【本文より抜粋】 「キリ」 名前を呼ばれてはっとする。気付けばまたわけのわからないことを考えていた。希里は登校中、いつもと変わらず椿のうしろを歩き、そこから見える景色――椿の後ろ姿を含める――を清々しく眺めていたのだ。 眺めていた、はずだった。 「どう思う?これはボク一人で決めていいものだろうか……」 「……えっ、と……」 椿は希里に意見を求めている。しかし、その内容がまったくわからない。話題としていたものがまるで思い出せなくて、すっぽりと自分の頭の中から抜けている。これほどまでに上の空、という言葉がぴったりときた瞬間は今までにない。 「……?聞いていなかったのか?」 「すいません」 素直に謝ると、椿はふっと口元をゆるめて、立ち止まった希里に向き直った。そして、 「まだ寝ぼけているんじゃないか?ボクも、寒いから最近は起きるのに時間がかかる」 と優しく言った。 「……そうかもしれません」 怒っていないことに安心をして、もう一度椿が最初から話し始めるのを、今度は聞き逃さないよう真面目に聞く。話題は来週に執り行われる、各学年の学級委員長等が集まる全体会議についてだった。 椿はちらちらとこちらを見ながら、希里にその議題の取り決めについて説明をする。 彼に仕えると決めてから、出来る限りこうしてずっと側にいた。それは生徒会の実務中、登下校の時間、その他隙を見つけては椿の護衛に勤しんだ。 つまり、二人でいる時間はおのずと増えたことになる。 だから、あんなに夢を見るのだろうか。 「……で、どうだろう?ボクが段取りなどを先に決めても良いものか……」 「あっ……ええ、会長お一人で決めても問題はないかと……もしご心配なら他の面々にも聞いてみては……」 だめだ。今朝見た夢のことは、忘れなければ――。 希里はまた自然に『それ』に向かっていく思考を、頭の中で振り切って考えないように努める。 これからまた長い一日が始まるのだ。この一日の始まりである朝に、気を引き締めておかなければならない。 「そうだな。今日、さっそく聞いてみることにする。ありがとう」 「いえ」 そして真っ直ぐ前を向いた椿の、きれいな形の後頭部を目にして、希里はまたどきりとした。思わず、自分の右手を見遣る。冬なのに汗が滲んでいる気がした。 ――最近、夢見が悪い。 悪い、というよりは見る夢の内容が若干おかしいのだ。椿の話を聞き逃したのも、つい三時間ほど前に見た夢のせいだった。 * * * 「……またか」 アラームの鳴る前に起きるのは習慣だった。でも、さすがにこの時間は早すぎる。冬の午前五時前は、早朝とは呼べない。障子の外は暗くて太陽はまだ昇ってもいなかった。部屋の中は眠る前と同じ薄暗いままだ。 希里は布団から半身を起こし、溜息を吐いた。 彼と一緒に過ごすようになってから度々、椿の夢を見た。それは普段、自分が椿のことをよく観察しているから、当たり前のことなのかもしれない。夢は記憶の整理だと聞く。日々の生活の中で、印象に残った数々の情報を眠っているあいだに脳の引き出しが開いて、整理をはじめるらしい。だとしたら、希里の中でもっとも長く見ている人物は椿以外にいないし、尊敬する彼が頻繁に夢に出てくるのも別におかしくはないだろう。 でも、さっきの夢の中で、自分は椿に触れていた。 確かに、椿の髪や頭に触りたいと思ったことは何度かある。ただそれにやましい気持ちはない――はずで、現実世界で衝動的にそうすることはなかった。 とは言え、実際に夢とはそんなものだ。あり得ないことをあたかも普通にやってのけている。だから、夢の中で椿に触れるくらい、どうということはない。――それだけならまだ、いい。 なんとも解せないのは、椿と自分の距離が段々と近づいていっていることだった。先週は確か、まだ後ろから見ているだけだったはずだ。いつもの立ち位置から、彼を眺めているだけだった。 それより前は、もっと遠くから椿の背中を見ていた。何度か見るうちに、どんどんその背中が近づいてきて、そして今日ついに、彼の頭をこの右手が撫でたのだ。柔らかな髪の感触は、まるで本当に触っているようなリアルなものだった。 いくらなんでも、こんなに順序良く進む夢なんて聞いたことがない。 果たしてこれは自分の欲求のせいなのだろうか?毎日あんなに近くにいるのに、眠っている間も椿の側にいたいという思いと勝手な欲が混ざって、夢の中で実現させているだけなのか。 考えれば考えるほどわからなくなって、希里はもう一度布団の上で仰向けに寝転んだ。 そして、右手をかざして呟く。 「……できればこれで最後にしてくれ」 目覚めるにはまだ早い。あと少し睡眠をとって、なんとしてもすっきりとした目覚めで学校へ行きたかった。目を閉じると、椿の顔が瞼の裏に浮かんだ。不意打ちに驚いて希里は目を開けた。 結局こんなことの繰り返しで、よく眠れないまま朝を迎えたのである。 * * * 「……キリ!そっちへ行けば正門を通り過ぎるぞ!」 「あっ、ハイ!」 椿に引きとめられて希里は慌てて引き返す。また悶々と考えているうちに、今度は校門を行き過ぎてしまうところだったらしい。 「やっぱりオレ、寝ぼけてるみたいです」 椿にいらぬ心配をさせてはいけないと、希里は都合の良い言い訳でその場を凌ぐ。 「そうか……睡眠は大事だぞ」 当の本人からそう言われては返す言葉が無い。 最近の自分は、忍者としても人間としても欠陥がありすぎる。そんな夢くらいで動揺しては、今までの修行はいったいなんだったのだろうか。そんなことさえ思ってしまうくらいに、このところ自分はおかしい。そんな思いを掻き消すように、希里は足早に自分の教室へと向かった。 2011.8.21発行予定 |