Memento | ナノ




 水曜日。
 一週間の中で、折り返し地点のその日がどれだけ意味があるのかをよく知っていた。
 週末へむかっていく楽しみと、やっと週の真ん中まできたという、そんな喜びを持っている人は多いのだろう。けれど椿にとっての水曜日の意味は、それではなかった。その日は、一週間の中でもっとも特別なのだ。
 厳密に言えば、もっとも特別『だった』のだ。


 三年生が卒業したあとの校内は、どこかがらんとしているようで寂しい。三月になって大分と寒さは和らいだが、人の居ない廊下に吹き抜ける風はまだ冷たかった。
 椿はひとり生徒会室のドアの前に立っていた。ここへ来て、扉を開ければ、いつでも会えると思っていたあの人はもういない。彼が卒業してからもう十日近く経つ。椿にはそれがいまだに信じられなかった。
「会長……か」
 椿は小さく呟いて生徒会室の鍵を開けた。自分がその名で呼ばれることにやっぱりまだ慣れない。会長としての仕事がいよいよ本格化し、今までの名ばかりではやっていけないほど、たくさんのことで手いっぱいの毎日を送っていた。
 けれど今日は定例会議もなく、久しぶりに早めの帰宅ができるはずだった。それなのに、生徒会室へ来てしまったのにはわけがある。わけ、というよりもひとつの習慣のようなものだった。
 水曜日、放課後、生徒会室で。
 それは椿と安形の二人だけの秘密の約束だった。
 なにかの呪文みたいに繰り返し唱えられたその三つの言葉は、椿のなかで――あるいは安形のなかでも――特別な意味を持っていたのかもしれない。
 今日は安形が卒業して、はじめて迎えた水曜日だった。


 誰もいない部屋の空気は凛と冷えていて頬につきささる。椿は中に入り、扉を閉めて鍵をかけた。
 ――鍵をかける仕草。
 些細な仕草でも、椿は安形とこの部屋で過ごした時間のことをすぐに思い出してしまう。
 薄闇の中で、自分は奥のソファに座っている。よく安形が昼寝をしていた、その場所だった。そこに腰かけて、鍵をかける安形をながめる。自分の隣へ安形がくるまでの、ほんの少しの時間や距離がもどかしいほど、思い焦がれていた。
 水曜日の放課後、安形と椿は決まって二人で一緒に過ごしていた。この部屋で、幾度となく繰り返されたのは不健全きわまりない行為で、決して褒められたものではない。全校生徒の手本でいるべき二人が、こんなところで欲に溺れているなんて、いったい誰が思いつくだろうか。
 最初はじゃれあうように触れるだけだったのに、いつの間にかエスカレートして、安形の指や唇は椿の肌に直接触れ、椿の知らない快楽を覚えさせていった。
 関係は日に日に色濃く濃密になり、二人の秘密が増えていく。それと同時に椿の中で、悪いことをしている、という得も言われぬ後悔も増長していった。それでも一線をこえてしまえば、おもしろいほどに転がり落ちてしまったのだ。彼の手を拒めずにいたのは自分だ。あの唇は自分の身体をやわらかく食んで、決して離さなかった。いつも蕩けるような心地よさに眩暈がした。それは回数を重ねるごとに、安形への恋情へと成り代わってゆき、水曜日が待ち遠しいと思うまでになっていた。
 その日は毎週やって来るのだ。――そう思っていた。いつの日だったか、安形とキスをしながらそんなばかなことを考えていた。
 勝手に、ずっと続く関係だと勘違いしていたのかもしれない。――今日だって、もしかしたら、なんて淡い期待を抱いて。頭の中ではわかっているくせに、とても滑稽だ。
 きっともう安形と一緒に座ることがないであろうソファにひとり腰掛けて、椿は目を伏せた。
 本当に何を考えているんだろう。
 意味の無い行動に呆れてしまう。それでもここに座ってしまうと、安形との行為が嫌でもフラッシュバックして、冷静でいられなくなる。ついこのあいだまで、この場所で身体を重ねていた。荒い吐息、重ねた唇からこぼれた唾液、これ以上ないほど密着した身体。自分を見下ろす安形の目や、回した腕から伝わる彼の背中の温度。
 思い出せば身体の奥が疼き、熱を持ち始める。同時に下腹部の違和感に戸惑った。そこを見遣れば、頭を擡げたそれが制服のズボンの下で窮屈そうに埋まっている。欲を持て余して、知り尽くした快感を待っているようだった。
 まさか、こんなところで――。一人で?
 どうしていいかわからない。
 一人でして、と半ばいじわるに言われたたこともあったけれど、その時は安形が一緒にいたのだ。けれど、一度反応してしまえば発散させることでしか治める術を知らない。不慣れな一人での行為は、不安と緊張感でいっぱいだった。
 椿はベルトを外してズボンの前を寛げた。それからゆっくりファスナーを下げる。恐る恐る手をのばして、下着のなかへ指を忍ばせていった。
 下着のなかは熱がこもっていて、勃起した性器に爪の先が触れると、痺れるような感覚に身体が揺れた。
「ん……っ、」
 自分のものなのに、いざ触れてみると身体が予想以上に強張った。生温かくて濡れたそこに指を這わせて、下着をずらしていく。目線を下にやれば、完全に勃起して先端の濡れた自分の性器が露になっている。椿は息を飲んだ。ためらいながらも、硬くなったそれをそっと手のひらで包むように触って、ゆるく扱く。性器は淡い桃色に色づき、すでに先端の窪みには先走りが溜まっている。そこに舌を押しこまれると、椿は呆気なく達してしまうのだ。安形がわざと椿の顔を見ながらそうしたことを思い出しながら、親指で先端を回す様に撫でた。
「あ、……んっ」
 とろりと先走りの蜜が流れ、人差し指を伝い落ちる。いつかされたように舐め取ってほしいけれど、安形はいないのだ。恥ずかしい妄想に追われながら、それでも快楽へと急いた指の動きが止まらない。恥ずかしくて、でも気持ち良くてたまらなかった。喉の奥から声がもれそうで、思わず手で口を塞いでいた。
 こんなふうに自分を変えてしまったくせに、さっさといなくなった安形を少しだけ恨めしく思う。椿はぼんやりと遠のく顔を脳裏に浮かべて、彼がしたことを思い出してなぞるように自分でしてみせた。
 ――キスをしながら、耳元で名前を囁かれながら。
 「椿」と安形の柔らかい低音が名前を呼んで、性器を強く握られる。そのまま唇が重ねられ、激しく舌が絡んでくる。くちゅくちゅと卑猥な音が大きく鳴り響くのは、安形の指が椿の性器を激しく扱いているせいだ。
 粗雑に動いていた安形の指や舌を想像すれば、射精感がこみあげてくる。
「ん、う、……っ……!!」
 小さく喉が鳴って、吐息混じりの声が漏れる。波打った性器の先端から、白く粘ついた精液があふれた。落ちないように、手のひらで受け止める。気持ち良さの余韻に腰が揺れそうになる。もっと知っている快感を、身体の奥が欲しがっている。その衝動を無理矢理跳ねのけるように、椿はぎゅっと目を瞑った。
 快感だけがむなしく身体をつらぬいて、優しい思い出が頭に過って消えていく。

 会長。

 胸のなかで呼んでいるだけでは、何も起こらないことだってわかっている。それでも、愛しいあの手が今でも自分を撫でてくれるか、確かめるのが怖かった。ほんの数日前のことなのに、もう随分と昔のことのようだった。
 いつだって安形は、大切なものをあつかうように自分に触れていた。
 拒まなかったのは、ただどうしようもなく彼のことを好きだったからだ。伝えていれば、関係は変わっていただろうか。
 いつかまた、きっと。
 そのいつかが、曖昧すぎて耐えられない。だから今はまだ、甘い思い出に縋って。




2011.3.6


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