お化けなんて信じられない。そう口走ったことが間違いだった。

「じゃあブルーノ、今日の見回りよろしくな」

仲間たちに、時計塔の鍵と掃除用具、それから工具類を渡される。見回りの当番を押し付ける気なのだろう。もともと押しに弱いのもあって、はぁとブルーノはため息をついた。
 お化けが信じられないのは嘘ではない。けれど、だからといって、あの薄気味悪い時計塔に行きたいかというと話は別だ。
 時計塔は数世紀前に建てられたもので、町の中心から少し外れた場所に立っている。遠くから見れば、歴史の面影を残す優美な建物なのだが、実際近くに寄ってみると、なるほど壁は浸食し、どこかどんよりとした、気味の悪い雰囲気を醸し出しているのだった。それこそ、化け物が住みついていてもおかしくないような。だから、時計塔には幽霊が出るなどと噂がたったのだろう。その噂のおかげで、あの時計塔に近づくものはほとんどいなくなっていた。
 管理者の没後、時計塔は放置され、今やシンボル以上の存在意義をすっかり失っている。管理者の家系もとうに途絶えてしまったようだし、さっさと潰してしまえばいいと思うのに、教会との問題がどうやら、町の景観がどうやらと、小難しいことを並べて、未だ重い腰を上げないでいる。要は面倒くさいのだ。だからこうして、ブルーノたち聖職者の下っ端が、定期的に管理に駆り出されるというわけだ。
 ブルーノは幽霊の類など信じてはいない。死者の魂というのはあると思うが、それが具現化し、力を持ち、人間を襲うなどにわかには信じられないのだ。けれど、時計塔へ入った仲間たちは、人の視線を感じた、足音を聞いた、掃除をしていないはずの部屋が綺麗になっていた、などと口々に言うのである。そんな話を聞いておいて、時計塔に行きたいわけがなかった。




 鍵をあけて時計塔の内部へと足を踏み入れる。かちかちと歯車の噛み合う音が響く。言われてみれば、人がいないわりには、室内が綺麗すぎるような気がした。
 時計そのものの存在意義は薄いとはいえ、時計は今でもきちんと動く。鳴らす者がいなため鐘はならないのだが、かつてはきちんと、手動で鳴らしていたようだった。だから定期的に人の出入りがあったのだが、それも無くなった今となっては、時計塔が廃れるのも無理はないのかもしれない。
 このような場所に何時間もいたくはなかった。ブルーノは簡単に掃除を済ませると、時計の歯車の調子を確かめるために、その巨大な歯車をひとつひとつ確認していった。

「あれ、これどうなってるんだろう……」

ひとつ、がたがたと不審な音を立てる歯車があった。噛み合わせは合っている。そうなると、油が足りないのか、何かが挟まったか。あーあ、とブルーノは落胆した。歯車の調整には時間がかかるのだ。なんせひとつ狂うと、全てがずれてしまうのである。
 直さなければ帰れない。それに、機械を弄ることはもともと好きな性分だ。よし、と腕を捲くったところで、ふと誰かの視線を感じた。振り返るが、誰もいない。あれ、と思ったところで、声がした。

「ああ、ここは俺も気になっていたんだ」

びく、と肩が跳ねた。見ると、歯車の向こうに足が見えていて、どうやら若い男が立っているようである。歯車に隠れて顔は見えない。足があるならば人間だろうと安易な判断を下して、ブルーノは作業を再開させることにした。ブルーノは彼の正体に検討などつかなかったが、おおよそ、技術師の類か何かだろう。

「歯こぼれか何かしたんだろうか」
「いや、これはなにか挟まっているんじゃないかな」
「この前覗いたんだが、その時は何もなかった」
「あれ、ここがずれていたのって、いつから?」
「先週……二週間ほど前からだな」

男の答えに、ブルーノは苦笑するしかない。このような不具合を仲間が見逃すとは思えない。早く帰りたいあまり、わざと放置して帰ったのだろう。
 しょうがないなぁ、と笑いながら手を動かす。ブルーノの意識は、男がどうこうよりも、歯車の不具合に向けられていた。問題があるのでは、と指摘されることも多いのだが、これがブルーノの本質なのである。
 そんなブルーノに、怪訝そうな声が降ってくる。

「君は、早く帰りたいとは思わないのか?」
「思うよ! でも、このままにしていたら可哀想だし、機械を弄ることは、もともと好きだからね」
「そうか」

心なしか、その声は嬉しそうに聞こえた。
 あ、とブルーノは声をあげた。手の先に違和感があったのだ。もっと奥へ手を入れようとすると、危ない、と制止をかけられる。ふと顔を上げれば、そこには男の、精悍な青年の顔がそこにあった。頬には奇妙な痣のようなものが刻まれている。
 ブルーノの視線に気がついて、青年は視線をあげた。澄んだ青の瞳である。ずっと子どもでいるような、純粋無垢な輝きがそこにあった。

「下手に手を入れれば巻き込まれる。俺がやろう」
「え、でも君は大丈夫?」
「慣れているんだ」

口角を持ち上げて青年は答える。それが頬笑みであると気がついたのは、青年が歯車に手を入れてからだった。
 言う通り青年はこの作業に慣れているらしく、すぐに違和感の正体を突き止めた。

「カナが欠けて、歯が引っかかっているみたいだ」
「油が足りなかったのかな」
「それと老朽化だな」

カナというのは、歯車の中心に位置する小さな歯車で、歯と歯を繋げる役目を担っている。それが欠けているとなれば、交換するか削って整えるしかない。今は歯車のズレだけで済んでいるが、それがどんな事故につながるともわからないのだ。放っておくわけにはいかなかった。

「一度外した方がいいかもね」
「そうだな」
「長い作業になりそうだけど、よろしく。僕はブルーノ」
「俺は遊星。よろしくな、ブルーノ」

名乗り合うことは、ごくごく自然の動作に思えた。そして彼らは、まるで最初からその予定であったように、歯車の調整に取り掛かるのだった。




 ブルーノが時計塔を訪れたのは昼前であったのに、修理を終えたころには、陽はすっかり傾いていた。それでも作業としてはかなり早く終わった方である。ブルーノは最悪、夜までの作業を覚悟していたし、なにより、遊星と話し合いながらの作業はとても楽しかった。ブルーノの技術は卓越していたが、故に、同等に語り合える仲間がいなかったのだ。しかし遊星とは、示し合わせたように話が合致した。

「ありがとう遊星、君のおかげで早く終わったよ」
「いや、俺ひとりでは直せなかった。礼を言うのは俺の方だ」

遊星は、滑らかに動く歯車を満足そうに眺めたあと、よかったな、と口にした。こういう点で、遊星は自分によく似ているとブルーノは思う。機械に話しかける自分を周囲は馬鹿にしたが、遊星はその行為を、当然のように行った。
 彼とは話が合うかもしれない。いや、もっと話してみたい。名前しか知らない相手だったが、ブルーノは彼の、友人になりたいと思っていた。

「ねぇ遊星、こんな時間だし、一緒に夕飯でもどうかな? 君と話したいことがたくさんあるんだ」

すると遊星は、すまなそうに、困ったように笑った。

「ありがとう。俺もブルーノとは話したいことが山とある。けれど、俺はここを離れるわけにはいかないんだ」

途端、遊星は踵を返す。彼の足は階段に向かっていて、ブルーノと、明確な距離を取ろうとした。
 ブルーノには、遊星の言っている意味がわからなかった。ここは隣接する教会が所有しているし、こうしてブルーノたちが交代で管理をしている。遊星がこの時計塔に縛られる理由などなかった。

「遊星、待って……!」

手を伸ばし、腕を掴む。しかし、手のひらへと伝わった違和感に、ブルーノは息を呑んで、反射のように手を引き戻した。何度も何度も手のひらを開閉するが、こびりついたような冷たさが拭えなかった。
 遊星の腕は、人としては異常なまでに冷たかったのだ。そして、不自然な感触。紛れもない、恐怖感。過るのは、仲間たちがしきりに騒ぎ立てた、噂話。
 綺麗な青色が、寂しそうな色をしていた。

「遊星、君はもしかして……幽、霊……?」

その問いに、遂に遊星は答えなかった。
 そして遊星はブルーノの前から姿を消す。その背中を、ブルーノは追うことが出来なかった。




「お前はそれで満足なわけ?」

「ああ。俺は見ているだけで十分だ」

時計塔の上部。大きく開(ひら)けた窓から、遊星は町を見下ろしていた。傍らには、ブルーの毛並みの猫。奇妙なことに、その猫は人語を話した。猫は名前を、鬼柳といった。
 遊星の青色は、教会へと戻るブルーノを追っている。嬉しかったのだ。時計の整備をきちんとしてくれる人間など、これまでいなかった。だから遊星はブルーノに話しかけてしまったのだ。つい、無意識のうちに。

「いいんだぜ、外に出たって」
「いや、それをしてはいけない気がする。俺はここから出られないんだ」

いつから自分が、ここにいるのかわからない。ただ、気がつけば遊星はひとりで時計塔に住んでいた。外の世界を知らなかったし、また出てはいけない気がした。外へ向かおうとすると、ぴんと糸を張られたように足が止まり、引き戻される感覚がした。行かないでくれと、誰かに訴えられているような。
 自分がいったい何者なのか、遊星にはわからなかった。長い年月を過ごす中で、自分が人間でないことを知り、また、幽霊だと恐れられていることを知った。

「もしかしたら、俺は生前、ここに強い恨みでも抱いていたのかもしれないな」

その負の念に自分は囚われているのかもしれない。
 ふーんと、隣で鬼柳が目を細めた。その鬼柳の喉を、遊星は指先で掻いてやる。すると鬼柳はごろごろと喉を鳴らして、それ以上の追究を忘れてしまうのだった。

「幽霊は幽霊らしく、ひっそりと暮らす方が性に合っているのさ」

人間の暮らす外の世界は、遊星にはあまりにも眩しすぎた。日を避けた影の中で蹲っている方が、自らの身に合っている気がした。
 ふと微笑を零して、遊星は時計塔の奥へと戻っていく。その背を横目で見送った鬼柳は、ふうと息を吐く。そして次の瞬間、窓辺に腰掛けていたのは、猫耳を生やした、綺麗な顔立ちの青年だった。淡いブルーの髪が、襟足あたりで靡いている。

「幽霊、ねぇ」

意味深長に鬼柳は呟く。その頃にはもう、遊星の背は、鬼柳の視界から消えていた。
 幽霊とは、命を失った者を指す。その心臓は沈黙して、温もりを灯すことはない。しかし、遊星は違うのだ。遊星の胸は確かに鼓動していた。鬼柳の獣の耳は、しばしばその音を拾い上げた。彼の胸からは、まるで心臓のような、機械の歯車の音がしていた。








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