第弐訓 山と谷はバランスよく存在するA


(まだ十月なのに、随分寒いなぁ……人もいないし)

大江戸マートから出てきた新八の横を、冷たい風が走り去る。どこから落ちてきたのやら、茶色く枯れ果てた落ち葉を足に絡めながら。

(急がないと、日が暮れちゃう)

彼は帰路を小走りで急ぎ、また体も少し温める。道に人気はなく、唯一仕事帰りの大人たちと時折すれ違うくらいだ。本当にここがかぶき町なのかと錯覚してしまうほど、不気味にしんと静まり返っている。そのどうしようもない不安をかき消すように、自然と足が速くなっていった。

日はほとんど見えなくなっていて、空の低いところが赤く染まっているだけとなった。明るい星はちらほら輝きだし、月も少しずつその姿を現してくる。
そんな田舎のような静寂とは裏腹に、万事屋では相変わらず苦情が来そうなくらいのお祭り騒ぎが行われているんだろう。確か月詠をはじめとする数人は、用事があってそろそろ帰るんじゃなかったか。新八は今それを思い出し、やってしまったというように眉間にしわを寄せた。また後日別の形で礼をしなければと、彼は道を行きながら思う。

さて、菓子を作ったら何をしようか。銀時の喜ぶ顔がちらついて、どうしても笑みがこぼれてしまう。まずは夜中までとことん騒いで、疲れ果てたところで床に寝っころがって、次の日は片付けに追われて――。

ふと、足が止まる。おかしいな、万事屋はもう近いと言うのに。
体が動かないのは――なぜ?

視線を――とてつもない殺気を感じる。まずい。息がかかりそうなくらい近くに、“何か”がいるような気がしてならない。それが今巷を騒がせる“奴”なのか、はたまた別のものなのか。どちらにせよ、危険なものであるのは確かだった。

高鳴る鼓動とは裏腹に、驚くほど冷静に彼は物事を考えていた。こんな漫画みたいな展開があるものか。今日はせっかくのパーティだというのにと、わずかな時間に彼は心の中で文句を垂れる。どうすればこの状況を打破できるのか。指先すらぴくりとも動かせぬ中で、彼は持ち合わせるだけの戦闘知識を頭の中に思い浮かべる。

動いたら決まる。ごくりと生唾を飲み、運よく空いていた右手で木刀の柄を掴み、一気に振り向きざまの一太刀を浴びせた。が、空を切るばかりでそこには何もない。
勘違い。そんなわけがないと彼は気配を感じ取ることに集中するが、本当に何も感じられなかった。

(嘘……じゃない!)

今度は右に振るが、これも外れだった。だが、その正体はわずかに視界の端に見えた。ほんの一瞬、平屋の瓦の上に――。

「!!」

右手に鋭い痛みが走り、衝撃で木刀が吹っ飛んだ。それが何かを確認する暇もなく、続けざまに体のあちこちから鈍い音が響き渡る。顔をかすめたそれが眼鏡を引っ掛けて落とし、余計に視界を悪くした。鉛色の何かが体から生えているのは分かったが、眼鏡が取れたばかりでぼうっとしか見えない。
一度地面に背中を打った彼だが、まだ奇跡的に無傷である右足一本でふらふらと立ち上がった。このままここにいてはまずいと、本能的に足は万事屋のほうへ動き出す。歪んだ視界に遠のく意識を何とか保たせて、彼は左足を引きずった。

「……あ……」

目の前に、黒ずくめのすらりとした誰かが立っている。左手に、月光を浴びて青白く光る刀が握られているのだけは確かに見えた。目を見開き、そして静かに細める。その表情には諦めさえ感じられた。

刹那、そこには血の跡だけが残る。


「新ちゃん……遅いわねぇ」
「んー? 確かにな……」

既に時刻は夜の八時を回っていて、新八が家を出てから既に四時間にもなる。パーティはとうに解散していて、ほとんどの人は帰り、残る数人も疲れて床に突っ伏して寝ているという状況だった。案の定荒れ果てた部屋で、見るからに掃除には骨がいりそうだ。
妙は眠そうな目をこすりながら、新八の帰りを待っていた。銀時はまだ少しだけ残っているいちご牛乳を飲み干し、ぼうっとバラエティ番組を見つめている。起きているのは今二人だけだ。

「どこいったのかしら……新ちゃん」

自他ともに認めるほどのシスコンブラコン姉弟である故、彼女は彼のことが気がかりで仕方がなかった。確かに年頃だから、その辺の女と遊んでいるかもしれない――それでも遅すぎる。

「銀さん。……あれ、銀さん?」

銀時もまた睡魔には勝てなかったようで、ソファに項垂れて静かに寝息を立てていた。妙も向かいのソファでそわそわしながら弟の帰りを待っていたのだが、やがて重い瞼が彼女の視界を覆う。気づけば眠りの世界へ、彼女も誘われていた。


関わりたくない人間というのは、誰しも一人はいるだろう。それがただの嫌悪であったり、はたまた嫉妬であったり、愛しすぎた結果であったり――理由は様々だ。
土方の場合は、限りなく嫌悪に近い嫉妬だ。“似た者同士”とは称されるが、その腕は向こうのが上回っていて、また不思議と信頼も厚い部分がある。真選組の関係した大きな出来事には大体奴が現れ、説教を垂れ、おいしいところだけをかっさらっていく。助けてもらっているという恩がないわけでもないが、どことなくもやもやした気持ちが残る。自己嫌悪。その感情も、密かに彼の頭の中をぐるぐる歩き回っているかもしれない。

もう丑三つ時だというのに、かぶき町の一角ではけたたましいサイレンの音と真っ赤な光がひっそりとした夜の町を彩っていた。辺りには闇に溶けそうな黒い隊服の人間と、事件を嗅ぎ付けたマスコミ数名ほどしかいない。黄色いテープで規制しても、野次馬など一人も存在しなかった。

「……ったくよォ、せっかくマヨリーンと夢の世界に飛んでたってのに」

新たに停まった一台のパトカーからは、腫れぼったい目に寝癖のついた髪という、完全に寝起きの姿をした土方が降りてきた。少し遅れて、運転席からは本日補佐を担当している神田が姿を現す。

「土方さん、遅かったじゃねェですかィ。こんな時におねんねたァお気楽ですねィ」
「うるせェ俺は非番だったんだよ」

近くの夜間警備に当たっていた一番隊の隊長である沖田が、早速土方に声をかける。皮肉まじりの沖田の挨拶に、彼は苛立った様子で言葉を吐き捨てた。
彼の機嫌は恐らく、今までで一番悪いだろう。それもそのはず、夜間警備から外されてぐっすりいい夢を見ているときに、突如事件だと叩き起こされ、急いだものだから煙草もマヨネーズも忘れてきた。更に中途半端な睡眠時間のせいで、胸焼けもひどい。事あるごとに舌打ち、ため息。隊士たちは完全に恐れをなしていた。

「あーっ、今回はどーなってんだァ?」
「それがですねィ、ちぃと面倒なことになりやして。被害者が奇跡的に生きてたんでさァ」
「……それのどこが面倒なんだ? 犯人を見てる可能性もあるだろ、絶好の機会じゃねえか」

彼は沖田の言葉の意味を少し考えて、その矛盾点を指摘する。すると沖田は「それがですねィ」と再び言葉を繰り返し、もったいぶるように少し間を置いた。

「被害者、旦那んとこの眼鏡だったんでさァ」
「……ああ、そりゃあ面倒だ」

不機嫌が一回転して、彼は呆れたようなため息をつくほかなかった。


遠くの方で、何かが鳴り響いている。夢か現か、色を混ぜたように境目がよどんでいてはっきりしない。だが次第にそれが近づいてくるのを感じ、ある瞬間にはっと現実であることを知った。
銀時は首に寝違えたような鈍痛に引っ張られるように、ゆっくり目を開いた。左耳の鼓膜が破れそうだ。そちらの方に目を向けてみると、黒電話が一定の周期で振動を繰り返している。ベルの音はあまりにも長く聞きすぎて、すぐに気づくことができなかった。
彼はソファから立ち上がりながら、周りのゴミと一緒に転がっている知り合いの顔をなんとなく確認する。そういえば誕生日パーティをしていたんだなと、彼は今更になって思い出した。

がちゃりと受話器を手に取り、大きな欠伸をかきながらそれを耳に当てる。

「はいもしもし、万事屋ですけど……」

眩しい朝日に目を細めながら、彼は低い声で応答した。だが、徐々にその死んだ魚のような目は見開かれていく。ぶるぶると、かつてない震えが、受話器を握る右手を襲っていたのが分かった。

「……あれ、いつの間に寝て……」

その後ろで、ソファに寝そべっていた妙がゆっくりと目を覚ました。彼女もまた目を細めつつ、その光を遮る男の方へと目を向ける。だがまるで彼は静止画のように受話器を握りしめたまま、相槌さえ打っていない。本当に電話をしているのだろうか。昨日はしゃぎすぎて、頭がおかしくなってしまったのでは。いらぬ心配をしつつ、彼女は「銀さん?」と彼に声をかける。だが彼は振り向かず、じっと朝日の方を見据えていた。

唐突に、彼が振り向いた。受話器を投げ、足元に転がる牛乳パックやらなんやらを蹴っ飛ばしながら、彼は一目散に外へ向かっていく。

「銀さん、どこ行くんですか! ちょっと、ぎ――」

彼女ははっと目を覚まし、彼を追いかけようとしてその足を止めた。床につくかつかないかのあたりにぶら下がっている受話器から、彼を呼ぶ声がかすかに聞こえたことに気がついたのだ。彼女は嫌な予感を覚えつつ、その受話器を耳に当てる。

「すいません、銀さん今出ていきまして……」
『もしかして姉御ですかィ? 分かりやすか、真選組の沖田です』
「え、ああ、はぁ……」

無機質な声の名は、なんとなくだが覚えている。ぼんやりと、眼鏡を取った弟に似た、可愛らしい顔の青年の姿が浮かんだ。

『実はですねィ、お宅の弟が昨夜何者かに襲われまして……今、大江戸病院の集中治療室にいるんでさァ。それで少し話を聞きてェんですが、今から来れますかねィ』
「……えっ」

あまりにも淡々としたその言葉に、彼女は一瞬何が何だか理解ができなかった。新八が襲われて――大江戸病院にいる? とすると、銀時はそこへ向かったのだろうか。そうなると彼の慌てぶりにも合点が行く。

『ああ、あのチャイナ娘と……一緒にいた奴らもできるだけお願いしまさァ』
「……わ、分かりました」

震える声で答えて、彼女は静かに受話器を置いた。銀時が開けっ放しにしていった窓からは、強い風が流れ込む。おかげで部屋がすっかり冷えてしまったようで、爆睡中だった神楽たちも徐々に目を覚まし始めていた。
その横で妙は、情報を整理するのにいっぱいいっぱいになって、ただ呆然と玄関の方を見て立ち尽くすばかりだった。


「悪かったなァ、トシ。昨日事件があったなんて。俺も起こしてくれればよかったのに」
「悪ィな近藤さん、急ぎすぎて手が回んなかったんだ。神田が報告書をまとめているから、事件の概要はこいつから聞いてくれ」

朝方、屯所にある近藤の部屋には土方と、それから昨夜から補佐についている神田がよくみる黒いバインダー片手に座っていた。屯所の人間はほとんど警備か捜査か被害者の様子を見に行ったりしているので、そこは妙なほど静まり返っている。朝から能天気な雀のさえずりが、彼らの耳にも確かに届いていた。

「おお、それじゃあ早速報告を頼む」
「はい。被害者は志村新八、万事屋でアルバイトとして働く十六歳の少年です」
「え?」

近藤は目を見開き、自分の耳を疑った。神田の言葉に間違いはなかったが、繰り返しその名を言ってもらっても、彼は信じられないという様子だった。体は正直なようで、先程からぶるぶると唇が震えている。そこからこぼれる言葉もまた、ぎこちなく震えたものだった。

「し、死んだのか?」
「いえ、発見が早かったため一命は取り留めています。現在大江戸病院に入院中で、意識不明の重体です。発見当時、体には幾つかのクナイが刺さっており、また胸のあたりを真一文字に斬られていたらしいです。第一発見者によると、近くの細い路地に項垂れているのがたまたま見えたとか」

淡々と、言葉につかえることなくすらすらと報告していく神田。その言葉に近藤は一喜一憂し、二度のため息の意味もはっきりと違うものだった。彼の大袈裟な様子の変化に、不謹慎ながらも土方は少し笑いそうになる。その邪念を振り払うかのように、彼は一人で小さく首を横に振って、真っ白な息を吐き出した。それはすぐに空気に溶け込んでしまって、あとは煙草独特の嫌な臭いだけが残る。神田は少し迷惑そうな顔で土方を一瞥したあと、報告は以上であることを告げた。

「……で、どうされたんですか、局長。いつもと様子がおかしいですよ」
「ああ、クスは知らなかったな。万事屋とは腐れ縁でね、ちょくちょく関わることが多いんだ。局中法度第四十六条を覚えているか?」
「ええ。“万事屋憎むべし。ただし新八君には優しくすべし”……でしたよね。それと何か関係が?」

彼はあくまで“被害者である”という概念でその話を聞いているために、特別興味があるという様子ではなかった。まるで事件の聞き込みをするかの如く、一問一答の形式で話を進めていく。対する近藤は昔話を語るかのような口調でいるものだから、話がかみ合っているようで実はずれかけていることに気づいていない。傍観者から見ると、頭に疑問符が浮かびそうな会話だ。

ひとしきり万事屋のことについて近藤から聞き終えると、神田は時計を一瞥して立ち上がった。本来この時間は吉村が担当するから、そろそろ交代しなければということだった。

「今からはどうするつもりだ?」

土方の質問に、彼は少し考えるように黙り込んだあと、

「僕はとりあえず、志村新八の様子を見てきます。確か先に山崎さんが向かっていましたよね? 一度情報収集についての相談もしようかと思いまして」

と、まるで台本を熟読したかのようにすらすらと言葉を連ねた。近藤は小さく感心しつつ、自分たちも後から向かうことを告げる。それを了解すると、神田は一足先にその部屋をあとにした。

雀たちのお見送りの中、彼は一人縁側を歩く。


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