【本文より抜粋】 それから一週間と一日経った、金曜日の夜のこと。 無事に外泊の了承を得た椿は、安形の新居へとやって来た。 椿の住む町からは、小一時間ほどで、一度だけ電車を乗り継いだ。まずははじめの週末だ。椿は家を出る前に一度深呼吸して、途中何度かため息を吐いた。自分は緊張しているのだと、思い知らされているようで居心地が悪い。それでも会えることが単純に嬉しくて、一緒にすごせる時間が長くなることも複雑ながらも嬉しいことには変わりない。 駅まで迎えに来ていた安形に付いて、彼の家に向かう。降りた駅からほど近い学生マンションで、辺りは割と静かであった。あまりきょろきょろしては、落ち着きなく思われるかもしれない。できるだけ、椿は真っ直ぐ前を見るように心がけた。新しい街に、どこか浮足立った気分だ。 マンションに到着し、エレベーターで五階まで上がって、一番隅の部屋。どうぞ、と安形がドアを開く。 「あ……おじゃまします」 「……んな、かしこまらなくていーって」 だらしなく笑って、安形は靴を脱いで部屋へと上がった。 椿も同じようにして部屋へ入ると、新居の匂いが鼻先を掠めた。新しい家具や壁の匂い。自分の知らない場所で、安形の新しい生活が始まっていることは、距離を感じるようで少しだけ寂しい。 「……どうせ二人だけなんだし、好きに使えよ」 「……!」 そんな感傷に気をとられていると、安形が更に追い打ちをかけるようなことを言う。何気なく言われた言葉でもどこか甘く感じられるのは、自分がおかしいのだろうか。 「あれ?余計緊張した?」 振り返って、また笑った。図星だとわかっているのだろう、それ以上は何も言われない。いつもと変わらない安形にほっとしつつも、まだとけない緊張を椿はどうすればいいのか持て余したままだった。 短い廊下を通って、擦りガラスのドアを開けると生活感のあるスペースが目の前に広がった。正面が大きな窓だったので、朝は明るいだろうと思う。その窓に面してベッドが置かれていた。あとは以前の安形の部屋に置かれていたような棚や、低いテーブルや家電製品などが並んでいた。片付いていると先日言ったのは嘘ではなかったようで、整理整頓されている。 じろじろ見るのも失礼かもしれないと、椿は通された部屋でしばらく直立不動だった。安形は荷物をベッドの上へ放り、その横に腰を掛けていた。以前、何回か彼の部屋を訪れた時もそうしていたので定位置なのだろう。 「お前も適当に座って」 「あっ、はい」 適当に、と言われてもどこが一番良いのかわからず、ベッドの前を三往復ほどしてから安形の横に腰掛けた。何度もこうして横に並んで座ったことはあるのに、新しい部屋のせいなのかやっぱり落ち着かない。椿は膝の上に乗せた手をぎゅっと握った。 「……結局隣に座るのかよ」 椿が緊張していることは、安形から見れば明らかなのだろう。呆れたような―面白がっているようにもとれる声色で、隣に座った椿を宥めた。 「あの、そういえば、入学式はどうでしたか?」 何か話さなくてはいけないと、椿は率先して話題を振った。安形はつい先日大学の入学式を終えたばかりだった。 「眠たかった」 「また、そんな……」 「……もともと式典は苦手なんだよ。それより椿は?今日も生徒会?」 椿も、来週から始まる新学期に向けて忙しい日々を送っていた。今日も野暮用で一度開盟学園へ行ったその帰りなのである。 「はい、新入生も入って来て、これから忙しくなりますから」 「……そういや、着替えとか持ってきたのか?その荷物……なんか小旅行みてーだけど」 「はい、持ってきました」 さすがに制服のままいるわけにもいかない。それに一日過ごすとなると、衣類の他にも色々と入るものがある。そう思って昨晩きちんと用意をしたのだ。少し荷物が大きくなってしまったが、安形に迷惑をかけるよりは良いだろう。 「普段の洋服と、あとパジャマもあります」 「パジャマ?そんなんオレの着ればいいだろ。旅行じゃねーんだし」 「会長の服……?」 「おう。オレの服」 「!?」 ――服を借りれば、クリーニングか、最低限洗濯をしてアイロンをあててから返さなければならない。でもここは会長の家であり洗濯もできる。それならわざわざ持ち帰る方が不自然のような気もする……でも借りたくせにその服を会長に洗濯させるなんて厚かましい。それなのに何で会長はそんなことを言うのだろう。 頭の中でぐるぐると謎が渦巻く。 まったく予想外のことを言われてしまい、椿の頭は混乱していた。はじめから服を借りるといった発想なんてどこにもなかったのだ。 「……なんか、本当におもしれーな」 「面白い……??」 安形の言葉が何を指しているのか、見当がつかない。たまに独り言のように、椿の言動に対して安形が呟くことがある。いつもそれにどう答えて良いかわからなくて、椿はまた今も小首傾げることしかできない。そんな椿を、安形がじっと凝視する。 「な、なんですか?」 安形のいつになく精悍な目つきに、椿は息を飲んだ。このままだと吸い込まれてしまいそうだと、そんな錯覚さえ覚えた。――この雰囲気を知っている。いつもの二人の間を流れる空気が、少しだけ変わる時だ。 次第にその輪郭がぼやけて、顔と顔の距離が無くなっていく。次の瞬間にはもう瞼を閉じていた。 唇に、あたたかくて柔らかいものが触れる。今まで何度もそうされた事があったけれど、その度にこんなに優しい感触があるのだということをいつも思い出していた。胸のずっと奥から、身体じゅうに染みわたってくるような不思議な感覚だった。 ほんの一秒で、椿の思考も動きもストップさせてしまう。もどかしい距離と時間を、安形はこんなにも簡単に埋めてしまうのだ。 2011.10.23発行予定 |