は、爛れるように痛んだし、また焼け落ちそうに熱を持った。意識は朦朧としていて、強い吐き気を伴った。
 熱い。とにかく全身が熱い。炎に延々と焼かれているようだ。しかし不思議と、ジャックに後悔は無いのだった。
 獣を狩ったときも、血を啜ったときも、このような充足感は得られなかった。ジャックには、その気持ちの正体はわからないが、自身が幸福であることはわかっていた。悶えるような苦しみの向こうで、俺は幸せなのだと笑っているのだ。そしてこんなときでも、なにより、カーリーがあそこから飛ぶことを祈っている。
 ジャックの足は、町はずれの草原で止まった。強い太陽が全身を包んで、数百年の夜を生きた彼の身体を燃やしていく。喘ぐような痛みの中で、ジャックはフードを下ろした。生まれてはじめて真正面から見上げた太陽は神々しく燃えていて、やはり俺には似合わぬかと笑みを零した。
 そして彼は草の上に膝をつく。
 吸血鬼の身体は、灰となって消えていった。




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