鉢屋三郎というのは、学年が違う俺でも知っている。
授業に出た回数数えられるだろ、というとんでもないサボり魔。
それなのになぜか、テストじゃ毎回学年トップ。
サボり魔のくせにとんでもなく頭がいい奴と有名だ。
普通なら指導室直行の素行の悪さにも関わらず、頭脳は優秀。
話によると親がどこぞのお偉いさんで、そのこと相俟ってか先生方は鉢屋を厳しく注意できないらしい。

優秀な問題児鉢屋三郎。
そんな鉢屋が変わったのはつい数ヶ月前のこと。
あれだけサボりまくっていたのに、なぜか急に授業に出席するようになった。
周りの人間は一様に首を傾げたけど、結局真相は鉢屋のみぞ知る闇の中。


でも俺には分かる。
なぜ鉢屋が急に真面目になったか。
鉢屋が真面目になり始めたのは、今年の春も終わり頃。
学年が変わってクラス替えをした後。
先生が、鉢屋の担任になった辺りを境目だ。
俺には分かる。
鉢屋は先生が好きだ。
じゃなきゃ放課後、わざわざ数学準備室に勉強を教わりにこない。
あの学年一優秀な奴が。
いくら理系クラスだからって、来るはずないじゃないか。
俺は今、そんな二人のいる準備室の前で立ち尽くしていた。

「潮江先生、ここがちょっと理解出来ないんですけど…」
「ここか?なに、そんな難しいことじゃない。この公式を使って…」

扉の隙間から二人を覗く。
先生の所に来たら、鉢屋がいて声をかけ損ねてしまった。
真剣な様子で鉢屋に教えている先生。
そんな先生を、話を聞きながらも横目でちらちらと見る鉢屋。
頬がうっすら赤く見えるのは夕日のせいなんかじゃない。

「えっとつまり……解はこれで正解ですか?」
「正解だ。もうこれは分かったな?」
「はい!」
「よし」

偉いぞ、と言いながら先生は頭を撫でた。
鉢屋は嫌がる素振りをしながら、嬉しそうに笑う。
端から見たらただの微笑ましい教師と生徒だ。

でも俺にはそうは見えない。
だって、同じなんだ。
俺の目と鉢屋の目が。
同じだ。ただ先生を追いかけていた頃の俺と。

「さすがだな、鉢屋。俺から教わらなくてもいいんじゃないか?」

先生が冗談混じりに言うと、鉢屋は眉間に皺を寄せ唇を尖らせた。

「嫌です。私は先生だけに教わりたいんです」
「そーか」

先生は鉢屋の物言いにただ笑うだけ。
拗ねた口調に隠された本音に、先生は気がつかない。
鉢屋はそんな先生を見て、急に顔を引き締めた。
さっき勉強を教わっていた時よりも、余程真剣な顔で。

「…潮江先生、聞きたいことがあるんです」
「なんだ?」
「……彼女、いるんですか?」

教材の片付けをしていた先生の手が、一瞬止まる。
けどなにごともなかったかの様に鉢屋の問いに答えた。

「そんなこと聞いてどうする?なにも役にはたたんだろ」
「知りたいんです」
「…彼女はいねぇよ」

苦笑しながら先生はそう答えた。
彼女は。
確かに先生には「彼女」はいない。
先生も分かっていてそう答えた。
でもそれはあくまで鉢屋の問いが「彼女」だから。
もしも、別の問いかけをされたら――

「なら、潮江先生」
「ん?」
「…"恋人"はいるんですか?」



 キーンコーンカーンコーン



鉢屋の問いを遮るように、夕焼け色の校舎にチャイムが鳴り響く。
最終下校の鐘だ。
鐘が鳴り終わると、先生は鉢屋に背を向けて机に資料をバサリと置いた。

「…最終下校か。早く帰れよ」
「潮江先生」
「急げ。じゃないとまた山田先生にどやされる」
「……分かりました」

そう言って鉢屋が渋々と言った様子で立ち上がる。
俺は慌てて準備室の前から階段の踊り場まで逃げた。
扉が開く音がして、鉢屋の「さようなら」という声と同時に閉まる。
軽い上履きの足音がこちらに近づいくる。
俺は一つ呼吸をして、たった今来た体を装いながら歩く。
そして、鉢屋が姿を見せた。

「…食満先輩」
「…よお」

おざなりに挨拶をして、何でもない顔ですれ違う。
鉢屋も、そのままなにも言わずに行ってしまう。
俺もなにも言わずに歩いた。

軽い足音は、俺の背の後方で止まった。

「食満先輩」

強めの語気で呼ばれた俺の名前。
振り返れば合う、鋭い視線。
鉢屋の目には、敵意にも似た感情が宿っていた。

「…あなたのでも、負けた訳じゃありませんから」


その一言で、俺は悟った。
鉢屋は俺と先生の関係を知ってる。
知った上でも、先生のことが好きなんだ。
その想いの強さに驚いた。
そこまで真剣に先生のことを好きだなんて思いもしなかった。

でも。それでも。


「絶対渡さない」


先生は俺のだ。
俺が先生のであるように。
挑戦状ならいつでも受けてたってやる。
俺も負けじと視線を返してやった。

数秒の睨み合い。
鉢屋は視線を僅かに落とすと踵を返して廊下の向こうに消えた。

鉢屋が完全に見えなくなったのを確認すると、俺はようやく体から力が抜けた。



準備室に入ると、先生がこちらを振り向く。
俺だと分かると、優しく笑って迎えた。
俺は先生の、この表情が好き。
先生が他の誰にも向けない表情。
ほんのちょこっと違うだけなんだけど、特別な。

「何やってるんだ?もう過ぎてるだろ?」
「先生と帰る」
「俺はまだ仕事があるんだが…」
「…待ってる」
「そーか。…見つからないようにしろよ」

そこで帰れとか言わない先生は甘いと思う。
その甘さにつけ込んでいるのは他でもない俺だけど。
何時ものようになぜかある応接用のソファに腰掛けた。
そうだ、ここさっき鉢屋がいたんだっけ。
…ああ、なんだろ、モヤモヤする。
思わずよった眉間の皺を擦りながら、ふと机を見る。
そこには見覚えのない青いシャーペンがあった。

「これ…」
「ああ、鉢屋が忘れたんだろ。さっきまでいたんだ」
「…ふぅん」

知ってるけど、まさか覗いてたなんて言えるわけもなく、曖昧に返事をする。
つーか考えたな策士め。
これを置いていけば先生は鉢屋に声をかけざるを得ない。
自動的に話をするタイミングを得られるって訳だ。そうはさせるか。

「これ、俺が届けておく」
「いや、俺が担任なんだからわざわざ…」いいの!」

俺が声を荒げると、先生は呆気にとられた顔をした。
う、やばい。なんか不振に思われたかも…。

「…お前、鉢屋と仲良かったか?」

思わずずっこけそうになるのを堪えた。
そっちじゃねぇから!
むしろそれは先生に言うべきセリフだろ!
俺はそっくりそのまま先生に同じことを言った。

「先生こそ、鉢屋と仲よさそうじゃん」
「そうか?まぁ懐かれてはいると思うが」
「…そんだけ?本当に?」

あっさりそう答えられても不安だ。
だからつい、執拗に確認してしまった。
それがいけなかった。

「……なんだお前、嫉妬でもしてるのか?」
「はっ!?な、ち、ちが…」

図星をさされて瞬間的に赤くなった顔で必死に否定しても、肯定してるのと同じだ。
先生もそれが分かっててニヤけた顔をしたんだ。
ああ、もう!なんでこういう時だけは察しがいいんだよ!
悔しくなって顔を逸らす。
でも、自分でも子供っぽすぎる思う態度に、余計恥ずかしくなった。
そんな俺の態度に、先生は笑いながらこっちに近づいてくる。
顔の横辺りで、ソファーが軽く軋む音がした。
反対側から背もたれに座ったらしい。
それで、頭をグシャグシャと撫で回された。

「懐かれてるだけだよ。お前が不安になることはないって」

先生はそうかもしれない。
でも、鉢屋はそうじゃないんだよ。
そう言いたかったけど、言えなかった。
先生が鉢屋の気持ちに気づいてしまうのは、嫌だ。
なんて言ったら分からなくなって、先生の顔を見上げる。
普段、教室じゃ見せない、優しい目と合う。
余程不安な顔をしていたのかもしれない。
先生はおかしそうに笑って、こう言った。


「大丈夫だ。俺を好きになる物好きなんざお前だけだよ」


……先生は、そんなことを言うけれど。
その物好きが何人もいるってことを。
不安な気持ちを紛らわすように、目の前にある腰に抱きついた。
驚いた先生の声が聞こえたけど、無視して抱きつき続けた。

先生は鈍いし、あからさまに好意を向けている鉢屋を、懐いているの一言で片付けちゃうぐらいだけど。
そんな所が好きで仕方ないって言ったら、また伊作に変な顔されるんだろうな。


「…甘えん坊か?留三郎」


呼ばれた名前に、胸の奥で燻っていた不安が消えていくのを感じた。
やっぱり、鉢屋にここは譲ってはやれない。
だって俺が一番、先生のことが好きなんだから。







 惚れた腫れたの恋事情
 (あなたしか見えないの)




後書き:匿名様リクエスト
「生徒鉢屋→文食満で、鉢屋の熱烈なアピールにも気がつかない先生文次郎と、やきもきする食満」
でした!
留が大分、文次郎のこと好きですね(笑)
鉢屋も同じく文次郎のことが大好きです。
書いている最中、何度も「文次郎そこ代われ!」と思いました(笑)
文次郎は本当に鉢屋の気持ちに気がついていない鈍感さんですw


こんな駄文ではございますが、匿名様に捧げます。