静雄03
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静雄さんは優しい、優しい、優しいと自分に言い聞かせる。
眼の前にいる彼は悪い夢なんだと思い込んでしまいたい。でもそう割り切るには愛しい彼にそのひとは似すぎている。愛していると囁きそうになるほど、静雄さんに似ている。
嫌だ、とわたしは涙を流した。
「逃げるな。お前も俺から逃げるのか」
「止めて下さい……、嫌!」
「そうやってお前も! お前だけは、許さない、絶対に誰にも助けなんか呼ばせない!」
馬乗りになっている彼は泣きながら、わたしを殴った。静雄さんが手加減なしで殴ったりなんかしたらわたしは一瞬で死んでしまう。だからこれは静雄さんではない。それに彼がこんなことをするわけがない。
夢だ。夢。夢なの、これは夢!
夢だと分かっているのなら、なぜ瞼からこいつは離れてくれないのだろう。
わたしはこんなにも静雄さんを愛しているのに、何でわたしは彼から逃げているんだろう?
悔しくて、涙が出てきた。
「ごめ、なさ……。ごめんなさい、ごめんなさい――――」
「ふざけるな。俺を何で拒否するんだ。お前は俺の、」
「ごめんなさい、ごめんなさい」
眼を閉じて、わたしは叫んだ。
「ッ、なまえ!」
「ごめ――――え?」
「おい、なまえ……っ」
肩に温もりを感じる。それでいて、強くつかまれたそこからはじくじくと痛みが生まれてきた。わたしはひ、と情けない悲鳴をあげて瞳を開いた。そこには焦った顔をした静雄さんがいて、わたしをじっと覗き込んできた。
見ていた夢が夢だったから、わたしは無意識に涙を流していたらしい。いつもはサングラスで隠されていて見えない綺麗な瞳がわたしを見ている。やはりあれは夢で、隣で寝ていた静雄さんをわたしは起こしてしまったらしかった。
「どうしたんだ? すごいうなされてたから起こしたんだが……迷惑だったか?」
「い、いえ……ありがとう、ございます」
まだがたがたと身体が震えている。怖い。静雄さんはこんなに優しいのに、どうしてあんなものを見てしまったんだろう。ぎゅう、とあやすように抱きしめた彼さえも拒否しそうになる。温かさに間違いなくわたしは癒されているのに、それと同じくらい恐怖を感じている。
「震えてる。やっぱり怖い夢見たんだろ? 話してみろよ。言ったほうが楽になるだろ」
「……ありえないって分かってるんです」
「おう」
「静雄さんが、怖い顔をして泣いていました。わたしを突き飛ばして、叫んで」
「――――」
「そん、なことないのに……! あるわけない、のに。殴られて、許さないって……」
ひっくひっくと、馬鹿みたいに嗚咽が止まらなくなる。静雄さんはわたしを抱きしめながら、戸惑っているようだった。
嫌だ。こんな風に弱いわたしが嫌いだ。どうして夢の中までちゃんと静雄さんを抱きしめてあげられなかったんだろう。どうしてわたしはあのひとに大丈夫ですよって言ってあげられなかったんだろう。
わたしはどんな静雄さんでも愛していくって誓っていたのに。
「俺が、なまえを殴る、か。キツいな、それ」
「痛いのはわたしじゃなくてきっと、静雄さんの心だったんです。あんなに苦しそうに笑う静雄さんなんて、見たこともない」
「お前は怖くなったのか? 夢の中の俺が、嫌いになったか?」
「――怖い、です」
優しく問われ、ぼろぼろと涙が零れる。口に出すとこんなにも重い。これは静雄さんを傷つけることにしかならない気持ちだ。痛くて、怖くて、逃げたくて、でも、嫌いになれやしなくて。
「静雄さあん……嫌です、怖いんです! わた、わたし、」
「なまえ」
「こんなにも静雄さんが優しいひとだって知ってて、苦しいくらい静雄さんが好きなのに、大好きなのに! やだ、やだよう……! どうして、わたしは静雄さんをぎゅってできなかったんですか! もう、やだ! 静雄さんを傷つけることしかできない……よ」
「なまえ、落ち着け」
大きな手のひらが、わたしを撫でる。うう、と更に涙が溢れた。静雄さんの優しさが怖い。わたしは醜くて、一回そんな夢を見ただけで静雄さんを怖がってしまう人間なんだ。他人に向けられていた暴力が自分に向けられたとき、あんなに冷たい気持ちになるんだってことを、初めて知った。
「今は泣け。存分に泣け。俺はここにいるし、お前を殴ったりなんかしねぇよ。だけどな、俺が怖いなら怖いって言って良いんだ。それでもお前が俺を好きって言ってくれるんだから、他には望まねぇ」
「す、き。あいしてる。だいすき。せかいでいちばん幸せにしてあげたい。静雄さんが笑ってくれるなら、わたしはいなくても良いくらい、あいしてる!」
号泣してくしゃくしゃの顔で静雄さんにもっと強く抱きついたら、瞼にキスをひとつ落とされた。
彼は泣き出しそうに、恥ずかしそうにはにかんだ。
「お前がいるから、幸せなんだ」
――殴っても良いよ。
今度、夢であの寂しい静雄さんに会ったらわたしはそう伝えよう。それから強く強く抱きしめて、このまあるい気持ちをあげるんだ。
どんな静雄さんでも愛したいから、とりあえずまたよろしくねって。
ぎこちなかったかもしれないけれど、わたしも静雄さんに笑顔を返す。
弱いわたしは静雄さんに依存して、生きていくのだ。
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