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 蛇口を右に捻ると、キュッと生き物の鳴き声みたいな音がした。天井近くに固定されたシャワーは、飛沫を撒き散らしながら琉奈の身体めがけて放水する。何にも触れずに落下していく滴は重力に従いぐんぐん加速し、地に当たった瞬間礫のように弾けて飛んだ。身体を伝ってなだらかに流れていく水とはまるで別物みたいに見えた。

 鏡に映る裸体は細く白く、女性的な曲線を描いている。その身体は確かに、琉奈が知っている「自分」の身体だ。血の通った、温かい、十七歳の身体だ。
 ―――この身体の味≠知るのは、たった一人だけ。藤條渉(トウジョウワタル)という男ただ一人だけだった。


 蛇口を左に捻ると、やはりキュッという音が鼓膜を衝いた。シャワーヘッドに残された水滴は、琉奈の眼前を真っ逆さまに墜落していく。そしていきなり静寂に包まれた。静寂は孤独と恐怖を呼び起こす。身体は熱っているのに、背筋にはゾッとするものがあった。背骨の芯を虫が這いずり回っているようだった。


「―――……あれ?」


 もう一度鏡の前に立って、ふと気が付いた。琉奈は鎖骨辺りを右手で触れて、

「無い」

 と小さく呟いた。

 そこには、ペンダントがある筈だったのだ。とても大切な物だったのに、今の今まで、なくなっていることに気付かなかった。それは、かの恋人、藤條渉と揃いのペンダントだった。

 どこかで落としたのか。はたまた最初から無かったのか。琉奈は真っ白なタオルで身体を拭きながら、色々なことを考えた。しかし何も思い出せない。……いや、初めから無かった気がする。そうだ、無かった。初めから―――





 初めから=H





 琉奈は、背骨の芯に在る虫がひょいと顔を覗かせたような気がして、ごくりと息を呑んだ。

 このセカイでの彼女の最初≠フ記憶は、砂里だ。そこで幽云に襲われて、秋に救われた。気付けば砂里を彷徨していたのだ。それ以前≠フ記憶はない。どこかの扉を開けたらそこは異世界だったとか、何かの光に導かれて目を開けてみたら知らない街が広がっていたとか、そんなことではなかった。

 ―――琉奈は、まるで初めから≠サこに居たかのように、このセカイに立っていたのだ。


 ふと、思った。



(私は本当はこのセカイの住人だったんじゃないの?)



 その時だった。

 琉奈の頭の中で、きーん、という不快な高音が響き渡ったのだ。それは、耳を劈き脳味噌を切り裂くような音だった。

「きゃあ!」

 琉奈は思わず両手で耳を塞いで、その場に屈んだ。音は止まない。頭の底で、きーん、きーん、とこだまする。

 次の瞬間、ドンドン、と低い音が聞こえた。これは頭の中で鳴ったのではないらしい。扉だ。扉が乱暴に叩かれている音だ。

「おい、どうした!」

 秋の声がした。

「大丈夫か、琉奈!」

 呼ばれて、琉奈は我に返った。きーん、という耳鳴りが次第に遠ざかっていく。まるで秋の声に掻き消されるように。

「入るぞ!」

 慌てて叫んだ。「待って!」

 ―――叫んだのに、聞こえなかったのか、扉はバン! と勢いよく開かれた。

 入口からこのバスルームが死角になっていなければ、琉奈は秋を蹴り倒しているところだった。急いでタオルを身に巻き付け、裸体をしっかり隠したところで、秋は琉奈を見つけた。

「どうかした―――」

 彼は険しい表情でじっくり三秒ほど琉奈を観察したあと、二歩後退って、一瞬で回れ右をした。

「わわわ悪い!!!!」

 ご丁寧に、自分の手で自分に目隠しをしながら。

「ち、違うんだ! ひっ、悲鳴が、ききき聞こえた気がしっ、してよ!」

 後ろ姿の、耳が赤い。

 琉奈はゆっくり立ち上がって、片手でタオルを押さえつつ、秋のほうに近付いた。備え付けのこのタオルが、身体を覆える大きなもので本当に良かった。

「あんた寝たんじゃなかったの」

 わざと怒ったような声色で言ったが、彼女は全然怒ってなどいない。悲鳴を上げたら飛んで来てくれるなんて、さながらヒーローじゃないか。

「……寝てたよ。けど、声が聞こえたから、起きたンだ」

「夢じゃない?」

 秋は少し黙って、

「そうか、だったら、本当に悪かった」

 と、ぼそりと言った。

 琉奈はなんだか可笑しくなって、くつくつ笑った。それでも、さっきの耳鳴りがまだ微かに頭にこびりついていて、立っているとふらふらしそうなほどだった。

「―――……っ!」

 瞬間、頭の中を物凄いスピードで何かが駆け抜けた。琉奈はよろめいて、前のめりに倒れかけた―――ところを、秋の左腕に掴まって踏みとどまった。

「お、おい―――」

 秋は振り返ろうとしたが、琉奈の肌が視界に入って、すぐ前を向き直った。二の腕を掴んでいた小さな手がずり下がっていくのを、秋の右手がぐっと掴み取る。

「大丈夫か」

 初めて―――琉奈はこのセカイに来て初めて人肌に触れた。秋の手は力強く、熱を持っている。握り潰されるのではないかと感じるほどの力が、琉奈にとっては、心地が良かった。

「……何でもないの。こっち見たら殺すから」

「見ねェよ」

「それはそれで失礼ね」

「具合悪いなら―――」
「悪くない」

「………………」

「何でもないの」

「それさっき聞いたって」

「……風邪引くから、服着ていい?」

「そうしてくれ」

 部屋の扉が開けっ放しになっているのを横目に見て、こんなところを迅や龍に見られたら大変だな、などと考えながら秋はそっと手を離した。







  
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