例えば、その人差し指がゆうべは自分の身体の何処にあったとか、唇はどんな言葉をささやいて、見つめた眼が持つ熱っぽさはどのくらいだったか、なんて、それは他の人間はまったく知らないわけで。そういったすべてが自分と、その相手しか知らない事実であることが、嬉しくてたまらなくなったり、切なくてしかたなかったりするのだ。これがきっと恋愛なのだと思う。 「つ、ば、き」 いつもの名前を呼ぶ感じとは少し違って、意図的に途切れさせたその安形の声で、椿はしばしのまどろみから目覚めた。 「……なんですか?あっ、もう……あれ?朝!?」 「何寝ぼけてんだよ、起きたか?」 安形のベッドの上で、彼に後ろから抱きすくめられている。耳元で聞こえた自分の名前に、意識を呼び戻されてようやく気付いた。自分はうたた寝をしていたのだ。時間は朝、などではなく夕刻に近かった。もちろん日付は変わっておらず、安形の家に来てから数時間ほどしか経っていない。 心地よい暖かさと、疲労感の中で気付けば目を閉じていたらしかった。――あの行為の後で。 「……寝てもいいけど、この格好じゃ風邪ひくぞ」 「あっ……」 指摘されて急に恥ずかしくなった。布団にくるまれてはいたけれど、その下はお互い裸なのだ。 「そろそろ皆帰ってきそうだし、服着なきゃな」 安形にそう言われたので、椿が布団から出ようと身じろぎする。だが、それは叶わなかった。布団の中の身体は安形にがっちりと抱きしめられていて、まだ離すつもりはないらしい。諦めて、椿はおとなしくしていることにした。 「どうする、メシ、食ってく?」 「あ……いえ、お誘いは嬉しいのですが、家には言っていないので……」 「そっか、また今度な」 他愛もない会話のなかで、不意に、胸元に寄せられた安形の腕の感触にどきりとした。それだけでなく、背中全体に安形の素肌の感触があり、脚は淫らに絡まっているし、振り向けばすぐそこに唇があるのだ。耳にかかる吐息がくすぐったくて、意識すればするほど緊張で動けなくなる。椿は完全に固まってしまった。 「はい、ぜひお願いします……」 しどろもどろに答えて、終わってしまった会話にどうしようかと戸惑った。もし今、向かい合わせだったなら、この焦った表情を見て盛大にからかわれていただろう。 「お前、なに緊張してんの?」 その声は甘さを帯びていて、少しだけ意地悪い。顔を見なくても、椿が焦っていることなどお見通しのようで、安形は面白がるようにそう言った。 「別になんでも……」 「……ふーん」 余裕のある安形の返事に、椿はまた言いよどんでしまう。ひとつのベッドでこうしているだけで、まるでいつもと違う世界にいるようだった。交わされる会話や触れる温度が、日常とは違っている。 椿にはよくわからない感覚だった。今までこの感情を知らなかったのだから、当たり前だと思う。 「……椿」 名前を呼ばれて、その吐息がうなじに微かに触れる。背筋がぞくりとして、その寒気にまた服を着ていないことを思い知らされた。 「あ、会長、服……」 安形の顔を見ないまま、今度こそここから脱出しようと試みた。もぞもぞと肩や腕を動かしてみたが、安形は依然として椿を逃がさないように捕まえている。 「……まぁあと少しだけ、このままでいっか」 耳元でそう聞こえたかと思えば、肩口にキスをされた。わずかに聞こえたその音に、顔や身体が一気に熱くなる。思わず声があがりそうになったのを、寸でのところでこらえた。 こんなことをした後で、彼の家族とまともに食事なんてできるはずがなかった。 誰もこのことを知らないけれど、確かにこの時間は自分のなかに存在している。それだけのことが、まだ椿には信じられず、どこか夢のような心地だった。 2011.5.26 |