猫が羨ましいわ。
 あら、どうして?
 だって、自由じゃないの。好きに食べて寝て遊んで、本当に羨ましい。




 貴婦人の会話に、鬼柳はぴくりと耳を動かした。くあー、と大きな欠伸をして背中を伸ばす。
 鬼柳はブルーの毛並みの猫である。瞳は太陽のような黄金であった。鬼柳が目の前を横切ると、あらどこの猫かしら、などと口にされるが、鬼柳は主人を持たない猫であった。
 鬼柳というのは、ほとほと自由な猫である。愛らしい容姿をしていたから、人間に甘えては餌をねだり、気が向かねばそっぽを向いた。陽気であれば、煉瓦の塀の上で寝転がり、退屈だと感じたなら時計塔へ遊びに行った。そうすると、いつの間にか日が落ちていて、明かりに照らされた町を抜け、寝床へついた。

「嫌味のようだな、くそ猫」

そんな鬼柳を指して、友人のジャックはかつて、そう言い放った。睨むような視線に合わせて、にゃあんと可愛く泣いてやれば、恐ろしいと言わんばかりに顔を引きつらせるのである。
 猫をかぶる、とは正にその通りだ。長い付き合いの中で、それが鬼柳の本質でないことを、ジャックは既に知っていた。

「やめろ、吐き気がする」
「なんだよ、人間は、かわいいかわいいって撫でてくれるぜ?」
「人間は本当のお前を知らないだろう。幸せなことだ」
「おい、どういう意味だ」

人語には適さぬ口で、鬼柳は饒舌に言葉を紡ぐ。鬼柳がこうして気兼ねなく話せる相手は、ジャックを入れて数名しかいなかった。
 鬼柳のコミュニティは存外狭いのである。顔は利くが、友人と呼べる仲間は少ない。鬼柳の意思なのか、性格上の問題であるのか、それは今のところ、鬼柳自身にしかわからぬことだった。

「人に愛されたくば、自身の内面から変えたらどうだ」
「人間に愛されたい、だなんていつ言ったよ? 俺はごめんだね。人間は規則に縛るのが好きで、俺は自由でいるのが好きなんだ」

鬼柳は自由な猫なのである。そして、人間という生き物がまるで理解できなかった。人間たちは必死になって友をつくり、恋人をつくり、挙げ句家族などというものを形成する。鬼柳には不思議で仕方がない。また、そんなに面倒くさいことをするくらいなら、ひとりでいる方がずっとマシだと思うのであった。




 夕焼けを背負いながら鬼柳は通りを歩く。家々の屋根を渡り歩いて、大通りに面したとある一角で、彼はその小さな歩みを止めた。気だるげに腰を下ろし、丸くなる。
 鬼柳には日課があった。朝と夕の二回、こうして大通りを見下ろして、人間の姿を観察することである。楽しそうに駆け抜ける子ども。憂鬱を抱える青年。恥じらう娘。生真面目を張り付けた大人。そんな人間の姿を見つめるのが好きであった。鬼柳にとって、人間とは不思議なもので、彼らは興味の対象になっていた。
 あ、と鬼柳は凝視した。通りを三人の人間が歩いている。ひとりは幼い男の子で、ひとりは男の子の姉らしき少女。彼らと手を繋ぐのは、優しげな顔をした男性であった。
 彼らは近ごろ、鬼柳が興味をひかれている家族である。仲良く手を繋いで家路を辿る彼らが、貧困層であることを、鬼柳は知っていた。彼らは幸せそうに微笑んで、鬼柳の前を歩いて行くのである。それが、鬼柳には不思議でならない。貧しい生活は苦しいはずなのに、彼らからは、そんな様子は微塵も感じられないのだ。
 その手を離してしまえば、もっと楽な生活があるかもしれないのに。けれども、少年と少女は笑顔で父親を見上げ、話を聞いてとせがんだ。
 お父さん、ぼく今日、学校で先生に誉められたんだ。
 お父さん、わたし今日、隣のお姉さんからかわいいアクセサリーを貰ったの。
 お父さん、今日ニコ姉さんがね、
 お父さん、今日ウェストがね、
 お父さん。
 お父さん。
 何故だか、その様子が面白くなくて、鬼柳はそっぽを向いた。知らんぷりを決め込んで、素知らぬ顔で毛を舐める。そうこうしているうちに、彼らは鬼柳の前を通りすぎてしまって、無性に虚しい気持ちになるのだった。




 あるよく晴れた日には、少女は素敵なワンピースを着て、父親はそれを誉めた。くるくると回れば、スカートは花びらのように広がって、少年はそれを見て喜んだ。
 あるどんよりと曇った日には、少女が二人に傘を差し出し、父はそれを受け取り、邪魔であると少年は拒んだ。すると、夕刻には雨が降り始め、帰りは仲良く、少年と父は同じ傘で帰った。
 あるじめじめとした雨の日には、少年は外で遊べないと愚痴を溢した。本でも読んだらいいと父親が諭すと、少年はつまらなそうに口を尖らせる。そして夕刻、少年は泥まみれで帰ってきた。それを見た少女は、たいそう腹をたてていた。
 鬼柳はその姿を見続けていた。長い尻尾が、ぱたと屋根を叩く。いったい彼らの何が幸福であるのか、鬼柳にはわからなかった。わからぬふりをした。心底、面白くなかった。




 ある柔らかな日差しの日。その光景はいつもと違っていた。おや、と鬼柳は身を乗り出す。真ん中にいる父親が、その日はいなかった。
 見上げて笑顔を振り撒いた少年少女は、今は地面を見つめて沈黙していた。黙って通りを歩き、いつもの分かれ道で、少女は少年を学校へと送り出す。やはりその顔に覇気はなく、とんと押せば、ぼろりと涙が零れ落ちそうに見えた。
 ただ父親がいないだけなのに、何がそんなに悲しいのだろう。鬼柳は首を傾げてから、背を伸ばして立ち上がり、路地裏へと身をひるがえした。




「酷い落盤事故があったらしい」

日の届かない路地裏で、壁に背をあてジャックは言った。ジャックはいつもこうして日を避けて、全身を黒いローブで覆っていた。
 毛繕いをしながら、へぇ、と鬼柳は相づちを打つ。

「いつ? どこで? 何時何分何秒? 地球が何周回ったとき?」
「毛皮を剥いで売り飛ばすぞ」
「ひでぇ」
「落盤事故は昨日。炭坑でだ」

なんでも、坑道が崩れて、何人もの人間が土砂の下敷きに、その倍の人数が生き埋めになったらしい。そういえば、例の家族の父親は炭坑夫であった。

「生き埋めになった連中も助からんだろうな」

すぐそばで起きた事故であるのに、ジャックの口調には何の感情も見えない。鬼柳もそうであるはずなのに、もやもやとした何かが、胸から離れてくれなかった。あぁ可哀想にと、他人事で済ませることが出来ないのだ。いつまでも胸中に居座って、なんとも気持ちが悪い。
 八つ当たりに、ジャックのローブに爪をたてた。なんだ貴様! とジャックは怒鳴る。うるせぇジャックの分際で! と鬼柳は言い返し、全身が黒い男と野良猫の言い合いは、端から見ればなんとも奇妙なものであった。




 夕刻、いつもの大通りに顔を出す。歩いてきた姉弟は、やはり沈んだ顔をしていた。
 例の落盤事故で、父親は怪我か、亡くなったかしたのだろう。それを姉弟は悲しんでいる。鬼柳にもそれはわかる。けれど、姉弟が悲しんでいるのは、父親が居なくなって生活が苦しくなるだとかそういったことではなくて、ただ父親がいなくなること、その喪失感を嘆いている気がした。鬼柳には、それが理解できなかった。
 屋根から飛び降りて、姉弟のあとをついて歩いた。同情したのか、はたまた知的好奇心を満たすためであったのか、鬼柳にもわからない。途方に暮れたようにとぼとぼと歩く二人を、鬼柳は追いかけた。
 ふと、少年の方が振り返った。丸い瞳が鬼柳のそれとかち合う。しかし、少女の方に手を引かれて、少年はすぐに視線を反らした。
 それから何度か、少年はちらちらと鬼柳を振り返った。そのうちに少女が気がついて、ウェスト、と少年の名を呼んだ。

「ほら、しっかり歩いて」
「ニコ姉さん、猫がついて来るんだ」
「猫?」

今度は姉が振り返る。鬼柳は真っ直ぐに、少女の姿を見上げた。ワンピースを着て、長い髪を後ろに流した大人びた少女だった。
 あら、と少女は鬼柳を見て目を広げた。なんだろう、と鬼柳はそれを訝しむ。少女のその様子の意図が、鬼柳にはわからなかった。

「わかった! この猫、お腹が空いているんだ」

少年が鬼柳の前にしゃがみこんだ。がさがさと鞄をあさって、そのうちに、パンが包まれた袋を取り出す。パンは固い黒パンで、貧困層の住人が薄いスープにひたして食べているのを、鬼柳は何度か見たことがあった。

「僕のお昼ご飯、わけてあげるよ!」

一方、姉の方は呆れ顔である。

「ウェスト、あなたまた黒パンを残したのね」
「だ、だって、固くて食べづらいから」
「贅沢を言わないの」

元来、鬼柳は食にこだわりのある方ではなく、貰えるものは貰っておく性格である。だから、いつものようににゃんとひと鳴きして、少年の手から黒パンを貰った。確かに良いものではないが、食べたくないほど不味いものではない。食べ物を無駄にしてはいけない。
 わぁ、と少年は歓声をあげた。自分の手から食べたことが余程嬉しかったのだろう。姉の小言も通り抜けてしまったようだ。頭を撫でようと手を伸ばしてきたので、鬼柳はそれも甘んじて、受け入れてやった。

「姉さん、この猫、すごくかわいいよ!」
「そうね。首輪をしていないけど、野良猫かしら」
「なら、うちで飼おうよ!」

はぁ? と思ったときには遅かった。乱暴に掴み上げられて、気がつけば少年の腕の中にいた。突然のことに、呆気に取られる。
 飼い猫になる? 冗談じゃない! ようやく理解が追いついて、ばたばたと腕の中で暴れた。鬼柳は自由を愛しているのだ。それが、首輪に縛られた生活になるだなんて!
 しかし、少年は離さない。それどころか、逃がすまいと力を込められて鬼柳はぎょっとした。下手をすれば押し潰されてしまいそう。殺す気かと、罵ってやりたいくらいであった。

「ウェストやめなさい、嫌がってるわ」
「そんなことないよ! ほら、こんなにおとなしい」
「ウェストが無理に押さえているからよ」

まったくその通りである。爪をたてて引っ掻いてやろうか、噛みついてやろうか、と思案する。けれどますますウェストが腕に力をこめるので、鬼柳は抵抗すらままならないのだった。

「ほら、猫が可哀想だわ。離してあげなきゃ」
「ーーっ、嫌だ!」

途端、少年は鬼柳を抱いて走り出した。呼び止める姉の声も、聞いてはいない。これは世間一般で言う誘拐ではないかと鬼柳は憤慨したが、抵抗する術もとうに無くして、鬼柳はそのまま、彼らの家へと持ち帰られるのであった。





「やっぱり、ろくなもんは無ぇな」

姉弟の家の台所を漁る姿があった。淡いブルーの髪で、黄金の瞳をもった青年である。髪は襟足ほどの長さで、その顔は随分整っている。しかし、顔以上に目を引くのは彼の耳で、彼の頭には、可愛らしい猫の耳がついていた。
 青年の名は鬼柳といった。あの野良猫の鬼柳である。その姿故に、化け猫だと迫害されたこともあった。鬼柳自身も、異端であることは否定しない。だからこそ、彼は上手い世渡りの術を身に付けたのだった。
 姉弟、主に弟の方に連れ込まれた鬼柳は、散々に遊び相手にされた。猫じゃらしで遊ばれ、これでもかと撫でまわされた。まったく鬱陶しい。
 二人が眠りについて、ようやく鬼柳は自由となった。好きにさせてやった見返りに、こうして食料を漁っているのである。だが、そこはやはり貧困層の住民である。目ぼしいものは特に何もない。
 ふと鬼柳は顔を上げた。食卓に写真が飾られている。父親と姉弟が、笑っている写真だった。

「家族、ね」

家の様子から、父親が亡くなったことを知った。欠けた家族。居なくなった大切な人。それが何だと言うのだろう。鬼柳にはほとほとわからなかった。家族など、いたことがなかったからだ。
 家族なんて厄介だ。自由は無くなる。大人はうるさいし、子どもは自分勝手だ。けれど人間は、家族と手を繋いで幸せそうにする。そこに貧富の差などない。それがわからない。猫のように自由気ままに生きた方がきっと幸せだ。
 深く考えすぎたのかもしれない。だから、近づく物音に気がつくことが出来なかった。

「……誰か、いるの?」

姉の声であった。しまった、と思ったときには遅く、ランプにより明かりが灯された。ち、と舌を打つ。この姿を見られたことなど、ここ数年なかったのに。
 少女は鬼柳の姿を見つけ、大きく目を見開いた。隣にいた弟も、悲鳴をおさえるように、口元に手をあてる。きっと次にその口は、つんざくような悲鳴か、罵倒の言葉を溢すのだろう。鬼柳は逃げ出すために一歩を踏み出そうとした。

「あなた、さっきの猫ちゃん……?」

今度は鬼柳が驚く番だった。この一瞬で、どうしてそれが見抜けたのだろう。ああそうだと、ろくに考えもせずに答えていた。
 少女は目を輝かせる。それは弟も同様だ。そして彼女は、信じられないことを言ったのだ。

「……かわいい!」
「はぁ!?」

逃げることも忘れて、鬼柳は立ち尽くした。そんなことを言う人間など、今までいなかった。
 少女はすたすたと歩み寄ると、両手で鬼柳の手を取った。

「よろしければ、名前を教えてください」
「き、鬼柳だ。鬼柳、京介」
「鬼柳さんですね。私はニコ。弟はウェスト。鬼柳さんは、さっきの猫ちゃんなんですよね?」
「あぁ、そう、だけど」
「お願いがあります。わたしたちの、家族になってくれませんか?」
「はぁ!?」

さっきから、驚愕の言葉ばかりが口をつぐ。それも仕方ないのだ。こんな、予想外のことばかりが続けば。そもそも、こんな異形の存在を目の前にしてそんなことを言えるのがおかしい。
 鬼柳はすっかり混乱していた。しかし一方で、ニコと名乗った少女は笑顔のままでいるのだった。

「ウェストもわたしも、鬼柳さんにすごく惹かれたんです。このまま飼ってしまいたいね、と二人で話していたんですよ。でも、猫の気持ちなんてわからないでしょう? だから、明日には手離すようにウェストには言ってあったんです。でも、鬼柳さんが話せるなら話は別です。是非、わたしたちと家族になってください」
「ちょ、ちょっと待て! 何がなんだかわかんねぇ。だいたい、お前は俺が気持ち悪くないのか? こんな、化け猫、なんか」
「どうして? かわいくて素敵じゃないですか」

鬼柳には、まるで理解が出来なかった。そして何も言い返せない。肯定的に取られたことなどなかったから、その言葉のかわし方がわからない。

「ウェストは、父が居なくなって寂しいんです。わたしもそう。だから、鬼柳さん……」
「そんな、俺は、家族なんか……」

姉弟が孤独を感じていることは知っていた。それを、猫の自分で紛らわしていることも。撫でる手から、すがるような温もりを感じた。

「鬼柳さん、わたし知っていたんです。鬼柳さんがずっと、わたしたちを見ていたこと。父が居なくなって、こうして鬼柳さんはわたしたちの元へ来てくれました。運命だと思ったんです」
「……」
「鬼柳兄ちゃん」

反対の手をウェストに取られた。その瞳はきらきらと輝いて、これではまるで、息子に慕われる父親のようではないか。
 家族なんて冗談じゃない。俺は自由がいい。そう言い切ってしまえばいいのに、それが出来ない。本当は、彼ら家族が羨ましかったから。愛し合える彼らが、心底羨ましかったから。だから家族を追い続けた。時おり、嫉妬心に苛まれながら、わからないふりをして家族を眺め続けた。恋い焦がれる感情を、好奇心であると言い換えた。
 本当は、家族を築ける人間が羨ましかった。
 鬼柳が困った顔をしていると、はたとニコは我に返ったように、その手を離した。ウェストにもそうするように促す。ごめんなさい、と少女は小さな声で言った。

「勝手な事を言ってごめんなさい。家族になろうだなんて、唐突すぎました。でも、わたしたちの気持ちは本当なんです。ただ、鬼柳さんが嫌なら、それ以上は……」

鬼柳の手は、勝手に動いていた。膝をついて高さを合わせ、ニコとウェストの肩へと腕を回す。抱き締めるように、ぎゅっと力を込めた。
 鬼柳は自由気ままな猫である。孤独を、自由で誤魔化し続けた猫である。彼は自由を愛する一方で、無条件な愛に焦がれた。
 そんな彼の答えは決まっている。

「嫌なわけねぇだろ!」





(人間が羨ましい)
(だって、愛してくれる誰かがいるから。一緒に食べて寝て遊んで、本当に羨ましい)








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