耽溺 | ナノ


 



 知っていた。
 そこまで馬鹿じゃなかった。触れてしまえばそれで終わりだと、いつも言い聞かせていた。



 いつも定例会議が終わった後の生徒会室には、特に仕事が無い限り生徒会長以外は居残っていない。飴色の部屋の中で、黙々と続けられる作業を手伝うこともせず、希里はただ椿の横に立っている。必要とされていないのもわかっているので、横から口を出すのも躊躇われた。
 たまに、椿は希里を気遣って声をかけてくれる。でも返す言葉なんてなかった。さっきも椿はずっと無言のままの希里に、もう帰ってもいい、と労うように言ってくれたのだ。でも、希里は肯定とも否定ともとれない曖昧な返事を答えた。
 少しでも会話をすれば、取り返しのつかないことを言ってしまいそうで怖い。傍にいられるだけで良いと、そう純粋に思っていた時期はとうに過ぎ去っていた。いつからか、椿に欲情して、普通なら異性に抱くような感情を抱いていた。
 自分の心の底には、汚い思いが焦げ付いている。それに気付きながらもずっと、無い事のように気持ちを抑えつけていた。知らないふりが得意になって、嘘ばかりが増えていく。二人きりの時間は嬉しくても、希里を苦しめていた。椿の頬に飾りのように落ちた睫毛の影を、ぼんやり眺めるのもいつしかその苦しみの一部になっていた。
 幸福だけれど、手が届かないのが辛い。感情に飲み込まれて、この手が彼に触れてしまうことを恐れながらも、それを待ち望んでいる自分も確かに存在するのだ。
 希里は、少しだけ俯いて椿の手元を見た。真っ直ぐな指がペンを握り、迷うことなく筆を走らせている。白い爪先さえとても色っぽく、それがもし自分の背中に食い込むような間違いがあれば――と想像すれば、身体が熱くなった。
「キリ……?」
 急にこちらを振り向かれて、強い眼差しに射抜かれる。椿の口から聞いた名前は、自分の名前ではないような不思議な感覚がする。まるで自分を突き動かす魔法のような、そんな感じさえするのだ。
「どうしたんだ?」
 まさかそんな不純なことを考えているなんて言えるわけもなく、椿の問い掛けにも口籠ってしまった。
「……ずっと立っていなくても、座ってくれてもいいのだが」
 その優しい目がいけない。
 いつも厳しく真面目な彼が、たまに自分に見せるその双眸が、少しの隙だとわかったのは幸か不幸か。すっかり気を許していることが嬉しいのに複雑な気分だった。そんな隙を見せれば、手を伸ばしたくなるだけなのに。
「会長」
「?」
 希里が椿を呼ぶと、その大きな瞳がこちらを見上げた。小首を傾げる仕草が幼くて、少しだけ笑いそうになってしまう。自分より背が低く、端正でどこかあどけない顔はとても可愛いと思った。年上でしかも会長という立場なのに、いじらしくて仕方がない。
「キリ」
 形の良い唇が再度そう動いた。その唇に口づけて歯列を割って、舌を捩じ込んだらどんな反応をするだろう。めちゃくちゃにして、自分なしではいられないような身体にしてみたい。芽生えているのはどうしようもなく非道な欲望で、椿を見ていると頭の中がそればかりになってしまう。
 それを握り潰すように拳にぐっと力を入れたのに、希里は勝手に伸びてしまう手に戸惑う。
 いけない、だめだ。
 わかっているのに、距離が近すぎて簡単に触れてしまう。椿は状況を飲み込めていないようで、希里の手の動きをじっと目で追っていた。
「佐介様」
 そうやって名前で呼んで、椿の肩口に顔を埋めた。自分の吐息が椿の耳を撫ぜると、腕の中で少しだけ身じろいだ。そのまま椅子から立ち上がらせて、抱き寄せた。
「……離せ、加藤」
 落ち着いた低い声にわずかに怒気が含まれている。名字で呼んだのは彼なりの威嚇だろうか。
 もっと慌てて抵抗するかと思ったのに意外だった。二人しかいない生徒会室に、静かに流れていた空気は張り詰めて、少しの物音すら立てられないような緊張感で満たされている。
「……佐介」
 可愛い彼の後頭部を撫で、耳元で小さくもう一度名前を呼ぶ。驚いたように椿の身体が強張った。きっと困惑した表情を浮かべているに違いない。いつも心の中で呼んでいたのに、いざ口に出してみると声が掠れてうまくいかなかった。
 抱きしめると椿の身体は案外細く、でも筋肉のしなやかな弾力が心地よかった。ひっついた身体が熱くて、ブレザーの裾から手を入れてシャツ越しに背骨をなぞる。ゆるやかな曲線を帯びたその浅い窪みに、希里の無骨な指が行き来した。
「ちょっと……待て!さ、わるな……!」
 普段そう命令されれば逆らうことはしないのに、今は違った。さわるな、という言葉を無視して、そのままするりと手のひらを滑らせる。腰のあたりを撫でると椿の背が嫌がるように仰け反った。
「……すみません」
 卑怯な手口だとわかっている。椿も力は強かったが、希里の比ではない。覆いかぶさるようにして、押さえつけて逃げ場をなくす。それでも椿がもっと激しく抵抗すれば、手を止めることができたかもしれない。殴られれば目が醒めて、半分失われた理性を取り戻すことだってできたのかもしれない。
 がたん、と大きな音を立て、希里は椿の身体を組み敷いた。上半身を机の上に押し倒すような格好で、見下ろした椿の顔は自分の影でよく見えない。
 さっきまで丁寧に処理されていた書類が、床に散らばる。ペンが落ちて遠くへ転がっていく音がした。
「……離せと言ったはずだ」
 わざと答えずに、椿の唇を塞ぐ。
「……ん……っ?!」
 無理矢理舌をいれて、舌を絡ませる。口蓋を擽るようになぞれば、椿の身体が時折反応するのが嬉しくて夢中になった。
 自分は正しいキスを知らない。でも、舌が急くように椿の口内を巡り、絡ませたそれには自然に力が入っていた。飲み込めなかった唾液が椿の口もとから流れて、頬や顎を汚した。てらてらと光るそれは自分のものか椿のものかわからない。
「ん……、  っ ふ……あ」
 唇を離すと、椿のだらしなく開いた口から赤い舌がちらりと見えた。さっきまで散々吸いつくしたそれが、艶めかしく光っていて思わず親指を口内に差し込んだ。親指の腹で舌を押さえる。椿の乱れた息が、直接感じることができて興奮した。
「っ……」
 そのまま指を抜き、唇についた唾液を拭ってやる。
「……これで貴様の気がすむのか」
 貴様、と呼ばれたことにぞくりとした。嫌では無い。椿の蔑むようなその目も同時に好きだった。もっと、色んな顔が見たい。最低だと罵られても良かったし、困らせて泣かせてしまうのも良い。
 何も言わない希里を見て、諦めたように椿は目を伏せる。長く伸びた睫毛がきれいだった。思わず瞼にキスをする。その拍子に、あっ、と小さな声が椿の口から漏れた。
 こんなのは彼らしくない。椿なら自分を蹴飛ばしてでも、殴りつけてでもこの場から逃れるに違いないと思っていたのだ。それなのに、拒否をせずに受け入れたのは、かわいそうだ、と思われたからなのだろうか。
「        」
 言いたかった言葉がどこにも見つからない。もっと伝えたいことがあったはずなのに、言葉が出てこない。かわりに、椿の首に唇を寄せて優しく舐めた。あれだけこうしたいと望んでいて、こんなに嬉しい事はないはずなのに、とても悲しい。
 椿は希里の背に手を回さなかった。わずかに抵抗するように腕を掴まれただけだった。恐ろしく強く、美しく、彼は自分に決して溺れない。
 そんなことは知っていた。


 それでも手を伸ばして触れて、味わって、どうしようもなく欲しかった。




2011.5.10
2011.5.8 CC大阪84無料配布





「#ファンタジー」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -