11:ちくちく鈍痛【後編】 | ナノ




 会議に使ったプリントをまとめて、ファイリングをする。乾いた紙の音が、一人きりの部屋ではやけに大きく響いていた。定例会議を終えて、皆はすでに帰った後だった。
 椿はすっかりと夕暮れ時の窓の外を見ながら、そろそろ帰る支度をしなければならないと思いつつも、思考のほとんどはある一つのことに支配されていた。本当はもっと整理したい書類や片付けだってあるのだけれど、あまり遅くまで居残ってはいられない。今日は、帰宅して安形に電話しようと思っていたのだ。
 昼休みに安形と顔を合わせてから、なんとなくいつもと違ったような様子に違和感を覚えていた。自分の思い過ごしかもしれないけれど、二人の間に流れていた空気はなんとも形容し難い雰囲気だった。入試の時期で疲れているのか、はたまた自分がなにかしてしまったか。椿は考え付く範囲で思い巡らせてみたが、いまいちピンとくるものがなかったのである。
 とりあえず今日はメールではなくて、自分から電話をしてみよう。そう考えながら机の上を片す。
 そうして、鞄に直そうとペンケースとノートに手をかけたところだった。
「ちょっと失礼」
 こんな時間に訪問者とは珍しい。
 と、扉の開く音に驚いたのも束の間、その聞き慣れた声に椿は思わず椅子から立ち上がった。今の今まで思い描いていた人物が目の前に現れたのだ。
「会長?!」
 昼に顔を合わせたばかりだったが、今日はまたどういう風の吹き回しだろうか。安形は扉から顔を覗かせ、椿がいることを確認すると部屋のなかへ入って来た。
「時間的にお前いるかと思ってさァ。面談だったんだよ」
 進路の、と付け加えて安形は帰り支度をしている椿の横に立つ。なるほど、ついでに寄ってくれたのかと素直に嬉しく思った。安形が引退してから、以前より顔を合わす回数が少なくなったのは確かだ。
「そうなんですか。お疲れ様です……あ、今帰る用意をしてました」
「そっか。ちょうどだったな」
「会長、その、大丈夫でしょうか?なんだか疲れがたまっているような……昼に会ったときも思ったんですけど」
 今は大事な入試の時期だし、きっと疲れているに違いない。いつもぐうたらしていた安形だったが、見せないだけできっと努力も怠ってないのだろう。気遣う気持ちがうまく言葉にならなくてもどかしい。
「そうか?……まあ疲れてるっつーか、なんつーか」
 安形は椿の言葉に少しだけ考えるような素振りを見せて、「……昼、行くべきじゃなかったなーと思って」と呟くように言った。
「昼?ですか?」
 的外れなことを返されて、椿はそのままオウム返しをしてしまいそうだった。口調におかしなところはなかったけれど、その顔が少しだけ翳って見えたのは、外の日が落ちたせいか。わずかな変化を見過ごすことのないように、椿は安形の表情を伺い見てもその真意はやっぱり読めない。
「うん。昼休み、お前の顔見に行った」
「ボクの?」
 何しに来たのか。それも疑問だったが、あっさりと答えをくれた安形に――そしてその答えに椿は驚く。
「そしたらお前、藤崎と楽しそうにしてんだもん」
「え……?」
 断片的に紡がれ吐露された心情を、椿にはうまく理解できなかった。というより、安形の口からそんないじけたような言葉を聞いたことがない。いったい何と答えるべきなのだろう。藤崎と楽しそうにしていたなんて、いつもあんな感じだと自分では思っているし特別なことではない。
「行かねぇほうがよかったかって」
 どこか声色に怒気を含んでいることに、胸がざわついた。やっぱり気付かないうちに何かしていたのだろうか。――でも、何も思い当たることはない。
「……それに椿の顔見ると、触りたくなるし」
 伸ばされた安形の腕が、椿の肩を包む。
 ぐっと肩を引き寄せられて、耳にかかる吐息に心臓がはねあがった。色めいて熱を帯びた吐息が、耳元から首筋をくすぐるように吹きかけられ、唇が肌に触れるか触れないかぎりぎりの距離で甘い言葉が囁かれる。
 ぞわりと肌が粟立って、すぐそこまで安形の唇が近づいていることに身体じゅうが緊張した。
 昼間見せた顔――皆の前での顔と、二人きりのときに見せる顔があまりにも違いすぎていつも戸惑う。あまりにも親密で、まだ曖昧な関係が時々怖くなる。けれどこんなふうにされるのは嫌ではなかった。でも、安形の言動は椿にとって分りにくくて、それが本当なのか冗談なのかも確かめる術を知らなかった。――彼は、本当は何が言いたいのだろう。こんなふうに安形に流されて、うやむやになることもよくあった。けれど椿はどうしていいのかわからないのだ。
「本当に、会長、どうしちゃっ…… ん、っ」
 つうっと耳の裏を優しく舐められて、言おうとしていた言葉が遮られてしまう。敏感に反応することを知っていてそうするのは卑怯だ。
「う、あ、……っん」
 耳朶を甘噛みしてから、柔い舌先でちろりと舐め上げられる。
「ん、あ…会長、や め… っ」
 頭に血が上って、安形に支えられていなければ立っていられない。
 ぬるぬると耳の中に捻じ込まれる濡れた舌が、卑猥な音をたてている。そのダイレクトに伝わる音に羞恥は煽られ、むず痒いような気持ち良さに椿の身体は力が抜けていく。
 気を抜けばもっと出そうになる声を、無理矢理口をふさいで抑える。それでも安形は悪戯に舌を動かして反応を楽しんでいるように思えた。
「んっ、 ん …っ」
「……って、からかいすぎか。悪ィな」
 椿の火照った顔を見て、安形は唇を耳から離して一応謝ってみせる。
 心臓は早鐘を打ち、正常といえない身体の反応が恥ずかしさにさらに追い打ちをかけた。机に手をついて、椿は呼吸を整える。
「っは……」
 ようやく落ち着いて、安形を睨みつける。
「……会長、今日はどうしたんですか?なんとなく、おかしいです」
 藤崎と話すことの、何がいけなかったというのだろう。自分でも気づかないうちに何かしてしまったのなら、それを言ってくれれば謝ることもできるのに。
「別にどうもしないって」
 こうして誤魔化されては、納得がいかなかった。
 一応安形のことを気遣っているのに、はぐらかすようなその態度に椿は若干苛立っていた。安形はそれを察したのか、それとも諦めたのか、黙りこんでしまった椿を見て気まずそうに口を開いた。
「……妬いてるだけ」
 予想外の言葉にしばらく思考が停止する。安形が本音――というよりも自分の感情を素直に言うことはめずらしかった。聞いたのは自分だったが、その言葉は椿を困らせた。
 会長が、ヤキモチ?
 似合わなさ過ぎて、何と言えばいいかわからない。椿はぽかんとしてしまった。しかも、藤崎と話していただけという、そんな些細なことで。
「えっと、妬くって……いうのは、」
「さー、帰るか」
 もしかして照れている、のだろうか。さっきから全然こちら側を向かない。
 それどころか後を向いて安形は扉の方へ向かってしまった。慌てて椿も鞄を肩にかける。
 嫉妬の類なんて、安形には無縁だと思っていたのだ。いつも飄々として、自分をからかって――そんな余裕が見えたし、考えたこともなかった。
「藤崎とボクは一応兄弟なんですから、別に……その、平気ですよ?」
「……お前って本気で鈍いよな」
「さっきから、会長の言っていることがわからないです」
 戸締りをして、部屋を出れば誰もいない廊下が広がる。薄暗くて寒くて、昼間とは大違いだ。
 椿は安形の背を見ながら、昼休みのことを少しだけ思い出した。あの微妙な空気がヤキモチのせいだったなんて、決して思いつかなかった。
「ま、いいか。わかんなくて」
 そう言うと安形は諦めたように溜息を吐いた。寒さに白む吐息が、ついさっきまで自分の耳元にあったことを思うとまた胸が高鳴る。
「椿、おいで」
 そう言って差し出された手を拒むことなど出来ない。
 椿は少しだけ戸惑って、安形の手に自分のそれを絡ませた。繋いだ手が強く握られたことを嬉しいと思う。ようやくこちらを向いたその顔は、優しく微笑んでいる。
 自分の思っているよりも、彼は素直なのかもしれない。安形の横顔を視界の端でとらえながら、椿はそんなことを考えていた。



≪終≫



2011.3.25



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