第肆訓 味覚馬鹿って意外といるA


負けてられねェ――負けちゃいけねェ。

決して安らかとは言えない表情で眠り続ける山崎と、睨むように強い視線を送りつける沖田、そして馬鹿みたいに息を荒げながら駆けつけた近藤を、それぞれ順繰りに一瞥する。
彼の上司の、そして最も信頼のおける男の悲痛な叫びが聞こえてきた。その傷を確かに見たのだろう、もうやめてくれと訴えかけるような目をしていた。
そんな彼の情けない姿を見ると、どうにも笑いがこぼれてしまう。負けてはならないという強い思いと、杉原に対する怒りが増大していくにつれ、その笑みは抑えきれなくなってきた。

「近藤さん、一つ頼みがあるんだけどよ」

やけに弾んだ声に、杉原はぴくりと眉を動かす。近藤はわなわなと震える唇で言葉を返そうとしたが、うまく言葉が出てこない。そうして唖然としたままの表情で、彼はただ次の言葉を待っていた。

「……そんな悲しそうな声で、俺のことを呼ばないでくんねえか」
「……トシ……」
「あんたは部下自慢でもなんでもやってりゃいい。俺はそれでも怒らねえ。……だが」

彼は途端にその薄笑いをやめ、ぎらりと目に角を立てた。

「俺ァあんたを信じてんだから、あんたも俺を信じてくれよ」

その強い眼差しに震えも止まり、近藤は生唾を飲んで彼の目をじっと見つめる。――いや、視線が逸らせなくなっている。何かできっちりと固定されているかのようだ。その沈黙の時間は彼の中で非常に長いものとなり、彼に考えさせる猶予を与えた。が、それはどうやら必要がなさそうだ。

「……トシ。ザキのこたァ任せろ。存分に暴れてくれ」
「……ああ」

固まっていた表情が和らぎ、そうすると言葉もぽんぽんと飛び出してきた。体も今までより遥かに軽く感じて、彼は無意識のうちに足を一歩前に踏み出していた。刹那とたたぬうちに足はどんどん交互に前へ出る。気づけば拳を握りしめて走り出す土方とすれ違って、焦げたような跡の残る畳の上へ立っていた。

「総悟ォ!」
「あいよ!」

彼らはいつ何が起きてもいいよう、山崎の前を取り囲む。その手には木刀が同じように握られていて、妙にその壁は厚く見えた。

一方の土方は、彼らから戦場を離すべく、真逆の方向へ杉原を追いつめようとしていた。転がった木刀を取りに行く余裕は今はなく、ただがむしゃらに攻撃を加えるばかりだ。だが浅間が見ていないのをいいことに、彼女はもう一度縄を絡ませようと今度は様々な攻撃を仕掛けてくる。どうやら忍術もかじっていたようで、その身のこなしは彼でも追いつけないものがあった。
そのうち、彼の足に再び太い縄が絡まった。バランスを崩し顔を思い切り床に打ち付けるが、痛がる間もなく、彼は無事な方の足と両手だけで力任せにそれを引っ張ろうとした。やはり力は男に及ばないらしい、力の抜けたそのわずかな瞬間で、ふわりと彼女の華奢な体は浮いた。天井へ一度ぶち当たり、そのまま床を滑って庭へ落ちる。同時に彼もまた背中から倒れ込み、咳込みながらも足に絡まった縄をほどいた。運のいいことにすぐ近くに木刀が落ちているのを見つけて、彼は走りながらそれを拾い上げる。

「ちょっとぉ、女の子に何てことするの?」

立ち上がり、服についた砂埃を払いながら彼女は顔をしかめる。そんな隙を待ってましたとでもいうように、彼は間髪入れず木刀を構えたまま走り迫る。

「え? ちょっと」

対峙しながら会話を交わす展開を期待していた彼女は、その状況に戸惑い、思わず足が止まる。そんな彼女の顔をためらいもなく木刀で横なぎにとらえると、雄叫びをあげながら力いっぱい吹っ飛ばした。ちょうど死角になっていて、飛んで行った方向は瞬時に視界に入ってこない。が、障子が破ける音や壁をぶち抜くような激しい音が響いたから、きっとすぐそこにまた曲がり角があったんだろう。歩を進めると、思った通りの光景が広がっていた。どうやらいつの間にかまた戻ってきていたみたいで、隊士たちが呆然とその光景を見つめていた。誰もが砂煙の上がる方を見つめているから、土方が現れたことに気づいていない。

「ひっ……ひどいじゃない! 女の子の顔を殴るなんて最低よ!」

もはや口調さえ崩しながら、彼女は砂煙から這い出てきた。まだ気絶してなかったのかと、彼は目を細める。
彼女の顔はあの一撃で大きく腫れ、鼻血を垂らし、また口からも一筋の血が流れていた。その目は涙目で、彼の強さが思った以上だったことを知ったような、怯えた目をしていた。
だが彼は容赦などしない。木刀を振り下ろし、砂煙を切り裂く。表情一つ変えぬままじわじわと、その恐怖を弄んでいるかのように歩み寄っていく。
そうして彼女の前に立った時、彼は再びにやりと不敵な笑みを浮かべた。

「…………ねェよ」
「は、はあ?」
「……てめェの薄汚ぇ魂をよォ……女とは認めねェって言ってんだよ」

脳裏に栗色の髪が浮かび、そしてふっと消える。そんな小さな思い出のひとかけらを手にするように、彼は木刀をぎゅっと握りしめる。

「てめェ、負けた経験がねェんだろ。それも、窮地に陥ったことすら」

その言葉は図星らしい。彼女は震える声で「そうよ」と答え、無理して笑みを浮かべながらまた縄を手に取る。

「勉学、運動、忍術、実戦――私は全てにおいて誰にも負けたことはない。仲間はさておき、ね。それが何?」
「そりゃあお気の毒に。人間は敗北を知って強くなってくもんだ。人生ってのァそういう山と谷を繰り返してるんだよ。……お前は長い時間をかけて、大きな大きな山を登ってきた。その分、転落した時の代償も大きいっていうのは……分かるよな?」

あばよ、クソ女。
振り下ろした木刀は真っ直ぐに彼女の脳天をとらえ、少しの静寂のあと、その体は静かに崩れ落ちて行った。

「けっ、口ほどにもねえ」

彼は煙草を口に咥え、またいつものように火をつける。吐息に一つ色を付けたところで、事を理解した隊士たちから喜びの声が上がった。それは屯所のみならず、まさに江戸中まで轟きそうな勢いだった。
それを聞きつけてきたのか、角から浅間が現れた。どうやら姿を見せる前からわかっていたようで、既に諦めたように目を伏せている。

「……勝者、土方さん。よってこの対決、近藤一派の勝利とします」

その言葉が口から出たのも、またすぐのことだった。


喜びも冷めやらぬうちに、両陣営からそれぞれ三名が門の前で対峙していた。四日前に破壊され、まだ仮の状態のまま放置してあるその門は、まさに満身創痍の彼らを表すにふさわしい背景となっている。

「今回の件はお疲れ様でした。やはり真選組とは、侮れぬ組織だとよく分かりましたよ」

浅間は血まみれで気絶している杉原を抱えながら、そう軽く頭を下げる。浦松は近藤たちを睨みつけるように一瞥したあと、何も言わず、一足先に半開きの門からその場を去っていく。
そのあとを追うように浅間もまた背を向け、門へ向かって一歩ずつゆっくり歩いていく。どうやら平和主義のためか、あまり力がないらしい。女一人を抱え込むだけでもふらふらと足取りがおぼつかない。
そうそう、と彼はくるりと振り返る。

「近藤さん、私はまだあなたの“副長自慢”を聞いていない。……いつか、また聞かせてくださいね」

ああ、とは答えられなかった。うまく言葉では表せない恐怖感が一瞬、近藤のことを襲ったからだ。土方と沖田は頭に疑問符を一つ浮かべ、視線を彼にやる。
彼ら二人の目には、それは何ら変わりのない笑顔に映っていた。


先程から携帯のバイブレーションが鳴り響いている。門の外で待っていた浦松に杉原を預けると、浅間は門が閉じたのを確認してから懐へ手を入れる。

「全く……何通メールを寄越すんですか」

やたらと目につく文章に、毎回写真が添付されている。もうブログかツイッターでも始めたらいいのではないかと思うくらい、そのマメさにはあいた口が塞がらない。面倒なので、いつものように返信はせずアドレス帳を開く。何通もメールを交換するより、電話で会話する方がよっぽど手っ取り早い。
いつ何時も携帯を手放していないのか、ワンコールもしないうちに相手は出た。挨拶の前にため息が出て、彼は苦笑いしながらおもむろに口を開く。

「ええ、やはり乗っ取りは失敗です。まあ本来の目的ではありませんから、できたらラッキーくらいの心構えで正解でした。……こちら側のショックは思った以上でしたがね」

彼の目が怪しく光ったのを、浦松は確かに見た。穏健そうな顔をしている奴ほど腹が黒いというのは、もはや定番なのだろうか。

「なかなか面白い連中でしたよ、彼らも。……ええ。……はい……分かりました。それではまた、佐々木さん」

彼は通話を切り、携帯を懐に仕舞い込んだ。


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