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春よ
2012/03/08 21:29


春、春よ、春よ来い。
遠い遠い、春よ来い。



もう弥生に入ったというのに、吐く息は白く、悴む爪先。
ついこの間は雪まで降った。
可愛い後輩たちは無邪気に喜んびはしゃいでいたが。

昨年の俺なら、途切れることのない雪に、うんざりしただろう。
でも今は。
この冷たさが、むしろ嬉しい、だなんて。

「さみぃ…」

どんよりとした空を見上げ、一人呟く。
俺が嫌いな曇り空。
冬を感じさせる天気が、今は嬉しい、だなんて。

ふわりと、首に巻きつく温かいなにか。
見れば、それはいつも使っている深緑の首巻きだった。
振り返ると、目の下に隈を作ったあいつが立っていた。
少し、難しい顔をして。

「…風邪、ひくぞ。こんな所で何をしている」

こんな所、とは葉一つない桜の木、真下のことだ。
普段ならその言葉だけで喧嘩へと発展しただろう。
でもそんな気分じゃない。
俺は文次郎へと向けた視線を、木に戻した。

「いや…蕾、まだ膨らまないなって…」
「桜ならまだ先だろう。この陽気だしな。なんだ、花見でもしたいのか」
「……違う」

まだ咲きそうにもない桜。
雪がまるでそれと錯覚させるか、それは冬の名残だ。
常なら、その名残を溶かす雪を待ちわびているはずなのに、今は。

「それが嬉しいんだ」

文次郎が、隣で小さく息をのんだ。


全てを包むように咲き誇る、薄紅色の天女。
皆は今か今かと待ち望むけれど、俺は見たくない。

その天女を見た時、俺達はこの箱庭を出ていく。
俺達は忍びだ。
同じ道は歩めない。

つまりこいつと、

「……桜、咲かないといいな」

俺の意図を読み取ったのか、文次郎が呟く。

「そう、だな」

触れた蕾は、まだ固かった。




そんな願いを嘲笑うかのように天女は微笑み、俺たちはその花を背に箱庭を出た。
ただ一つ、箱庭で一番大きく美しい桜だけは咲かなかった。

俺と文次郎が散りゆく花びらよりも儚い願いを呟いた、あの木だけが。



後にも先にも、こんな願いを抱いたのは、十五も冬の終わりだけだった。









春よ、遠き春よ。
遠きままでいておくれ。
今はまだ、名残雪に包まれて、例え浅き夢でも見ていたいのさ。
ああいっそ、このまま永久に芯まで凍る真冬のままでもいいのに。












春を望まぬ時ぐらいある。
お粗末様でした。