幻を食らって生きている

Midorima × Akashi



 ここだけの話なんだがね、昔、といってもそれ程前というわけでも無い、精々3、4年くらい前のことだ。オレは一度記憶を失っているんだ。ああ、少し違うか。失ったのは今までの人格であって、記憶は残っていた。
 記憶、と言っても人間の記憶はいくつもの分類に分けられる。人格というのも、今までの”体験”という記憶から作られたものだと考えると、記憶の積み重ねで出来た一つの形と言えるだろう。なので広意義に記憶喪失と言ってしまってもいいが、ここではあえて人格喪失と言うことにするよ。
 オレが失った記憶というのは、大きな部類で長期記憶というもの、更にその中でもエピソード記憶というものだ。簡単に人間の記憶を意味記憶、手続き記憶、エピソード記憶に分けるとしよう。意味記憶とは言葉の通り、物事の意味の記憶のことだ。例えば自分は人間だ。人間は犬ではない。赤は黒ではない。そう言った認識の元となるもののことだ。手続き記憶はいわゆる”体が覚えている”という状態のことだ。例えば自転車の乗り方、ピアノの弾き方、水の中での泳ぎ方。そしてエピソード記憶というもの。これは一般的に思い出、と呼ばれているものだ。誰とどこへ行き、その時に何を思ったか。自分が何をしてどんな結果になったのか。そういったひどく曖昧で、不確かなものだ。
 ふと、ある時、気付いたんだ。おや、オレは果たして誰だろうと。名前は分かる。誰が父親で誰が母親で、自分がどんな家に住み、どの学校へどんな道筋で通い、誰と交友があるか。しかし、どうしてもそれに伴う記憶が思い出せなかった。オレはピアノが弾ける。体は自然に準備を終わらせ、ピアノの前に座ると手が勝手に動き出した。そして曲を弾き終えると、”母親”が満足げに拍手をしていたのできっと問題なく演奏をする事が出来たのだろう。だが、この曲はどうやって覚えたのだ?
 どうやらエピソード記憶だけが失われている、と気付いたのは、果たして勉強熱心だったのかそういう教育を受けていたのかこの体の持ち主がとんでもない量の意味記憶を所持していたからだ。どうやって記憶したのかが分からない記憶が頭の中にたくさんあるということは中々に不思議な感覚であったよ。この体の持ち主、というのはおかしな言い方だったな。この体というのはオレの体であり、それ以外の何者でもないのだから。
 もしかすると”失われた”というのは間違った言い方なのかもしれない。ただ単にエピソード記憶の想起の仕方が、なんらかの脳の障害で妨げられているだけとも考えられる。本来ならば主に脳についての研究をしている病院へ赴くべきなのだろうが、オレはこのことを誰にも言わなかった。人間の脳とは未だに未知の部分が多く、そんな中でこの症状が解明される可能性は低いと考えたのも原因の一つだし、下手に脳をいじられてこれ以上悪化させるのは本位ではなかったからだ。一番の原因は、このままでも問題は無いと判断出来たから、ということに他ならないが。
 オレは思うのだ。記憶というのは、本当に確かなものなのだろうか?自分が覚えている、記憶しているというその記憶は、本当に自らが経験したことそのものなのだろうか?所詮記憶というのはシナプスの伝達活動によって生じるものだ。シナプスの電位変化が記憶として残るわけである。記憶というのはナマモノだ。そんなナマモノが、何年も同じであるはずがない。実際は自分の思い出として覚えているものは、今自分に都合よく改変された事実とは程遠いものであるかもしれないのだ。
 だから、オレがこうなって不思議に思うのは、そんな不確かなものを後生大事にして生きている人間があまりにも多いことだ。大事なものを心に……いや、脳に、と言ったほうがいいのか?ともかく、大事なものを抱えてそれを辛い時のよすがにする人の心が不思議でならない。
 どうもオレは、人よりもたくさん出来ることが多いらしい。勝負事では普通にやっていても負けたことが無く、そんなオレを見て周りの人間は羨望や嫉妬の目を向けてくる。きっと、この能力がいけないのだ。思い出というものを無くしても、人の世で恙無く生きていけるこれが。

 ともかく、ある日を境にオレからは人と共有できる思い出というものが失われた。
 そして、オレはそれを問題にせずにこの数年間を生きてきた。
 未だに思い出は蘇らない。
 
 さて、そういえば自己紹介がまだだったな。オレの名は赤司征十郎。中学のバスケ部の主将をしている男だ。




 空いた時間に、一局どうだ。と誘ったことが始まりで、未だに続けていることがある。最初はルールを教えるところから初め、今では時折ヒヤリとさせられる手を打つようになってきた男の名は、緑間真太郎と言う。以前のオレを知る者の一人だ。

「ピアノをやめて、何年になる」
「3年、といったところか」

 パチリ、と駒を動かす音が大きく聞こえた。
 オレがピアノを止めたのは、人格が無くなって少ししてからだった。弾けなくなったわけでも、技術がなく断念したわけでもない。

「何故やめた?オレは、お前のピアノが嫌いではなかった」

 その言葉が怖かったからだ、と言ったら驚く顔が見られるだろうか。
 体に染み付いていた技術は新しい曲も問題無く弾きこなし、最初は突然やめるのもおかしいと思い続けていた。しかし、ピアノの講師が日に日におかしな顔をするようになり、ついにはオレに何か悩みがあるのか、と聞いてきた。どうも楽器というものは演奏者の心を映し出すものらしく、最後までその意味が上手く飲み込めなかったが、両親でさえ気付かなかった己の変調をこの講師が気付いたというのだからその通りなのだろう。きっと前のオレはピアノを愛していた。少なくとも、今のオレの弾けるから弾いているだけ、というものよりは情熱的であったことだろう。これはいけないと思い、オレはすぐに母親にピアノをやめると告げた。理由を、勉強に専念したいからだと言えば、何度かコンクールで優勝をしていたということは部屋に飾られたトロフィーを見れば分かったが、きっと最初からオレにそっちの道を歩ませる気ではなかったのだろう、すぐに了承された。

「ふふ、今の演奏を聞けば、さぞかしお前はがっかりするさ」
「そんなことは無い」
「何故お前が怒る」
「お前が自分がどれだけの演奏をしていたか分かっていないからだ」
「分かってるさ」

 分かっている。だからやめたのだ。

 中学へ入学し、クラスも別れ、独自の行動範囲を持つようになって、前のオレを知る人間とは自然と距離を取ることができた。特に問題という問題があったわけではないが、やはり思い出という共通の話題で盛り上がる、ということを一つのコミュニケーション手段としている人間である限りそういった場面も避けられないことが多く、だが目の前の赤司征十郎という人間がまさか人格を無くしているとは知るはずもないので疑われることもなく。聞き手に周り情報を引き出したり、話題を自然と変えたりすることでその状況を打開してきたが、それには大なり小なり心労がかかるものであった。今では情報として聞き、多くの”思い出”に話を合わせることは出来るがやはり全てを網羅することなど出来やしない。

「昔のお前はどこへ行ってしまったのだ」

 時折こうやって、緑間はオレに自分が感じた違和感をぶつけるように質問をする。その違和感は間違いの無い感情だからあまり悩む必要など無い、などとオレ自身が言えるはずもなく。

「緑間。お前は何を言っているんだ?オレはオレだ。それが変わらない以上、何も問題は無いじゃないか。価値観なんて、時間が過ぎれば変わりもするだろう」
「オレが言いたいのは、そういう事ではないのだよ」
「では、どんな事だと言うのだよ」

 オレがクスリと笑ったのが気に入らなかったのかそれとも明確な答えがないのか、緑間は普段の3倍は濃いであろう皺を眉間の間に作って黙り込んでしまった。そんな生真面目な顔がオレは好きだ。そして、恐くオレは緑間が出せずにいるその答えを知っている。
 昔のお前はどこへ行ってしまったのかだって?そんなものは消えてしまったさ。




 だからオレを見てくれ。とでも言えばいいのか?

「言えるはずが無いだろう……」

 最近胸のあたりが苦しくなる時がある。どうやら緑間と対峙をしたときに多くそうなるようだ。
 黒子が訝しげに振り向き、オレは考えが口に出ていたことに気付いた。探るような視線は無視し、ぐぐっと黒子の背中を押す。苦しげに呻いてはいるが、日々のストレッチのお陰で少しずつだが体が柔らかくなってきているようだ。
 先日見つけたこの黒子という人物、中々面白い資質を持っているようなので基礎練習以外に個人メニューを与え、いずれは試合でも使うつもりでいる。そうすれば試合の中で取れる行動パターンが増え、より一層このバスケ部を勝利へ導くことに貢献ができる。

「人間は自己肯定が出来ないと上手く自分を保つことが出来ず、自信が持てないらしい」
「それは、赤司君の、口から一番出てはいけ、ないものだと思います……イタタタタ!」
「ほーう、黒子にはオレが自信満々な人間に見えるようだな。まだ固い。風呂上りにストレッチはしているか」
「し、しています!というか実際、その通りでしょう……」
「今日から5分延長すること。……そう思うならオレの言うこともちゃんと聞けるな。ヘバってないで外周10周、行ってこい」

 黒子を送り出し、他の部員にも声をかけ、自分のメニューを開始する。その間に何度か緑間がこちらに視線を寄越していたが、全て無視をした。




 緑間が、オレに向かってくるのはきっと過去に同じ思い出を共有したからだ。そして、同じ部活に所属をした偶然もあるだろうが、他の人間と違い離れていこうとしないのは、きっと前のオレに対して何か思うところがずっとあるからなのだろう。
 無駄な話などなく、オレの意思を汲み、たまに思いもよらない事を言い、寄り添うように隣にいるお前。オレはそんなお前が心地よく、お前との時間は楽しいものなんだ。

「―――を覚えているか」
「また随分と前のことを持ち出すな」

 だからオレの知らないオレとの思い出をその口に出したときのオレの気持ちは。

「あの時は本当に驚いたからな。それに比べ本当に可愛げが無くなったな、赤司」
「あれから何年経ってると思っているんだ。お前も昔は出来なかった皮肉が今じゃ板についてきたじゃないか……お前は今でも可愛いがな?」
「そういうことを言うな!」

 なぁ緑間。お前がオレに向ける、その射殺してきそうなほどの、あつい視線も。仕方がない、と文句を言いつつも最後にはオレの言うことをちゃんと聞くところも。何度も何度も将棋の挑戦に来るのも。
 全部、全部、全部全部全部全部全部全部全部全部、前のオレに向けられたものなのだろう?前のオレとの思い出があるから、今のオレにもそれを向けてくれるのだろう?お前が好きなのは、殺したいと思っているのは前のオレなのだろう?
 オレはお前の視線を受けるたびに体が熱くなり、反対に心が芯まで冷たくなるんだ。
 緑間。オレはお前には負けてはやらないよ。お前がオレに勝って、それでお前がオレを見てくれるというのか?そうではないのだろう?お前が勝ちたいのは、今までお前を負かしていた前のオレで、執着しているのも前のオレで。前のオレに勝ったお前は今のオレを見てくれるのか?オレはそれが恐ろしい。お前が執着しているオレがいなくなった瞬間に、オレはオレでいられなくなるのではないのかと思えてならないんだ。だから、お前には負けられないんだ。絶対に。負けた瞬間に、オレの中の何かが死んでしまうんだ。
 オレは少し前、緑間に向かって敗北を知らないと言ったことがある。だがあれは正確に言うと少し嘘だ。他人には負けたことがないのは事実だ。だが、オレはオレに勝てる気がしない。同じ能力を持ち、同じ体で、同じ声で、全部同じなのに。何故か少しも勝てる気がしないのだよ。
 赤司征十郎。お前はオレであり、お前がオレであるはずなんだ。なのにどうしてこんなにも胸を掻き毟りたくなるんだ?お前を目指せば、オレはお前になれるのか?オレはお前になれているのか?なれているはずなんだ。だがどうしてだ。どうしてピアノの時といい、緑間といい、オレがオレじゃないと、そのことに気付くんだ。オレはオレだろう?人間が個人の人間であるために大切な何か、オレが失ったのはそういうものなのか?そうだとしたら、オレは一体、どうすればいいんだ。
 緑間。緑間緑間。



 お前は 今の オレを ×× に なって くれないのか ?



 これ以上間違うわけにはいかない。どうしようもない部分でオレは間違ってるとしたら、どうしてもそれは正しさで補わなければならないのだ。幸いなことに、オレが普段していた行動、それは結果として全て正しかった。だがそれだけでは駄目だ。オレのその能力は前のオレのものでもあった。オレは前のオレを超えなくてはならない。これからは以前以上に、しっかりとどの道を選ぶかを考えなくてはならない。
 きっとオレは人格を無くしてしまったとき、一緒に大事な何かも無くしていたのだ。それは果たして前のオレはしっかりと持っていたものかは分からない。緑間。お前がオレに向けているようなもの、オレが無くしてしまったのはそういうものなのかな。それとも、オレがお前に向けるこの感情が、なくしたと思っているソレなのだろうか。
 勝利はオレを支え続けてくれる。たとえ何度人格を失おうとも、この能力で勝ち続けることでオレはオレをオレと認めることができて、周りの人間もオレをオレと認知して、それが絶対のものとなるだろう。今度こそオレは自分を失わない。勝つことで自分自身をようやく肯定することが出来る。緑間、本当はお前にそれを一番認めて欲しいんだと、オレはずっと。

「王手」
「〜〜〜!もう一局だ!」
「まだやるのか?」
「お前の敗北を知らないだなんてふざけた言い分はオレが言えなくしてやるのだよ!」
「……ふっ」
「すぐに笑えなくしてやるのだよ、準備しろ!」

 お前は馬鹿だな。オレが笑っているように見えたのなら、これからもそう見せよう。オレが隠していた部分を簡単に見つけることが出来たくせに、変なところで外すよな。
 お前はオレが勝ち続けても、それでも駄目なのか?まだオレを認めてくれないのか。そうか、分かったさ。オレがお前に負けたとき、ようやく認めることにしよう。だからその時が来るまで、オレはお前の前に立ち続ける。

「赤司?」
「どうした、緑間」
「……赤司?」
「赤司だが?」
「……お前は誰だ?」

 きっと今、すごく上手に笑えているはずだ。

「何を言っているんだ。僕は赤司。赤司征十郎だ」

 まったくもって、至極簡単な話だろう?



【絶対に越えられない・越えてはいけない・越えられてはいけない壁のはなし】

 ――そうして彼らは、互いの心など知らずに、より躍起になるのです。

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