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恋人がいた。
抱き締めることすら怖ろしいほど、よく出来た人間だった。彼の顔を見ると、言いたいことも言えなくなった。理由は分からない。何か、目には見えない壁のようなもので、私たちは隔てられていたのだ。ふたりに膨大な距離があるならまだいい。問題なのは、あの、隙間≠フような距離。会釈をするにはあまりに近く、心を通わせるにはあまりに遠い。
いま思えば、私は、愛されてなどいなかったのだろう。どこか冷たい彼の、どこか温かいところに惹かれていた。けれど、きっと彼は、隔たりの向こうの私≠ネんか見ちゃいなかったに違いない。
なのに───……。
「どうしたの、琉奈」
……くだらないことを考えていた。迅が心配そうに私の顔を覗き込むので、そんな思考はすぐに止めた。そうだ、今の私に、余計なことを思う暇なんてないんだ。
「ううん、なんでもない」
と応えると、途端に辺りが開けて明るくなった。地下≠ヨと続くほの暗い階段を抜けたらしい。
「ここが談話室。───リビングみたいなものかな。僕らが顔を合わせるのはだいたいここ」
なるほど。上≠フ小屋よりは生活感がある。透明のガラステーブルや、小洒落たソファーなんかが置いてあったり。
そのテーブルの上に、何やら布らしきものが乗っている。雑巾のような襤褸だ。掃除でもしていたんだろうか。───などと考えながらぼんやりと眺めていると、奥から秋が大刀片手に現れて、
「なんだ来たのか」
といわんばかりの目で私を見た。
その時すぐに気付いたのは、彼の巨大な愛刀の変化だ。私を助けたときに付いたらしい臙脂色が、綺麗さっぱりなくなっている。まるで新品みたいで、刀身なんかピカピカだ。
「また磨いてたの?」
迅のその問いで、私は閃いた。そしてぱっと見遣ると、テーブルの上のあのぼろきれは、やはりところどころ赤黒く滲んでいる。───つまりあれは刀の手入れに使われたわけだ。
「ま、商売道具だかンな」
物騒だなと思って再び秋へと視線を戻すと、彼は私のほうを見て、小さく「あ、」と声を漏らした。
───いや、正確には、私の後ろのほうを見て≠セ。
「帰ってきたね」
迅も、にこやかに振り向く。
私も、それに釣られてゆっくりと後ろを振り返った。
小さな足音が、こちらに近付いてくる。静かに、息を殺す獣みたいに。
現れたのは、
私の恋人によく似た少年。
「おかえり、龍」
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